赤く染まって

「……はあ……はあ」


 前屈みになり、膝に手をついて、僕は荒くなった息を整える。そうやって幾らか気持ちを落ち着かせてから、周りを確認した。

 我武者羅に走ってきたせいか、街の中央辺りにやってきてしまったようだ。すぐ近くには中央広場の入り口が見える。夜には式典が始まるはずだが、今は誰の姿もなかった。不気味なほどの静けさだ。

 ……走ってきたせいなのか、また少し頭が痛い。

 中央広場の中へ、僕はふらりと入っていく。整列したパイプ椅子に簡素な演台。それ以外には飾り付けもないけれど、これを炎天下の中一人で準備した双太さんは相当に大変だったはずだ。

 奥には記念碑がある。僕の背より高い、二メートル弱はあろうかという細くて大きな碑だ。そこには何も書かれていないけれど、牛牧さんはこの碑に、人々を災いから守り、繁栄に導いてほしいという願いを込めて作った。

 今、街に降りかかっている災い。鬼の祟りだと住民たちが信じる、悲劇の連鎖。……この碑に込めた願いは、所詮儚いものなのだろうか。災いが退けられることはないのだろうか。

 頭が……痛む。


「…………」


 どこからか視線を感じる。さっきの恐怖がまだ、尾を引いているのかもしれない。辺りはさっきから、ずっと静かなのだから。ぐるりと周りを見回してみても、人っ子一人いない。僕を見る目なんてないはずなのだ。

 でも、嫌な気配は消えない。……微かな寒気を伴って、それは残り続けている。……一体誰だ? どこかで僕を嗤っているのは、誰だと言うんだ。

 視線を意識する度に、頭の痛みが強くなってくる。その痛みも、視線も振り払いたくて、僕は頭を緩々と振りながら広場を抜け出た。

 何かがおかしい。右から、左から、視線は僕を突き刺してくる。その正体を知りたくて、僕は不意を突いて振り返ってみる。けれどそこには誰もいない。ただ家並みが、道標の碑があるくらいだ。

 ……道標の碑。今でこそそんな名前で呼ばれているけれど、この碑が立てられた理由は、鬼の祟りを鎮めるため。つまり、鎮め石だったのだ。こんなにも鎮めの碑が沢山あるというのに。祟りが続いているのでは、何の意味もありはしない。

 いや、それだけじゃない。……どうしてか、この碑から視線を感じるような、そんな気さえしてきてしまう。この碑が鬼に侵食されて、碑を通して僕を見つめているかのような、薄ら寒い気配……。


「馬鹿馬鹿しい……」


 言い聞かせるようわざと吐き捨てるように言って、僕は痛む頭を手で押さえながらふらふらと歩いた。もう、どこへ向かっているのか分からない。考えられない。誰かに助けてほしくてたまらなかった。安心して休めるところがほしかった。

 もう……帰ってしまおうか。

 耐えきれなくなって、僕は家の方へ体を向けようとした。

 だが――。


「うわッ……!」


 轟音が、突如として響いてきた。それとほぼ同時に、大地が震動する。そんな馬鹿な。これは、昨日と同じじゃないか――。

 立っているのが難しいほどの縦揺れが数秒間続いた。その揺れが収まっても音は止まない。嫌な予感がして山の方を見上げると、予感が当たっているのがすぐに分かった。

 また、土砂崩れが起きたのだ。

 ずるずると、斜面が崩れ落ちていく。悪夢の再現だった。昨日崩れた場所を起点にして、相当な横幅の大地が抉れ、崩落していった。その直下には電波塔がある。今度ばかりは、衝突は回避しえない場所だ。

 凄まじい砂埃が山を包んだ。その黄土色の中に、電波塔も沈んでいく。

 ……とうとう、鬼の祟りが電波塔を崩したのか。あまりのことに、呆然自失の状態でただただ浮かんだのがそんな思いだった。

 しかし、砂埃が風に払われた後、そこにはまだ電波塔がしっかりとそびえていた。どうやら広い範囲の土砂が削れたものの、あまり深く抉れたわけではなかったようだ。流れ落ちる土砂の量も昨日のそれより少なかったであろうことが、跡を見ればよく分かる。貴獅さんたちにとってみれば、これは不幸中の幸いだろう。……二日連続で土砂崩れが起きる時点で、有り得ないくらいの不幸だが。

 鬼の祟り。もう、それで決着させてしまいたくなる。でなければ、どうしてこんなにも次から次へ、気味の悪い凶事ばかりが続いてしまうというのか……。


「大丈夫? 玄人くん」


 声がした方を向くと、そこには心配そうにこちらを見つめる千代さんがいた。……そうか、ここは秤屋商店の前だ。千代さんも、地震に驚いて外へ出てきたらしい。それで僕の情けない姿を見つけたわけだ。


「……はい、大丈夫です。突然地震があって、土砂崩れがあって、びっくりして……」


 さっきから続く頭痛のせいで、頭を押さえて目をぎゅっと瞑りながら、僕は千代さんに言う。彼女も不安そうな表情で、


「昨日もあったわよね……また、大きな地震がくるのかしら。怖いわ……」

「ですよね……昔、お店が潰れちゃったんですもんね」

「半壊、だけどね。怪我もしちゃったし……大変だったから」

「怪我……そりゃ、しますよね」

「ええ。私はまだマシだったんだけどねえ……」


 私は、ということは、千代さんの両親は大怪我を負ってしまったのか。お店が半壊したのだから、瓦礫の下敷きになったりしたのかもしれない。それなら、運が悪ければ死んでいてもおかしくなかっただろう。


「……これ以上の大地震がこないことを祈りましょう」

「そうね……」


 千代さんは溜息を吐いて、潤んだ瞳でこちらを見つめてきた。

 ――そして。


「……え……!?」

「……どうしました、千代さん」


 彼女の表情が急変する。僕もそれにびっくりして、慌てて訊ねる。


「く……玄人くん、あなた……」


 千代さんの声が、いつになく震えている。怯え? でも、突然怯えだす理由なんてあるだろうか。それも、僕を見て……。

 瞬間、意識が遠のく。千代さんが何かを言っている。暑さと痛みのせいか、思考がはっきりしない。僕はしっかりしなくてはと、歯をぐっと食いしばった。

 千代さんの言葉が、聞こえた。


「玄人くん……あなたも、目――」


 目?

 僕の目が……どうしたって?

 彼女はまだ、僕の方を見て怖がっている。

 今にも泣き出しそうな顔で、ずっとこちらを見ている。

 逸らしたくても逸らせないとばかりに、ずっと。

 頭が、痛い。

 商店のガラス戸に、自分の姿が薄っすらと映っている。

 僕はそこに映る顔を見る。

 呆けた顔。

 真っ直ぐに見つめる、目。


 ――赤い目が、あった。


「うわあああッ!!」

「玄人くん!」


 何故だ。

 何故、何故、何故、何故。

 訳が分からなかった。

 どうして自分の身にこんなことが起きているのか、全然理解出来なかった。

 そんなことある筈がない。

 この目が赤く染まっているなんて、ある筈がないのだ!

 だって、それは、それはつまり、鬼の狂気に呑まれてしまったということで。

 僕の頭がオカシクなってしまったということで。

 でも、そんな筈はないのだ。

 だって、僕はまだ普通に、こうやって自分の意思を持っていられているじゃないか!

 狂っているわけがない。

 僕は、鬼になんか祟られていない。

 僕は――正常なんだ。

 頭の痛みがどんどん増してくる。こちらを見つめる視線も増えてきているような気がする。

 そんなこと、有り得ない。

 でも……でも、感じるんだ。

 すぐそこまで、鬼が迫ってきているような、恐怖。

 振り返ればそこに、鬼が立っているかのような恐怖……!

 走るしかなかった。躓いても、転んでも、逃げる以外に何も考えられなかった。逃げている間だけは何も起こらない気がして、そうであることをただ願って、走り続けた。

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