名前を呼ぶ声

 山へ行こうと思い立ったのは、やっぱり皆のことが気になったからだ。無理はしないけれど、せめて一ヶ所だけ行っておきたい場所があった。そこは僕たちしか知らない秘密の場所だから、他の人たちはまだ探していないはずだった。こんなにも長く身を隠していられる場所は。そう考えると、あの基地はそれなりに可能性のあるポイントだった。

 木々は自然の屋根になって、陽射しから守ってくれる。幾分涼しい山の道を、僕は慎重に歩いていく。疲れのせいか足がもつれそうになるけれど、枝葉の散乱する地面をしっかりと踏みしめて、転ばないように進む。

 いつもより若干時間が掛かったが、ようやく秘密基地に到着した。この蚊帳も、中のテントも、不思議と懐かしい気持ちになる。よもや、一人だけでここに来ることになろうとは。


「……ふう」


 蚊帳を抜け、僕は自分の椅子を引っ張って来てそこに座る。ここまで来るのに結構体力を消耗してしまった。意識しないようにしていたが、暑さと疲れはしっかり体を痛めつけているようだ。


「……誰も、いないか」


 それなりに期待はあったのだ。ひょっとしたら、このテントで寝泊まりしているのではないかと。しかし、秘密基地には人の気配がなかった。この自然に囲まれた場所で、僕一人がぽつんと存在しているだけだった。

 虎牙。龍美。今、どこで何をしているんだろう。

 この不安が、杞憂であればどれほどいいか。


「……」


 基地をぐるりと見渡していたとき、ふと小さな引っ掛かりを覚えた。

 ……勘違いかもしれない。でも、物の配置が僅かに変わっている気がしたのだ。

 風が吹いて、位置がずれたのだろうか。いや、どうもそのずれには人為的なものを感じる。

 誰かが……ここへやって来た?


「ううん……」


 前回秘密基地を訪れたのは五日前、七月二十七日のことだ。あの日はまだ龍美がいて、満雀ちゃんと三人でここに来たのだった。

 ただ、その日僕は片付けを龍美に任せて、満雀ちゃんを病院まで送っている。だから僕が立ち去ったあとに、龍美が色々と配置を整えていったということも十分あり得た。誰かが来たのかもという考えは僕の希望的観測であって、実際には誰も来ていない可能性の方が高そうだ。

 しばらくの間、椅子に腰かけてぼーっとしていた。一人きりでここにいると走馬灯のように、皆で過ごした日々のことを思い出してしまう。蚊帳を張ったりテントを立てたり、一所懸命になって基地を完成させたこと。親に内緒でお菓子や飲み物を持ち込んで、ささやかな贅沢を楽しんだこと。どうせなら秘密の研究をしてみたいという流れになって、EMEを製作したこと……全てが遠い昔のことのようだ。せいぜい数ヶ月前までしか遡らないはずなのに。

 ……ムーンスパローか。


「……よし」


 特に目的はなかったけれど、僕はムーンスパローを起動してみることにした。秘密基地に来たのだから、触っておきたいと思ったのだ。僕らの青春の証。四人で作り上げた、小さな電波塔。


「……はは、もしもこれが街の人に見つかったら、大変かもな」


 電波塔に反対している住民たちは、僕らのムーンスパローを見たら何と言うだろうか。まあ、肯定的な意見は出そうにないな。

 一人で全てを用意するのは中々骨が折れたが、とりあえず設置を終えて、パソコンを立ち上げる。四人で決めたパスワードを入力して、アカウントにログインした。

 『moonsparrow』。毎回思うけれど、実にそのままなパスワードだ。

 デスクトップ画面になり、常駐プログラムが起動するまで待ってから、僕はレッドアイのアイコンをダブルクリックした。忽ちシステム画面が開く。これまた懐かしさを感じる。

 ……そう言えば。

 『レッドアイ』というプログラム名は、日本語に訳せば『赤目』。流石にただの偶然だろうが、妙な符合があったものだ。メニューのヘルプから、製作者である『M.Umano』という人物のコメントを閲覧できるのだが、レッドアイという名称は、とあるミステリに登場するプログラムをオマージュしたと記されていて、その小説を知っている身からすれば、ははあなるほどと頷けるものだった。同じ著者の作品に赤目姫という人物が登場するものもあるし、製作者はきっと小説の大ファンなのだろう。

 ……赤目に対して、あまり過敏になり過ぎない方がいいかもしれない。それこそただの偶然で、理魚ちゃんもあのお爺さんも、不調によって目が充血していただけという可能性もあるのだから。いくら確率が低いとはいえ。

 鬼の祟りを持ち出すのは、最後の最後……だ。


「……あれ?」


 ムーンスパローを動かそうとして、僕は気付く。どういうわけか、今までの履歴が消去されているのだ。

 ……龍美が消したのだろうか。いや、僕はあの日、最後まで片付けはしなかったものの、パソコンの電源は落として帰った。その後また龍美がパソコンを点けて、わざわざログを消したとは考えにくい。まず第一、消す必要がないはずだ。

 やはり、誰かがここへ来てパソコンを操作していた? だとすれば、その人物は一体誰なのだろう。

 アカウントにログイン出来る人物。パスワードを知っている人物。……それは、僕ら四人にしか当てはまらない。

 じゃあ、ここへ来たのは。


「……何だよ、それ」


 虎牙か龍美か、或いは二人ともなのか。それは分からないけれど。

 多分、ここへ来たのだ。何らかの目的があって。

 ……辿れなかった痕跡。ようやく……ようやく、掴めたのだ。

 二人はきっと、無事でいる――。


「……玄人」

「……え?」


 聞き間違いかと思った。だって、人気がなかったから。

 でも、声は確かに聞こえていた。それは、僕の名前を呼ぶ声だった。

 ああ……懐かしい声。

 大切な、友の声。

 ゆっくりと立ち上がって、振り向くと。

 そこには夢幻なんかじゃなく、しっかりと存在する、彼の姿があった。

 義本虎牙。僕の、かけがえのない親友の姿が。

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