第58話 間一髪

 俺がとある場所に身を隠した直後、カチャリと玄関が開かれて、穂波さんたちが家に入ってきた。


「どうぞ」

「お邪魔します」


 あのほんわかとした口調ではなく、今日はどことなくはきはきとした喋り口調。どうやら、穂波さんと二人きりの状態では、鬼の保奈美モードで会話をするようだ。保奈美先生にとっては、そっちが素の状態、いわばデフォルトなのだろう。


 二人は玄関で靴を脱ぎ、そのまま俺が潜んでいる場所を通り抜けてリビングへと向かった。


「ふ~ん、結構いいところに住んでんじゃん」


 保奈美先生が興味津々な様子で部屋を眺めているのが想像できる。

 さて、ひとまず最悪の状況は脱したが、ここからどうするべきか?


 悩んでいると、再び保奈美先生の声が聞こえてくる。


「あれ? でもどうしてベッドあるのに、ここに布団置いてあるの?」

「へっ!? そ、それは……」


 慌てた様子の穂波さん。しまったなぁ……一人暮らしの家に、ベッドと布団が置かれていたら、そりゃ不自然だろう。頼む穂波さん、頑張って誤魔化して?

 だが、その心配は無用だったようで、意味深な声で保奈美先生が言う。


「はは~ん。さては男? 男でしょ?」

「へっ、ち、ちがっ……」

「いいの、いいの! 穂波と富士見くんが禁断の関係だとしても、私には止められないんだから!」


 保奈美先生から、俺の名前が飛び出してぎょっとする。そう言えばこの人、俺と穂波さんがお付き合いしていると勘違いしているんだった。でも、俺たちの今の状態は、何とも言えない感じなので、何も反論できん。


「だから、私と恭太は何でもないって」

「ほら、下の名前で呼んでんじゃん!」

「はっ!」


 ここでも、穂波さんのポンコツっぷりが発揮されてしまう。ちょっと、何やってんすか。


 保奈美先生は、その反応を面白がるようにさらに詰問する。


「んで? 実際どこまでヤッたの? 色んな意味で、いくとこまでいっちゃった?」

「だから……私と富士見くんはそういう関係じゃ……」


 否定しようとするも、穂波さんの声はどんどん小さくなっていく。


「大丈夫、大丈夫! この後飲みながら、その辺りの事、たっぷり聞かせてもらうから」


 どのあたりことを聞かれるんだろう?

 普段の状態でボロが出る穂波さんの事だ。お酒を飲んでしまったら、どこまで話してしまうか分からない。

 これはむしろ、俺はここにいて正解なのでは?


「手、洗わせてもらうね」


 そんなことを思っていると、保奈美先生が洗面所の方へと向かってくる。


 ヤバイ……こっち来る!

 俺は息を殺して身を隠す。


 近くで足音が止まり、水の音と手を洗う音が聞こえてくる。


 ブーブー


 その時だった、スマートフォンが手の中で振動した。

 画面の光を隠しながら、覗き見ると、穂波さんからメッセージが届いていた。


『ありがと、危機は脱したわ』


 いや、何にも脱してないですよ! むしろ、今この後、穂波さんが何をしでかすか怖くてある意味危機的状況ですよ! いやっ、俺も人のこと言えない状況だけど!


 今俺が隠れているのは浴槽の中。つまり、風呂場。

 浴槽の3枚蓋の一枚を剥がして、中に身体を忍び込ませている。


 風呂場の扉を一枚挟んだ向こう側では、保奈美先生が洗面所で手を洗っている。

 俺は浴槽の中でうつ伏せになりながら、暗い方へ頭を入れて、スマートフォンの光が漏れ出ないようにして、穂波さんへ返信を返す。


『SOS恭太、風呂の中にいます』


 直後、穂波さんの声が洗面所の方から聞こえてくる。


「何飲みたい?」

「私ビール。あっ、ついでにトイレもお借りします」

「はいはい、ゆっくりしてきて頂戴」


 穂波さんがそう促して、保奈美先生はトイレへ入っていった。

 ドアの開閉音が聞こえた直後、風呂場のドアが遠慮がちに開かれる。


「恭太?」


 聞こえてきたのは穂波さんの声。

 俺は浴槽の中から身体を出して覗き込むと、穂波さんが俺の姿を見て、驚いたような表情を浮かべて小声で話しかけてくる。

「なんでこんなところにいるのよ! SOS送ったじゃない!」

「仕方ないじゃないですか、間に合わなかったんですから! バレたらやばいし、緊急避難でここに身を潜めたんですよ!」


 だが、今はこんなところで言い争っている暇はない。

 この家から脱出するチャンスは今しかない。


 穂波さんはトイレのドアの方をキョロキョロと見渡して、俺の方に向き直って手招きする。


「ほら、今のうちに!」


 俺は頷きを返して浴槽から出て、忍び足急ぎ足で玄関へと歩き出す。

 穂波さんの横をすり抜けて、トイレの前を通過して玄関へ急ぐ。

 すると、トイレの水洗が流れる音が聞こえた。


 まずい!


 俺はさらに歩く速度を速めて、玄関へと向かっていく。


 頼む……間に合ってくれ!


 靴を手に取り、履かずに裸足の状態で外へと出る。

 玄関の扉を出来るだけ音を立てないようにして閉めていく。

 ドアが完全に閉まる直前、トイレのドアの開く音がかすかに聞こえてきた。

 俺は、音が出来るだけでないようにして、慎重に玄関のドアを閉めきった。


 そのまま息をのむように気配を消して、忍び足で廊下を歩き、階段の踊り場までたどり着くと、ようやくほっと胸を撫でおろした。


 あっ、あっぶねぇ……!

 本当にやばかった。


 もしも保奈美先生と俺が、穂波さんの家で鉢合わせなんてしていたら、人生が終わってたかもしれない。まあでも、あの様子から見るに、俺と穂波さんが付き合ってるって勘違いしてたし、大丈夫だったかも?


 ようやく胸の鼓動も収まってきて、緊張感張り詰めていた空気が弛緩し始める。


 踊り場で靴を履いてから、俺はスマートフォン片手を操作して、とある場所へと向かった。

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