第52話 信頼

 日は傾き、夕焼け空に飛び交うカラスたちの鳴き声が響き渡る。

 俺は、公園のブランコに座りながら、夕陽に当てられて伸びる自分の影を見つめてぼおっとしていた。


 そんな俺の元へ、一つの足音が近づいてきた。


「……やっと見つけたわ」


 顔を上げると、穂波さんが肩で息を吐きながら、こちらを見下ろしていた。今まで探し回ってくれたようで、汗をびっしょりと掻き、タンクトップが汗で濡れて、身体全体に張り付いていて、目のやり場に困る。


 穂波さんは息を整えるようにして大きなため息を吐くと、そのまま俺が座っている隣のブランコへ腰かけた。


「あっつい……」


 穂波さんは腰かけるなり、タンクトップをパタパタと手で仰ぎだした。

 仰ぐ力が強いので、その大きな胸がぽろんと飛び出てしまいそうになっている。

 そんな穂波さんの姿を見て、俺はポケットに入っていたハンカチを取り出した。


「使いますか?」

「ありがと」


 穂波さんはニコっと笑みを浮かべて、俺が手渡したハンカチを受け取った。

 そして、額、顔、首元と順に拭いていき……そのハンカチをタンクトップの中、つまりは胸の谷間に押し込んで拭き始める。


 俺は咄嗟に目を逸らした。

 何かいけないようなものを見ているような気がしたから。


「ありがと!」


 しばらくして、穂波さんが身体を拭き終えたのか、ハンカチを返してきた。

 無言でそのハンカチを受け取ると、ハンカチは汗でびっしょりと湿っていた。これ、穂波さんの胸に付着した汗もついてるんだよな……


 谷間を拭き始めたところで目を逸らしたから分からないが、このハンカチには、他にも穂波さんの身体全身から分泌した汗が染みこんでいるのだろう。まさにこれこそ『穂波水』、好評発売中!(すっとぼけ)

 

 だが、そんなくだらないことを考えられるほどには、気分が晴れやかになってきた。

 これも、穂波さんのおかげだな……

 思わず、ふっと鼻で笑ってしまう。


「なんか穂波さん見てると、家から飛び出したのがバカバカしくなってきます」

「それは私、褒められてるのかしら?」


 目を細めて聞いてくる穂波さんに、俺はふっと微笑んで答えた。


「超褒めてますよ、色んな意味で感謝してますし」

「色んな意味って何!?」


 それはもちろん、俺を必死になって探しに来てくれたこととか、汗でベッタリ密着したタンクトップ越しの身体がエロいとか、胸の谷間が見えそうになってエロいとか、汗が大量に染みこいたハンカチ返してくれてちょっとドキっとしたとか、色々ですよ。

 あれ? おかしいな? 半分以上エロいことばかりだぞ!?


 俺はそんな穂波さんの問いには答えず、微笑みを返して別のことを口にした。


「俺を探しに来てくれて、ありがとうございます」

「あたり前でしょ。私は、恭太の同居人兼保護者なんだから!」

「教師でもありますけどね」

「そう……私は恭太の教師でもある。だから、あなたが悩んでいることに、ちゃんと相談に乗る義務がある」


 穂波さんの表情は、どこか俺を慈しむような視線だった。

 俺はその視線を受け取って、顔を自分の伸びた陰に戻す。

 そして、おもむろに口を開いて話し始める。


「母さんは……母は、俺の事、嫌な顔一つ見せず、愚痴一つ零さずにここまで育ててくれました。だから、感謝はしてるんです」

「うん」


 穂波さんは頷きを返して、俺の話を聞いてくれている。


「でも、母が拓雄さんを俺の家に連れてきたときに気づいたんです。あぁ、母は本当の意味で俺を好きじゃないんだなって」

「どうして?」

「今まで見てきた優しい笑顔よりも、拓雄さんに向けていた笑顔の方が幸せそうだったんです。母が今まで俺に見せてきた笑顔が、とてもちんけな上っ面だけの微笑みだったんだなって思えてしまって……だから、俺はもう母と一緒に暮らしてもっ」

「それは違うわ恭太」


 そこで、穂波さんから今までよりも鋭くて低い声が返ってきた。

 振り向くと、穂波さんが眉根を潜めて、こちらを睨みつけていた。


「それは違う恭太。あなたは間違っているわ」


 きっぱりと言い切る穂波さんに、俺は少しイラっとしてしまう。


「穂波さんには分からないでしょ、そんなこと」

「いや、分かるわ。だって、恭太のそれは憶測でしかないもの。嫌いだったら、ここまで嫌な顔も愚痴も零さずここまで育ててくれるはずがない」

「そうですかね?」


 穂波さんは、ブランコから立ち上がり、こちらへゆっくりと歩いてくる。


「真知子さんが、あなたのこと嫌いって一度でも言ったことがある?」

「ないですけど。でも、俺には分かります。本当は嫌々ここまで育てて、再婚して楽になりたかっただけっ」


 バシン!


 突然激しい衝撃と音が襲った。


「……イッテェ」


 俺は穂波さんに頬を叩かれた。痛みが伴う頬を押さえながら俺は顔を上げる。

 穂波さんを睨みつけると、俺を鋭い視線で見下ろしながら言ってくる。


「なら恭太は、一度でもこうやって真知子さんに叩かれたことがある?」

「……ないですよ。そんな……」


 俺はため息を吐くようにして俯いた。

 俺達を照らしていた夕日はいつの間にか沈み、空は藍色に染まり返り、ブランコには電灯の光だけが俺たちを照らしている。

 穂波さんは、それでもなお、諭すように言葉を続ける。


「なら、もう答えは出ているでしょ? 育ててくれて感謝してるって今言ったじゃない。その逆もまたしかりなんじゃない?」

「そうですかね……?」

「分からないなら聞いてみる! それで、自分が思っていることも言葉にして伝える! 心の中で秘めてるだけじゃ、相手に伝わらないことなんて沢山ある。言葉で伝えたって、理解できないことすらあるんだから」


 俺の頬には、まだジンジンとした痛みが伴っている。

 けれどその痛みが、どこかジンワリとした柔らかいものになっていくのが感じた。


「だから、私と一緒に家に戻って、真知子さんと今までの事も含めてしっかり話しなさい。それで、しっかり気持ちを伝えること。いい? 結論を出すのは、それからでいいから、わかった?」

「……はい」


 俺が素直に返事を返すと、穂波さんは俺が頬を押さえている手を握り、もう一方の手で俺の頬を撫でてきた。

 その柔らかくて少し汗で湿った手から、とても暖かみを感じた。

 俺が視線を上げると、穂波さんが優しい微笑みで俺を見つめ返してくる。


「さっきは叩いてごめんなさい。私は、恭太の事、大切に思っているわ。だから、私の事信じて? 約束果たしてくれる?」


 あぁ……穂波さんは、なんでこんなにも優しく俺のことを想ってくれるのだろう。

 そんなに信じてくれる人の言葉一つも、俺は信じることが出来ないのか?


 胸につっかえる、何か今まで心に秘めていた温かみというものが、一気にぶわっとこみ上げてきたような気がした。

 気が付けば、穂波さんを見つけている視界が、滲んでくるのが分かった。


「あれっ……俺、なんで……」

「よしよし……」


 泣きそうになる俺を、その豊かな胸元に抱き寄せて、慰めてくれる穂波さん。

 俺はその胸に顔を埋め、温かみと優しさを感じながら、肩を揺らして泣いた。


 身近にいる人の笑顔や優しさを、受け入れることが、今の俺にとっては一番大切なことなのかもしれない。



 ◇




 暫くして、俺は落ち着きを取り戻したころには、辺りはすっかり真っ暗になっていた。俺と穂波さんは、公園を後にして、二人並んで夜道を歩き、穂波さんの実家へと戻っていた。


 ふと、もう痛みは感じられない頬に触れながら、俺は厭味ったらしく口を開いた。


「にしても、穂波さんは酷いですね。教師が生徒のこと叩くなんて、体罰反対」

「なっ……それは恭太が捻くれてること言うから……! それに、私は恭太の教師だけど、今は保護者でもあるし! 間違ったことをしたら当然の罰でしょ?」

「だとしても、引っぱたいていい理由にはならないんじゃないですか?」


 ほら、最近だと家庭内暴力とかもあるし。


「むぅ……。でも今は私、恭太の恋人っていう設定だし、叩いて平気だもん!」


 プィっと怒ってそっぽを向いてしまう穂波さん。


「……理論が無茶苦茶だ」


 恋人なら叩いていいの? 何それ、どういう理論?

 俺が呆れ笑いを浮かべていると、穂波さんはもう一度俺の方へと振り返り、自嘲するような笑みを浮かべる。


「仕方ないじゃない、ポンコツなんだから。理論で説明することなんてできないもん」

「……」


 何も言い返せなくなってしまった。

 こういう時に限って、自虐するのはずるいと思う。けど、だからこそ、穂波さんにはかなわないと思ってしまう。本当に俺のことを信頼して、心配してくれているから、真剣に向き合ってくれているのだと……


 でも、ポンコツだからってさ、手はないでしょ手は……せめてそのおっぱいで叩いて欲しかったっす。

 って、だめだよな。それじゃあある意味ご褒美になっちゃうし。

 まあ、今回に関しては、俺が不貞腐れてたのも悪いし、お互いさまということにしておこう。


 だからこそ、俺のことを信じてくれている穂波さんとの約束を守るため、俺は本当の意味で、母と向き合ってちゃんと話をしなくてはならないと心に誓った。

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