第18話 泡沫の夜

「下須くん、その後どうなっているのかね? 彼女の反応は」

 フランスから帰国した黒原教授が、ワイングラスを円を描くように揺らしながら下須に聞いてきた。

 下須は声をひそめて、

「最初は、かなりショックを受けたみたいです。彼女の記憶から消し去ったはずのあの数字の暗号メールが再び目の前に現れたことと、『なぜ自分だと分かったのだろう』ということについても」

 下須は続けて得意げに、

「それについては詳しく説明してやりました。左肩のアザが決め手だったと」


 下須は一息ついて、

「あいつ、他の仲間に気を使ってか、今後は個人のアドレスにメールしてほしい、と懇願こんがんしてきました。あと一息だと思います」

 黒原は感動したように、

「ほおう、ということは彼女もかなり歩み寄ってきた、ということかね? なんならその秘密のメールとやらを私からも送ってやろうか? もっと効果があると思うがね?」


 「いやあ、それだけはご勘弁を。ぼくとあいつの唯一の絆ですから。それに、これが最も安全なやり方なんです。というのも、もし万が一あとでメールを調べられたとしても、数字じゃ法的な証拠にならないと思いますので。あまりいろんな方が関わらない方が――」

「分かった分かった、メールだけは君に任せよう。あんな女にゃめったにお目にかかれん。金さえもらえれば何でもする手合いなんて、ロマンの材料にはなりゃせんからな」


 こちらのソファーでは灰塚准教授が、

「今、シノン様は迷路でたち往生おうじょうですな。周りには迷惑をかけたくない、自分の尊厳そんげんは守りたい。しかし我々に逆らえばどうなるか……黒原教授のお得意分野ですな」

 フランスから持ち帰った高級ワインをなめるように味わいながら、まるで小動物をいたぶる目つきをしている。


 黒原は目を瞑り、うっとりと何かを夢想するように、


『いとだかきル・サフィール その清き輝きになんじの胸はざわめかん 

それを見つめる瞳の底に みだらな光が忍び寄らんとしていることに

その妖光ようこうに魅せられて はるけき時をへだてし あのしびれるかのごとき我が身のうずき 

よみがえる悪夢の快楽に 汝は再び呼び覚まされる

おお滅びの美姫びきよ その官能の極みは汝だけの秘物ひぶつにあらず

目覚めよ 心の底に潜む汝の真の歓喜に――』


 黒原教授と二人の弟子の泡沫うたかたうたげは夜半まで続いた。

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