第16話 接触

 東京に戻ってから五年近く経った今、あの時、漠然ばくぜんと感じていた不安が現実のものになりつつある。

 シノンさんに再び試練と忍耐の時がおとずれようとしている。

 六度目が、その夜の最後のメールだった。

 シノンさんは心を決めた。

(もう負けないわ、何があっても。この十二年間のわたくしの血みどろの戦いをなんだと思っているの? 今こそ、モンテ・クリスト伯爵になってやるわ)


 しかし、シノンさんに復讐心はなかった。

 忌まわしい過去のできごとについては、自分にも落ち度があったと認めざるをえない。

 それだけに復讐という手段は、プライドの高い彼女にとっては耐えがたいことだった。相手だけの責任にすることが許せなかったのだ。


 彼女はソファーに横たわったまま、色々と思いを巡らせた。

 そしてこのメールアドレスが、情報サイトのメンバーと共有のものであることを思い出し、あの「うじ虫メール」を他のみんなも見ていることに気づいた。

(愛月さんたちにご迷惑をかけるわけには行かないわ。何とかしなくちゃ)


 翌日、再びメールが届いた。

 厚顔こうがん無恥むちなアラビア数字は、またもやその量を増やしていた。

 シノンさんは心を決めて、返信することにした。


『わたくしは今、新しい道を歩んでいます。あなたも、あなたの恩師の方々のことも、お許しさえいたしております。なので、もうこれ以上近づかないでください。お互いのためにも』


 と数字を打ち返す。しばらくすると、


『君がぼくたち二人だけの「やりかた」を覚えていてくれたのには感激だ。黒原教授も灰塚准教授も、ぜひ君に会ってまた話がしたいとおっしゃっている。どうだろうか?』


 彼女は昨日、夜通し考えていた内容を返信した。


『このメールアドレスは情報サイトのスタッフの方たちと共有です。みなさまに迷惑をかけたくありませんので、今後はわたくし個人のアドレスに送信してください』


 この内容が相手に誤解を与えるのではないか、などと考える余裕は、今のシノンさんにはなかった。

 とりあえず当面の混乱を避けなければ――。最悪、すべて自分が引き受ければいいのだ。


 次のメールは彼女自身のアドレスに着信した。


『七月三十日前後に、黒原教授と灰塚准教授がフランスでの学会から帰国されるので、そのあたりでいつか日を空けてくれないか?』


 彼女は率直な疑問を相手にぶつけてみた。


『おっしゃる意味が分かりません。それより、どうしてわたくしのことが分かったのですか?』


 数分後に返信があった。


『ぼくが非常勤講師としてフランス語を教えに行っている女子大で、一人の女子学生が、いま評判になっている美人の尼さんのことを教えてくれたのさ。

 ぼくは一目見て君だと分かった。

 あのイラスト画家は天才だね。君の内面を表現し尽くしている。なにしろそれを知り尽くしているのは俺だからね。

 決定的だったのは十字形のアザさ。いつかの絵に、君の左肩にあるあのセクシーなシンボルが描かれていた。もっともこれは内面ではなく外面だけれどね。

 例の動画にも映っていたよ。機会があればみんなで鑑賞しようじゃないか』


 相手はこちらを打ちのめして服従ふくじゅうさせようとしている。

 シノンさんは、絵を描いた嵐日君を少しうらめしく思ったが、彼には何の責任もない。

 それよりこれから自分がするべきことを考えた。

 みんな自分がまいた種だ。自分で刈り取らなくっちゃ。


 その後もほぼ一日おきくらいにメールは届き、彼女はそのたびに適当に返信していたが、下須が急に、


『近いうちにそちらにお邪魔しようと思っている。教授も二週間もすれば、帰国されるので』


 最後のフレーズは強調するかのように、太字が使われていた。

 もう時間がない。なんとか手を打たなければ。


 シノンさんは江戸井社長に相談しようと決めた。今まで秘密にしてきたことを、洗いざらい告白するのだ。

 届いたメールは、一字一句普通に読める文章に書き直した。


 すべてを聞いた江戸井社長は、しばらくの間シノンさんをじっと見つめていた。

 その目には、冷静さの中におさえきれない怒りが浮かんでいた。


 彼女は無言で受話器を取り、電話に出た相手に、

「ああ、今日の夕方、お会いできるかしら? そう、三階のアクセサリーショップの件でご相談があるの――ええ、そうなの――、詳しいことはお会いした時にお話しするわ。場所は、ええっと、この前の喫茶店、そうそう個室のね。時間は六時でいいかしら――はいはい――じゃあ、お願いします」

 と受話器を置く。

 

 少し間をおいて、シノンさんに、

「先ほどのこと、よくお話ししてくださいました。人には誰でも思い出したくない過去があります。もちろんわたくしにも。その過去の弱みにつけこんで――それももう十年以上も経っているというのに――。

 おまけに彼らが加害者なんでしょう? 考えるだけで頭がくらくらしますわね。

 彼らは犯罪者であるだけではなく、重病人です。それも不治の病のね。

 これは何が何でも治療してさしあげなくては。その方法をさっそく明日からでも考えましょう。シノンさん、あなたも、したたかにファイトよ」


 江戸井社長は別れ際に、

「あなたはできるだけ時間稼ぎをしてください。『八月は忙しいので、九月だったら何とかなりそうです』とかなんとか言って」

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