第15話 五月谷百合香 二

 百合香は、自分の身に起こったことを両親にもいっさい知らせず、九州で農園を営む父の妹のよりにだけ、すべてを打ち明けた。そして彼女のもとに身を寄せることにし、頼子もそれを快く引き受けてくれた。

 百合香はそのことを両親に手紙で報告し、頼子にも添え書きをしてもらった。


 数日後、母の苑子が百合香に会いに来た。

 母と過ごした二日間、百合香はその優しさになぐさめられたが、大学を去った理由については母にはいっさい語らなかった。


 彼女が受けた傷は、少しの気分転換くらいで回復するものではなかった。

 頼子から手ほどきを受け、大自然の中で行う農作業は、彼女に生命の力強さと危うさを同時に教えてくれた。

 だが夜になると、執拗にまとわりつく過去の記憶が、容赦なく彼女の心と体をを切り刻んだ。


 そうした日々が続き三年ほどが経過した頃、衝撃的な知らせが届いた。

 「百合ちゃん、早く用意をして! お母さんが大変なの! 今だったら飛行機の方が――私はすぐに後から追いかけるから、あなたは早く!」

 午前の作業を終えビニールハウスから出てきた百合香を待ち受けていたのは、母親が突然の危篤状態におちいったという叔母の言葉だった。


 驚いている間もなく父に連絡を取り、母が入院している病院に向かうことになった。

 故郷へ向かう飛行機の中で、彼女の脳裏にある光景が浮かんだ。

 母親が、寝入っている百合香の顔を優しく見つめている。その顔には笑みがこぼれている。

 それは母親の無償の愛そのものであった。


 飛行機が着陸姿勢に入るアナウンスの声で彼女は目覚めた。

 母の病室に通じる廊下を歩きながら、百合香はふいに「お母さんはもういない」と感じた。

 機中でのあの微笑みが、彼女にとって母との最後の別れだったのだ。


 九州へ帰った百合香は、再び農作業の日々に戻ったが、母の残してくれた無償の愛により、彼女の気持ちにも徐々に変化が訪れはじめた。

 過去の記憶に悩まされることも、以前と比べると少しずつ減っていった。


 それから二年の歳月が過ぎ去った年の暮れ、今度は父が過労で亡くなった。

 葬儀のあと、二人残された百合香と頼子は、より深い絆を互いに感じ取った。唯一の肉親として。

 頼子は百合香に、ずっとここで暮らしていいと言った。


 しかし、百合香には新しい目標ができていた。

 自然とのふれあいの中で何とか立ち直った彼女は、これからは心に傷を負った女性たちとともに生きよう、と心に決めたのだ。

 ここでもがき苦しんだ経験は、これからの彼女の杖となり、時には剣となるはずである。

 こうして百合香は、五年間に渡る九州でのリハビリ生活に別れを告げることにした。


 百合香は、自分よりもさらに深い心に傷をおった人々を癒やす仕事につこうと思っていた。そして彼女自身もまた、その人たちからなぐさめを受けようと。

 虚しく感じるかも知れない、それでも、傷ついた人の血をこの舌で味わってみよう。

 彼女はそのような気持ちで、PTSDを治療する医療機関に職を求めた。


 就職に必要な「メンタルケア心理士」の資格は、農作業のかたわら、通信教育で取得していた。

 もちろん未経験の彼女が、最初から良い条件で働くことは無理だった。それでも彼女は仕事に没頭した。

 だが百合香にとっては、「仕事」という言葉は似つかわしくなかった。なぜなら患者をケアする彼女自身も、常に患者だったのだから。


 こうして百合香は、中国地方の広島市、関西地方の神戸市、中部地方の浜松市の病院やクリニックで、セラピストとして三年間の経験を積んだ。


 最後の浜松市のクリニックとの契約が終了する間際に、そこで働く年配の婦人から、百合香にぜひ紹介したい女性がいる、という申し出があった。

 「百合香先生だったら、彼女も喜んでお会いになると思いますわ。彼女ね、今年ビルをオープンされましてね、何か女性ばかりのビルなんですって。

 詳しいことは知らないんだけど、そこで女性を対象にしたテナントを募集していらっしゃるそうなのよ。ただ彼女のお眼鏡にかなう方でないと」

 その婦人によると、ビルのオーナーは五十歳前後の独身女性で、所在地は東京の国立市だという。


 百合香は、「東京」と聞いて一瞬とまどったが、とにかく一度会うだけは会ってみようと思った。

 ビルのオーナーの江戸井亜里は、スラッとした長身の中年女性で、その口もとに決断力の早さがうかがえた。

 初対面の挨拶もそこそこに、

「百合香さん、あなたにピッタリのお部屋があります。メンタルヘルスケアのお仕事には最適だと思いますよ。お好きなように室内も外もデザインしていただいて結構よ――。あら私、また先走ってしまって。ごめんなさいね」

 百合香の不安は一気に消え去った。


 頼もしい女性社長に見込まれ、五月谷百合香は東京で再出発することになった。

 新しい名前も、高校時代に愛読していた『ジャンヌ・ダルク』にゆかりのある「シノン城」にちなんで「シノン」とすることにした。

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