第14話 五月谷百合香 一

 五月谷百合香は、新潟県新潟市で生まれ、クリスチャンの両親のもと、大切に育てられた。

 彼女は、裕福な家庭の子女が多く通う小中高一貫のミッション系女子校に入学した。女子校ということもあって、異性との交流も、教会の日曜学校を除いてはほとんどなかった。


 高校に進学しても何か満たされない気持ちの彼女は、ある日、地元の書店で一冊の本にめぐりあった。

 それが彼女の目をとらえた理由は他愛のないものだった。

 その本の題名に、彼女の名前の漢字がいくつか使われていて、親近感をおぼえたのだ。彼女は迷わず購入した。

 それは十九世紀フランスの作家、バルザックの『谷間の百合』であった。

 帰宅すると、夕食と入浴も簡単にすませ、そのまま部屋にこもった。


 窓のカーテンのすき間から朝日が射し込むまで、その本に没頭ぼっとうし、読み終えると、目の前にあったベールが取り払われたような感覚をおぼえた。

 高校生の彼女には、小説のヒロインである貴婦人の、プラトニックな愛の裏に隠された肉欲についても、十分に理解できた。

 これをきっかけに、百合香はさらにフランス文学へ興味を持つようになった。スタンダール、モーパッサン、フローベル、ジード、ボードレール、カミュ、サルトル――。理解できないなりに、あこがれは広がっていった。


 彼女は故郷をはなれて、東京の大学でフランス文学を学んでみようと思った。

 そして二年後、百合香は念願かなって創美そうび大学仏文科に合格したのだった。

 大都会での生活は、周囲の目から解放されて、個人の自由――言葉では言い表せない魅惑と不安――で満たされていた。


 三回生になった時、彼女は下須勉と知り合った。

 彼は百合香より七歳年上で、同じ学部のフランス文学研究科に属していた。

 学生の試験監督などをしていた彼とは顔なじみであったが、ある時、図書館でとなりの席に座ったのがきっかけで急速に親しくなった。


 下須は、フランスが歩んできた複雑な歴史や、さまざまな作品について彼女に熱く語った。

 彼がこれまで身につけてきた落ち着きと余裕が、百合香には都会人らしい洗練された魅力として映り、彼女は少しの迷いもなく惹かれていった。

 百合香は、下須の住むマンションに寝泊まりするようになり、彼にすべてを許した。

 その大胆さは彼だけに見せた純粋な愛欲であった。


 一般企業に就職せずに大学に残った下須は、いずれは教授になることを目指していた。

 彼の指導教官の黒原くろはら信三しんぞう教授は、ある特定のジャンルのフランス文学における権威だった。


 ある日、下須は黒原教授の研究室で、彼が百合香にことを告げられた。

 下須は一瞬絶句して返答に困った。

 教授の性質を知りつくしている彼は、何となく感じていた不安が現実のものになるかもしれないと動揺し、軽率だった自分の言動を悔やんだ。


 というのも彼は、つい酒の席で、百合香との情事の様子について、黒原教授に半ば自慢げに明かしてしまったのだ。

 黒原は、彼が語る「のろけ話」に異常なまでに目を輝かせ、興味を示した。

 黒原は彼女のことをすっかり「淫乱」だと決めつけ、下須にある指令を下した。


 下須にとって教授の命令は絶対だった。一度は悔やんだものの、彼の良心は、保身のために粉々にくだけ散った。

(下須勉よ、どっちみち遊びだったんだろう? あの女もこの道に入ったからにはこういった経験も必要かも知れない……いや、彼女が成熟するためにも、けては通れまい)

 下須勉を愛し信じる百合香には、恋人の上司である黒原との会食を断る理由などなかった。


 下須の裏切りに気づいたのは、彼女にとってすべてが終わったあとだった。

 下須は将来の地位のために彼女を教授に捧げたのだ。

 それは、同じ研究室の灰塚はいづか博文ひろふみ准教授も加わっての、三人による凌辱りょうじょくであった。


 ワインに催淫薬さいいんやくを入れられた彼女は、自分の意志に反して男たちを満足させる姿態をさらけ出したようだった。

 後日、一部始終を撮られた動画を見せられ、彼らから二度目の要求があった時、彼女は逃げるように大学を去った。


 まさかの裏切りと信じられない恥辱ちじょくを現実のこととして受け入れるのは、プライドのある女性として、辛いというよりも情けなかった。

 加害者たちよりもむしろ、自分を責めた。

 何もかもがむなしく、訴訟や復讐ふくしゅうなどを考える気力もなかった。

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