第13話 不気味なメール

 七月の初め頃、差出人名のない奇妙なメールが共有アドレスに届いた。

 文面はランダムなアラビア数字が並んでいるだけで、まるで不気味なうじ虫が這いずり回っているようだった。

 最初にそれを発見した風林さんは少し首を傾げたが、あえて気にとめずに作業を続けた。

 だが、彼女が仕事を終え帰宅の用意をするまでに、その不可解なメールはさらに二通届いた。アラビア数字の量はそのたびに増えていった。


 この何かを伝えようとするような不気味なメールは当然、シノンさんのところにも届いた。

 彼女が気づいたのは三度目の着信音が鳴った時だった。そして――そのうじ虫のような記号のれつは彼女をうろたえさせた。

 その顔からは血の気が引いて、これは夢じゃないかとさえ思ったが、目の前に起こった現実であった。


 そのメールは、宛名が彼女の本名になっていた。


 『五月さつきだに百合香ゆりか様』 


 アラビア数字でこの呼びかけができるのは、この世にただ一人しか存在しない。

 へばりつくようなアラビア数字は、十年以上も前の記憶を彼女に呼び戻した。それも、まわしい悪夢の記憶を――。


 どうしてだろう。今頃どうして? 何かの間違いじゃないの? 

 あの男だ。あの男がまた――卑劣ひれつなあの男。あいつを許すために、憎しみさえ忘れたのに。

 シノンさんは今はもう、いつもの彼女ではなかった。

 しばらくして四度目の着信音が鳴った。

 無視をした。

 五度目、六度目、同じく無視――。


 このアラビア数字の暗号は、いま送信しているであろう男、下須しもずつとむとシノンさんとの間だけで通じ合った、他の誰にも邪魔されない「愛のツール」だったのだ。

 彼女と愛を交わし合った男との――。


 メールの宛名を、彼女の本名「五月谷百合香」にしてきたという事実が、彼の執念しゅうねん深さを感じさせる。

 そこには彼女に、忘れ去った過去を無理やり思い出させようとしている意図がうかがえるようだった。


 シノンさんは、首の後ろに両手をあて、サロンのソファーに横たわった。

 先ほどの動揺は不思議なほどおさまっていた。

 心を静めて、今までの自分の半生を思い起こそうと目をつぶった。

 おぞましい屈辱くつじょくの記憶から逃げずに、勇気を持って回想することで、この十年の苦しみも意味があったと思えるからだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます