第9話 秘密の女

 その夜は久しぶりに、定期的に広告を出稿してもらっている渋谷のレストランバーに行った。

 入口のドアを開けて入ると、受付の女性がぼくの顔を見て、

「いらっしゃいませ」

 とお決まりの挨拶のあと、

「お久しぶりですね」

 と小さな声で言った。

「ご無沙汰していてすみません」

 と軽く会釈して返す。


 土曜日の夜七時過ぎ、客席はほぼ満席。大半がグループやカップルで、それぞれの思いの中でくつろぎ華やいでいる。

 ぼくが席を探したのは、床から一段高く作られた、窓際のカウンター席である。十数席の半分くらいがまだ空席だったので、ぼくはすぐさま一番左端の席を確保した。

 左端の席は、ぼくにとってささやかな癒やしである。右腕が利き手だからか、ぼくはどこにいても、左端がなんとなく居心地がいい。

 誰かと道を並んで歩く時も無意識のうちに左側を選ぶ。これはぼくだけの特質なのだろうか?


 少しのどが乾いていたので、ビールの中ジョッキとミックスナッツを頼み、あとは生野菜サラダと明太子スパゲティを注文した。

 窓の外は秋の夜陰やいんに包まれ、街灯の淡い光と、時折通る車のヘッドライトだけが夜道を照らしている。

 店内ではスピーカーからオスカー・ピーターソントリオの演奏が、控えめに流れている。時々客席からおこる笑い声にかき消されそうになりながらも、マイペースに演奏は続く。


 三杯目のオン・ザ・ロックのグラスを手にするまでの記憶はほとんどない。ただひたすらに、心地良い気分に満たされていた。

「素敵なピアノ演奏ね」

 はっと我に返り、声のする方に顔を向けると、隣の席で女性がほほえんでいた。

 年齢はぼくと同じくらいか、もしかすると少し上か。白のブラウスにダークグレイのスーツ。ショートボブの髪型が、どことなく知性をうかがわせる。


「ずっと見てたの、気づかなかった?」

「いらっしゃるのはなんとなく」

「こんないい女がすぐ横にいるのに、『なんとなく』はないでしょう? まったく……。なんて、冗談よ。あなたがさっきからずっと、窓の外の景色よりさらに遠くを眺めながら飲んでらっしゃるのを見てたの、愛月まなづきさん」


「えっと……。どこかでお会いしたかな?」

「いいえ、なんてことはないわ。このお店のチーフマネージャーがあなたのことを教えてくれたの。あのずんぐりむっくりの。名前はほそさんだけど」

「ああ、そうだったんだ、細井さん。前に取材でお会いした」

「言ってたわよ、あなたの情報サイトに広告を出してから、東京以外からも女性客が来るようになったって」

「それじゃあ、ぼくのことはある程度聞いてるんだね」


「あなたのサイト、細井さんに教えてもらったわ。それからお酒飲んでるあなたを観察してたの。それで声をかけてもいいかなって」

「こいつは人畜じんちくがいだと?」

「あなたが独身なのは、人畜無害だからじゃないと思うわ」

「あれっ、独身って分かる?」

「ええ。女にとってはちょっとやりにくい相手かな」

「そんなこと、はっきり言われたの初めてだ」

「当たり前でしょ」


「ぼくは女の子は好きだよ、明るくて可愛いし。でもなんだろう、ちょっと違うんだよなあ。独身をやめようって気にはなれない……。

 ところで今日さ、二十五歳くらいの男の子をひとり面接して、うちの会社に入ってもらうことにしたんだけど、彼、女性は美しいものだと思い込んでいて、空想の女性の絵ばっか描いてるそうなんだ」

「へえ、具体的にどんな絵なの?」

「ぼくはまだ見てないんだけど、なんでもすごく幻想的なコスチュームを身にまとった女性らしい。長いすそのね。でもそのコスチュームの下に秘められている姿を常に意識しているから描けるらしいんだよ」


「ふうん。『すれば花』ってやつね。でも今は逆に、案外そういう、女性に神秘性を求める男の子が増えているのかも知れないわね。女性があけっぴろげになっちゃった分」

「『秘すれば花』という言葉は本来、『隠すという行為に意味があるのであって、隠しているもの自体には大した価値はない』という意味らしいけど――そういう繊細なニュアンスは現代にはないよね。だからと言って、なんでもあけっぴろげにするのもどうかな、とは思うけど」


 彼女は新しいコニャックとチーズを、ぼくはオン・ザ・ロックとミックスナッツを注文した。

「そういえば最近は、新しいタイプの『秘すれば花』が出てきてるんじゃない?」

「と言うと?」

「ひとつはパンツの盗撮よ。ほら、駅の階段とかでスカートの中をスマホで撮影したりする人いるじゃない。それと、後は使用済み下着の販売ね。ネットオークションとかで大量に売られてる……。どちらもパンツで隠されたモノを想像して興奮するのよね」


「そりゃあ、究極のブラックジョークだ」

「あなたは男としてどう? やっぱり女性のパンツには興味ある?」

「正直言って微妙びみょうだね」

「こっそりスマホで撮りたいと思う?」

「それはないと思う。ていうか撮ったことはない」

「あやしいなあ。じゃあどんなパンツがお好み?」


「そうだなあ……。例えば、こんなシチュエーションにはドキッとする。

 素敵な女性が、自分が女性であることを忘れて何かに没頭ぼっとうしていたとする。

 で、何かの拍子にスカートがめくれあがって、パンツがちらっと見えるとか」

「ふんふん、なるほど」

「それで、『誰かに見られたんじゃないか』と慌ててあたりを見回して、誰も見てなかったことを確認して、安心してまた作業に戻る……。こんなパンツなら何色でもいいね」


「じゃあ嫌いなパンツは?」

「勝負パンツとか? 『今日はヤれる』って自信満々のパンツ」

「ずいぶんひねくれたものね。つまりあなたは、身もふたもある女性に憧れてるんだ」

 ぼくはかなり酔いが回っていて、彼女の誘導尋問ゆうどうじんもんにまんまと乗せられ、気が付けばなぜこのようなことをしゃべっているのか、自分でも不思議だった。

 でも普段感じている本音を彼女が引き出した、ということだろう。


「君の名前、まだ聞いてなかった」

「名前? 名前なんて、単なる記号じゃない。一応お教えするけど、本名かどうかはご想像にお任せするわ」

 と言って差し出した名刺には、

「時雨途 魔夢」

 と書かれていた。

「……? これ、なんて読むの?」

「分からない?」

「うん。日本の方?」

「幸か不幸か、そうみたい」

 ぼくはしばらく考えて、色々と口にしてみるうち、

「もしかして、『シークレット・マム』?」

「ピンポーン!」

 と彼女は笑いながら言う。

「これからは『マム』と呼んでちょうだい。またお会いすることがあればね」

 と腕時計を見て、

「さあ、そろそろ行かなくちゃ。もう十一時前よ」

「こんど電話してもいいかな」

「私、めったに人に名刺渡さないのよ。何か困ったことがあったらいつでもどうぞ。今日はありがとう、楽しかったわ」

 この後ホテルで人と会わなくちゃ、と言いながらいたずらっぽく笑って帰っていった。

 窓の外の通りは走る車もほとんどなく、いよいよ暗さを増していた。不思議な余韻よいんを味わいながら、ぼくも、アンドレ・ギャニオンの『愛につつまれて』が流れる店を後にした。




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