第8話 トノ・ランディ

 すると彼はいくぶん口ごもり、なぜか目を伏せながら恥ずかしそうに答えた。

「トノ、ランディ、です。二十五歳になります」

「トノさん? どんな字を書くの?」

「トは兎で、ノは野原の野です」

 そう言いながら彼は、大きな右手の人差し指で左の手のひらに書いてみせた。

「じゃ、ランディは?」

 彼は一瞬、表情を曇らせたが、また左手に書きながら、

「ランは嵐、ディは日と書きます」

「へえ!」

 きっと今まで何度も同じことを聞かれてきたのだろう。こちらが聞く前にその由来を話しだした。


 「ぼくの生まれる何年か前に、プロ野球の阪神タイガースが久しぶりに日本一になったのですが、そのチームにランディ・バースというアメリカ人選手が……」

「ああ、いたいた! といっても、ぼくが小さい頃に引退したんであんまり覚えてないけど」

「父はもう死にましたが、大のタイガースファンだったようで、ぼくがその選手にあやかるようにと……」


 「君も野球を?」

「今はあまり興味ありません」

「それだけの恵まれた体をしているのにもったいない」

「野球に興味を失ったのは、ぼくの性格がチームプレーに不向きなことが原因なんです」

「チームプレーが苦手と言っても、人生そこいら中チームプレーだらけだよ」

 彼は言いにくそうに重い口を開いた。

 彼は中学生の時、野球に熱中していた時期があり、そこそこの活躍をしていたが、新しい監督になってから、彼が余りにも個人プレーに走るように見えたのか、レギュラーから外され卒業まで補欠選手だったらしい。


「それがきっかけで自信を失って、高校二年の時に父が死んで以来、野球には一切興味がなくなりました。

 野球だけではなく、なぜかみんなに合わせて同じことをするのがしんどい時があります。無理をして合わせるとかえってぎこちなくなったり……」

 そんな自分の性格と、二メートル近い長身を持て余している、という表情で苦笑した。

「それでいいんじゃないか? ええと、それでいきましょう、その線で」

 兎野トノ嵐日ランディは、ぼくの言葉を正確に理解できなかったのか少し怪訝けげんそうな顔をした。


 そしてぼくは、彼に風林さんを紹介することをすっかり忘れていたことに気づき、あわてて、

「あっ失礼。こちら、うちのアシスタントの風林さん」

 彼女が小さな声で自分の名前を告げると、彼はペコリと頭を下げた。

「風林さん、あなたから何か聞きたいことはない?」

「ええっと、そうですね。ランディさんは、パソコンをどの程度使えますか? 例えばEメールやタイピングなど」

「それくらいだったらできるかと思います」


「分からないことがあったら、その都度覚えていってもらえればいいよ。ところで君、絵を描くのが好きなんだって?」

「はい、好きというより、ぼくにとっては息をすることと同じくらい大事なことなんです。少し大袈裟かもしれませんが」

「特に女性のイメージ画が得意と聞いたけど、イメージ画というのは?」

「服を着てポーズを取った女性の絵です。でもファッション画とはちょっと違うんです……。衣服をまとうことで、逆に女性の秘められた魅力を表現できるような気がして」

「ヌードじゃなくて?」

 突然、風林さんが横から割り込んできた。


 ちょうど同じことを聞こうと思っていたぼくも、うなずいて視線を彼に向けた。

 風林さんの口から発せられた「ヌード」に対する驚きはいったん横に置いておいて――。

「ヌードは描かないです。ヌードが女性の美の極みだという人がいますが、ぼくはそうは思いません。

 ヌードはもっと生々しい感じがします。女性の強さとか、男性に対する挑戦とか……」

「なるほどね。で、どんな女性が好きなの?」


「そうですね……、もちろんぼくにも好みの顔はあるんですが、それよりも、ぼくのイマジネーションをかき立ててくれる人、でしょうか。

 しかもできるだけ長い間、たくさん想像させてくれる女の人がいいんです。

 ぼくはその人の喜びや悲しみ、苦しみや怒りもぜんぶ想像したい。そんな絵を描きたいんです」

 話し終えると彼は、調子に乗って少ししゃべりすぎたんじゃないか、と反省するようにぼくと風林さんの顔を見たが、すぐさまその表情には安堵の色が広がっていった。


 嵐日君は今月末で幼稚園の運転手を辞め、来月からうちに来ることになった。

 彼が帰ると事務所は、ヘリコプターが飛び去った後のように元の姿に戻った。

「お疲れさま。どうだった、三人目のご感想は?」

「私は……、ピュアな人だなと感じました」

 と彼女は短く感想を述べた。

 ぼくと再び向かい合って座っている彼女の目は、やはりぼくの右肩あたりをさまよっている。だがその目の動きはいくぶん軽やかになったようにも見える。


 ふとぼくは、まったく新しい興味にとらわれた。

 もし彼女が嵐日君と向き合って座ったとしたら、彼女の目は彼のどこに安住の地を見出すのだろうか? 

 背の高さは彼とぼくとではずいぶん違うから、最初は困るんじゃないか? きっと五分くらいはかかるんじゃないかな、見つけ出すまでに。

 いや待てよ、ひょっとすると嵐日君の方がドキドキしてしまって、それを見た風林さんは優越感を感じて、勝ちほこった笑みを浮かべるかも知れない。

 ぼくは来月初めにも確実に起こりうる光景を想像して、それを絶対に見逃すまいと心に誓った。


 そんな他愛のない想像に取りつかれつつも、

「つまりあなたは好印象を持ったわけだね。

 ぼくも、即戦力というよりも、将来に向けた新しいヒントを与えてくれるような気がしたので、来てもらうことにしました」


 風林さんが帰った後、ぼくは来月からの未知の展開に軽い興奮を覚えた。

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