第3話 風林信子 一

 風林かざばやし信子のぶこがぼくの事務所に姿を現したのは二年くらい前の秋だった。

 もっと正確に言えば、月三回発行していたミニコミ誌の編集スタッフを募集したところ、彼女が応募してきたのだ。


 面接の日、彼女は軽くドアをノックして部屋に入り、再び背を向けてドアを閉めた。そしてぼくに向かってやや浅めの会釈をした。

 デスクを挟んで向かいのパイプ椅子をすすめると、彼女はもう一度頭を下げ、

「風林信子です」

 と言った。低音と高音の真ん中くらいの声質だ。


 彼女は椅子に座ってからも終始伏目がちで、ぼくが話し出すと初めて顔を上げてぼくの顔をチラッと見た。

 それも長続きせず、自分の目のやり場を探す。

 そうして、ようやくぼくの右肩のあたり、彼女から見れば左側だが、そこにやっと自分の目の居場所を見つけ、本人も納得したようだ。


 ぼくがミニコミ誌についてひと通り説明し、現在会社の売上が伸び悩んでいることや、内容がマンネリ化していることなどを手短に話し、近々方針転換を考えていることも率直に伝えた。

 しばらくすると彼女が遠慮がちに、

「あのう、履歴書を持ってきたんですが」

 と言うのでぼくは不意を突かれて、

「えっ? リレキショ? ……ああ、履歴書ね、それは要りません。うちは履歴書も経歴書もいっさい必要なし。というよりまずはお話をして、お互いが納得してから見せていただきます。それほどの会社でもないしね。あっ失礼、変なこと言って」

 彼女は少し不思議そうな顔をしたが、素直に理解したようだった。


 ぼくはあえて当たり障りのない話をしながら、少しの間彼女を観察することにした。こちらの話を聞く時も、言葉少なに話をする時も、彼女はほとんどぼくと目を合わせることがなかった。

 時たま合ってもすぐにそらし、しばらく遠くを見る。相手の目を見るのがとても苦手なのかも知れない。


 話をしている相手の目を見ない、それは性格上の問題なのか? 

 それともどうしても人に話せない深い事情でもあるのだろうか?

 ぼくは生まれつき「わけあり」という言葉に人一倍惹かれる、非常に手間ひまのかかる人間だった。

 彼女と接しているうちに、ぼくはある友人との会話を思い出していた。


 大学生の頃、甘沢あまざわとは親友というほどでもなかったが、なぜか気が合った。クラスもゼミも違い、また価値観もまるっきり違ったのだが、それは時にはいい気休めになる場合もある。彼との関係はそういう種類のものだった。

 卒業後数年経って、新橋の居酒屋で偶然となりの席に甘沢がいた。お互い学生時代を懐かしむほどの間柄でもなかったので、現在の話題に移るのに時間はかからなかった。

 ぼくは当時勤めていた広告代理店の名刺を出し、そこでの仕事の内容を大づかみに話した。


 彼はというと、卒業後、地元の信用金庫に就職したが半年で退職し、すぐに独立したらしい。なぜか彼は自分の名刺を出すのをためらっているようだった。

「何の仕事?」

「まあ色々とな」

 ぼくはそれ以上尋ねることはしなかったが、彼は自分の方から、既に結婚していて夫婦共稼ぎであることを明かした。


 ぼくの方は未だ独身であることを伝え、しばらく酒を酌み交わしていたが、甘沢が突然、

「で、あっちのほうはどうなの?」

 と聞いてきたので、

「えっ?」

 と不意をつかれた思いで目の前のカウンターを見てみると、大ビンのビールが二本と日本酒の二合の銚子ちょうし四本が空になっていた。それまでの間、彼の頭の中には色んな想念そうねんが酔いとともに駆け巡っていたのだろう。


 彼とは学生時代に一緒に飲んだ記憶はない。酒が入ると意外と面倒くさいやつなのかも知れない。

「まあ適当に……」

 と答えると、

「フーゾク?」

 といやにしつこい。

「いやあ、それだけは……」

 とはぐらかしたが、

「じゃ、何?」

 と食い下がってくる。さすがに面倒くさくなって、

「とにかく、後腐れなしだ」

「後腐れなし? というと……」

 するとしばらく考えて、

「分かった! 人妻か未亡人だろ。そうかあ、いいなあ独身は……戻りてえよ。人妻も未亡人も、それぞれ味がある。彼女たちには魅力があるんだなあ」

「どんな?」


 甘沢はここで仕切りなおすように銚子ちょうし二本を追加注文して、ぼくに向き直った。

「一番の魅力は相手の目を見ないことだ。いや、見てるんだろうけど、まっすぐこちらの目を見ない。だいたいなぁ、人として経験の浅い女に限って真正面から見つめやがる。自信満々に睨みつける。何か見つけてやろうと人の目を覗き込む。これじゃあダメダメ」

 良い酒なのかそうじゃないのか、甘沢は手を左右に振って、ダメを連発する。

「じゃあ人妻や未亡人は、どうしてまっすぐ見ないんだ?」


 「教えてあげましょう。誰にも言うなよ……。人妻は後ろめたさ、これだよ。後ろめたいからまっすぐに見ない。分かるだろ?」

「じゃあ未亡人は」

「俺の考えでは、いいか? 未亡人は人生の一コーナー、二コーナー回ってるじゃない。山あり谷ありの人生、豊富な経験そのものの魅力。それと諦めの魅力……と、同時に諦めきれない魅力だ。それでこっちの目を見ない。遠くを見つめるような目、それがこちらの想像力をかきたてる……どうだ、かなり深いだろうが」


 ぼくは甘沢の酔い具合を探りながら、

「君の奥さんは君をまっすぐ見る? 見ない?」

「いやあ、あの人はオレにとっては人妻じゃない。それに彼女は学生時代ソフトボールのエースでね。まっすぐ見なきゃ、ストライク入んないじゃん。だろ? でも俺が死んだらまっすぐ見なくなるかも……未亡人だもんな」

「今は何?」

「うん。頼もしいうちのエースだ。俺のミットめがけて、豪速球を投げてくる。カッと目を見開いてな」

「それ、話がややこしくなってない?」

「ややこしいから退屈しない」


 話の雲行きが怪しくなってきたので、適当に切り上げることにした。

 甘沢はここで出しそびれていた名刺をぼくに渡し、

「時々会おうよ、良かったら」

 と握手をして、ぼくは店を出た。

 彼からもらった名刺を店の外の明かりにかざして見ると「甘沢よろず相談所・調査センター」の文字が、カッと目を見開くように並んでいた。

 彼の人妻・未亡人論にもなんとなく納得がいった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます