もぬけのから

田村ろご

第1話 空本さん

 元上司の空本からもと飛太とびたと久方ぶりに会ったのは新宿のとあるバーだった。ぼくが広告代理店を退社したあと、新しく立ち上げた会社のクライアントを通して、最近なじみになった店である。

 空本さんが当時の役職より昇進して営業部長になったのは、ぼくが退社してから一年ほど経ってからだった。とはいえ、年始の挨拶以外はこれといった交流もなかった。


 店の奥のカウンターで飲んでいるぼくを目ざとく見つけた空本さんは、数年ぶりの再会に驚いた様子で、少しおおげさに目を見開き片手を上げた。

「おお、ビックリしたあ! 偶然とはこのことなんだよなあ! グウゼン、タマタマ、ノミキンタマ……なんてね、おっとこりゃご無礼いたしましたぁ」

 と周りの客の目線を少し意識した軽いノリのダジャレを発しながら、ぼくの隣の席に座った。


 彼はこの店をかなり頻繁に利用しているらしく、彼のあまり面白くないダジャレにも、顔なじみの客たちはむしろ好意的な笑いで反応した。

 彼らの顔ぶれを見てみると、どうやら同じ業界の人間が大半を占めているようだ。広告代理店の同業者はもちろん、テレビ局の制作スタッフや営業関係者、大手新聞社の広告・パブリシティー部門の担当者、そこに出入りするフリーライター――。


 彼らは所属先は異なっていても、それぞれお互いに同じ肌触りと体臭を共有していることには気づいているようだ。そしてとりあえずは安心して酔いに浸れるのである。

 このような無定形な解放感から、案外ヒットするCMのアイディアやコピーが生まれることもあるのかも知れない。


 ぼくは五年ぶりに彼と会ったことよりも、

「夕べからオマエのことがなんとなく気になってたんだよぅ!」

 という空本さんの言葉に軽い戸惑いを覚えた。

 前後の脈絡や形式を無視した単刀直入な語り口は相変わらずである。

 ついでに言うと、この業界の人間の多くがそうであるように、彼には深遠しんえんな思考力よりも、迅速じんそくで幅広い情報収集能力と直感力、陽気な人柄……それに加えて、なぜか頑健がんけんな体力が必然的に備わっている。


 しばらくぶりの再会の挨拶、昨今さっこんの経済情勢、知人の消息などをひととおり話し終えたあと空本さんは、

「なんかミニコミ誌をやってるんだって? 君が辞めた次の年の年賀状に書いてあったけど……。その後なんとかやってんの?」

「なんとかやってます。最初は色んな面で試行錯誤の連続でしたが、一年半ほど前に方針転換をしまして」

「どんなふうに?」

「実はミニコミ誌をやめて、ウェブサイトにしたんです。インターネットの時代ですから……、それと社名を『株式会社マナアド』に変更しました」

 と言って名刺を渡す。


「そういえば今年の年賀状に今までと違う会社名が書いてあったな……。それでどんなウェブサイト?」

「女性が情報や意見を交換できるサイトです」

「ふうん。で、アンタひとりでやってんの?」

「いえ、ぼくが社長で、女性のアシスタントが一人います」

「二人だけ」

「はい」

「なるほどね……」

 ほんの少し沈黙が続いたので、ぼくはそれを埋めるように、

「……風林かざばやしさんは……、あ、そのアシスタントですが、よくやってくれています……。風に林と書きます」


 空本さんは相変わらず黙ったまま、何かを考えているようだったが、突然、

「そうだ、思い出した。先月大学の先輩がオレに、何やら変わったビルがあるって話をしてて、その時はすぐには商売につながりそうもないので適当に聞いてたんだが、いまキミの話を聞いているうちに、何かつながるんじゃないかと思ってね。あ、もちろんキミの仕事とそのビルのことだけど」

「はあ」

「えっと、確かビルの場所は中央線の国立駅か立川駅で、なにか女性のために作られたんだとか……。とにかく、あまり真剣に聞いてなかったもんだから、それぐらいしか覚えてなかったんだけど」

「はあ」


「ところがだ、昨日めずらしく家で晩メシを食っている時に、長い間会ってなかったオマエサンを思い出したんだよ、ふと」

 空本さんの話が熱を帯びてきたので、ぼくは若干姿勢を正して聞き入った。

「そしたら久しぶりに会ってさっき聞いたキミの話、ほら、女性が意見を交換できるウェブサイトってやつ。それといま話した変なビル……、俺のカンだとこれはつながるかも知れんよ。何しろ世の中には、ちょっとした偶然ってヤツがお互いに糸をたぐりよせるケースが、ずいぶんとあるからなあ」


 確かに空本さんからしてみれば、予知能力の存在を信じても当然であろう。

 普段多忙な彼が、永年会っていなかった人間を久しぶりに思い出し、その人間と翌日不意に再会したのだから。

「よく世間でいわれる『虫の知らせ』というやつかもな」

 と彼は言って黒縁の眼鏡を外す。そしてハンカチでレンズを入念に拭いた。

 ぼくはそんな空本さんを見て、それは善良で気立ての良い虫であるに違いないと思った。


 そのあと空本さんは、自分の半生の不思議なめぐりあいについて喋り出すと、学生時代のこと、転職、奥さんとの出会いから結婚の話――と次々にハイボールのグラスを空にした。


 ひととおり話し終えたところで、

「おっ! こりゃいかん、次のアポがあるのを忘れてた」

 と時計を見ながら言うと、

「そのビルのパンフレット、たぶん俺んちにあると思うから、キミの名刺の住所に送っとくわ」

「お願いします。ご無沙汰ばかりしていたのに、感謝します」

「気にするな、老後世話になるかも知れん。良い方に行けばいいがな……。じゃあ行くわ」

「課長、じゃなかった、部長もあまり飲みすぎないようにしてください」

「ありがとう、老後は頼むわ……、あ、それから風林さんによろしくな」


 呆気にとられているぼくの視界から、颯爽さっそうと空本さんは消えていった。いくぶん気取り気味に、だけどしっかりとした足取りで。


 一時間あまりの間に、空本さんはぼくのことを「オマエ」「アンタ」「キミ」「オマエサン」と四つの違う呼び方で呼んだ。

 単なる気まぐれからか、あるいは会話の流れによって使い分けたのか、はたまた酒のせいか。ぼくには今もって分からない。

 風林さんの名前だって、耳に入っていないようでいて、しっかりと彼の頭の中にインプットされていた。「人たらし」の空本部長の、面目躍如たるところだ。

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