第247話「それは許されないことだから……」



 自分にとって異なる世界であっても、闇を照らす月の輝きは変わらない。


「……」


 しかし縋るように夜空を見上げてみても、そこで優しく瞬いているはずの銀光は今、厚い雲のカーテンに隠れてしまっていた。

 その曇り空はまるで、その不変なる輝きを見ることによって、安易に安心感を得ようとした者の浅はかさを嘲笑っているかのよう。


「……はぁ」


 もう何度目かも分からないため息のみが零れる。後に続く言葉は無い。言えるわけもない。

 ワタクシ、リンゼ=ブルームフィールドが唯一できることといえば、こうして広縁の椅子に座ってアンニュイな雰囲気で夜空を見上げつつ、リゼットお母様から受け継ぎしゴールデンでゴージャスな髪をまんじりともせず気怠げに指へ絡めることのみ──、


「……なにをアホ面ではぁはぁしている、我が愚鈍なる妹よ。発情期の猫でもあるまいに。うるさくて眠れるものも眠れんわ」

「あ、あほづ──!?」

「うるさいと言っているだろう。おとーさんやおかーさんを起こしたいのか」


 カナタは隣室で眠る両親をチラリと盗み見つつ、こちらに素早くその腕を伸ばす。


「ふむぐっ!?」


 いやだからってアイアンクローすることなくない!? 口塞ぐのになんで顔を鷲掴み──あっ、あっ、潰れる! ワタクシの可愛らしい小顔がトマトみたいに潰れるー!?


「むぐー!?」


 その濡れ羽色の長い黒髪も相まって、唐突に闇から生まれ落ちたのかと見紛うカナタの手から逃れるべく、ワタクシは評定平均6(10段階)の優秀な脳みそをフル回転させた。こういう時は──!


「ち……チヨメお姉様に、い、言う……」

「……む」

「ぷはっ」


 咄嗟にチヨメお姉様の名を出せば、カナタは一瞬渋い顔をした後に手を離す。

 いったた……大丈夫? ワタクシの顔歪んでないジャガイモみたいに?

 痛む頬を擦っていると、カナタは「ふん」とお父様そっくりの鼻息を鳴らして対面の椅子にドカッと座り込んだ。


「千代女姉さんの名を出すとは、卑怯な」

「アンブッシュで末妹をアイアンクローする次女よりはマシですわよ」

「ついアイアンクローしたくなるような顔だったのでな」


 いやどんな顔……帰ったら絶対チヨメお姉様にチクってやりますわ。そうして待ち構えている地獄のダンデライオン地獄の研修期間をカナタだけ二倍に──、

 

「……」


 そう、帰った、時には……。


 キッとカナタを睨んでいた目も、どんどん下へと落ちていく。そんなワタクシの姿を前に、目の前の次女は「それで?」と言うように琥珀色の瞳を細めた。


「……どうせ、下らんことでも考えているのだろう」

「下らなくなんか……」

「いいや、下らんな。今更どうにもならんことで抱く浅い後悔など、思考を停滞させるだけだ」

「……」

「いつ帰る」

「っ……」


 その端的な一言が、俯いたワタクシの胸を貫く。

 ああ……"カナタお姉様"に戻ってから、その舌鋒も切れ味を取り戻した。まさに単刀直入と呼ぶに相応しい。


「……」


 しかし何も言えずにいるワタクシを鋭い瞳で見据えながらも、カナタは急かすことなくじっと待っていてくれていた。


「……ワタクシ達、残酷なことをしてしまったのでしょうか」

「そうだな」


 ポツリと、水を一滴垂らすようなワタクシの呟きに、カナタはあっさりと同意する。


「私達は一抹の寂しさを埋めるため、こちらの枝葉に来た。寄り道や紆余曲折はあったものの、その目的は叶えられたと言っていい」

「……ええ」

「そうして私達は満足して帰って、今度は本来の両親に甘えるわけだ……"こちらの両親"を置いて、勝手にな」

「──」


 そう。ワタクシ達の行動を言い表せば、そうなる。


「少々、悪ノリが過ぎたな。私も考えなしだった」


 腕を組んでそう言う姉の声は、厳然たる事実を述べる。その声色に、ワタクシのような後ろめたさはないけれど。

 ……ワタクシは、苦しい。だって、そうでしょう? ワタクシ達には本来のお父様とお母様、そしてこちらの枝葉のお父様とお母様がいる。


 だけど──こちら側のお父様とお母様には、いずれ帰ってしまうワタクシ達しかいない。ワタクシ達が姿を消せば、それでこの関係は終わりなのだ。


 もしワタクシ達の前から両親が消えたら、少なくともワタクシは胸が張り裂けそうな心地になるだろう。きっと……いや、絶対に泣き喚く。

 そんな想像するだけで心が凍てつく悲しみを……ワタクシ達は、これから押し付けようというのだ。


「……帰りたくないですわ」

「たわけ、おとーさんが言っていただろう。向こうのおとーさんもきっと泣いている、と」

「うぅ……」


 軽い気持ちだった。ちょっと行って、帰るだけだと。

 そして考えないようにしていた。両親の気持ちも、自分の気持ちも。

 お父様とお母様が人目も気にせず睦み合うことが疎ましかった気持ちはもちろんある。だけど本当は寂しかっただけなのだ。もっと自分に構って欲しかっただけなのだ。

 そうしてそのことから目を逸らし続け、ここまで来た。直視すれば、どちらも傷付くから。


「うっ……」


 じわり、と。目の端に涙を溜める。だけどそんな情けないワタクシを見て、カナタはスッと瞳の切れ味を更に鋭くした。


「おい。もしおとーさんとおかーさんの前で泣いてみろ。私はお前を二度と妹とは認めんからな」

「ひぐっ、だ、だってぇ……」

「私達には最初から、別れを惜しむ権利など無いのだ。勝手に転がり込んできた私達には」

「ふえぇ……」


 そんなこと……そんなこと、ワタクシだって分かっていますわ。

 悲しみを背負うのは親の方。ワタクシ達は迷惑だけかけて満足して、勝手に帰るだけの親不孝者なのですから。別れ際にでも泣いてしまえば、悲しい別れの記憶となり更に傷を付けるだけ。

 じゃあ、どうすればいいんですの? いっそ今すぐに帰れば傷が浅く済みますの? 関われば関わるだけ、別れが辛くなるだけならば。

 ワタクシがそんな逃避めいたことを考えながら涙を拭っていれば、カナタは呆れたようなため息を漏らす。


「いいか、両親の前では決して泣くな。これだけは絶対だ」

「無理ぃ……」

「無理でもやるのだ。お前は世界一強いおとーさんの血と、世界一高貴なおかーさんの血を継いでいるのだ。できぬ道理など無い」

「でもぉ……」

「──だから、な」

「……え?」


 その言葉の途中で、視界が真っ黒に染まる。

 そして頬に布の柔らかさと、頭を優しく撫でる暖かい手の感触。

 一瞬、何が起こったのか分からなかったけれど、


「だから今……見られぬ内に泣いておけ。この次女の胸の中で、涙を枯らしておくといい」

「…………ぅ」


 ああ、やっぱり……。

 カナタは、ワタクシのカナタお姉様ですわ。

 厳しいようでいて、身内には駄々甘の。本当に……お父様そっくり。


「この枝葉へ来るよう唆したのは私だからな。手のかかる妹の悲しみくらい、背負うのが筋だ」

「ふ、うぅぅぅ……!!」


 そうして数分か、それとも数十分か。

 両親を起こさないように唇を引き結びながら嗚咽を漏らす。優しい姉の胸の中で。

 そんな強い姉は、ゆっくりと私の髪を撫でてくれている。そのぶっきらぼうでいて、だけど何より優しい指が一撫でするごとに、涙が……もっと強く零れた。


「いいか、リンゼ。私の愚かな妹よ」

「はい……」

「"笑顔"だ。私達にはもう、笑顔でお別れをすることしか許されていない。涙と共に別れるなど言語道断。厚顔無恥の極みよ。私達は所詮、勝手に来て、勝手に帰る」

 

 そうしてカナタは一際強く、くしゃりとワタクシの髪を撫でた。言い聞かせるように。


「──どれだけ辛くとも『楽しかった!』と、子どもらしくヘラヘラとした笑顔を浮かべてな」


 そうすることが、両親への何よりの餞となる。

 別れた今を悲しむのではなく、一瞬だけ交錯した未来の風が、その背を押す追い風となるように。

 それがワタクシ達に許された……そして、唯一残せるものだった。


「わかり、ましたわっ……」

「良い子だ」


 だから今は、たくさん泣いておく。身勝手で子どもらしい涙を、たくさん。

 大好きな両親が「帰ってもきっと大丈夫だ」と、笑顔で見送ってくれるように。


「今は存分に泣け。あとはもう笑うしかない、といった具合にな」


 ……そういえば、ワタクシばかりが泣いていますけれど、

   

「……カナタは、泣かないんですの?」

「はっ、間抜けが。妹の前で涙を流す姉などいない」

「む……」


 心底こちらを馬鹿にしているような口調が上から降ってくる。

 むむむ、姉と言っても私と同い年のくせに。

 その随分な言い様に、ワタクシもさすがにカチンときて──、


「──私は外で泣いてきた。ついさっきな」

「──」

「もう一滴も出ん。……こら、見るな」


 その言葉に目を見開き、姉の顔を見上げようとしたら頭を押さえつけられてしまった。

 きっと話している時に月明かりが出ていたら、涙の筋が、赤くなった瞳が、よく見て取れたかもしれない。


「ねぇ、カナタ……」

「……なんだ」


 少し憮然として聞く妹想いの姉。その浴衣の襟をそっと握る。背伸びをしながら。


「ありがとう…………お姉ちゃん」

「……………………ふん、私は姉だからな。酒上の血は妹を守護らずにはいられんのだ。これは生態であって、私が特段優しいわけではない。千代女姉さんであればもっと上手くやるだろう。そもそも、お前に涙を流させてしまった時点で私は──」

「クス、もう……照れすぎですわよ」


 そんなワタクシの苦笑交じりの言葉に、上からムッとする気配。だけど、こちらの頭を撫でる手は止まらない。


「……ツンデレが、上手くなったな」

「あなたも。さっきの言い方なんてお父様そっくりですわ」

「……」

「……」


 そうして……。

 顔を見合わせたワタクシ達は少しだけ吹き出し、そして大いに泣く。

 

 そんなワタクシ達を包み込み、微笑むように。

 いつの間にか現れていた不変の月が、抱き合うワタクシ達を静かに照らしていた。


 それでようやく──決心が、ついた。

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