第217話「母は強しとはよく言ったものだ」



「……ありがとうございました」


 チリンチリンと涼しげなベルの音と共に退店する客の背中に、彼方はゆっくりとお辞儀をしてそう呟く。


「……」


 そうして客が完全に見えなくなれば静かに顔を上げ、テキパキとした動きで卓上の食器を片付けていく。


「うむ」


 そんな愛娘が働く姿に頷きつつ、テーブル席の一つに座る俺は視線を切って傍らに佇む女性に目礼をした。


「唐突な申し出にも関わらず、助力痛み入る」

「いいのよ~、可愛いウェイトレスちゃんが増えるのはダンデライオンにとってもいいことだし?」

「もう、お母さん……」


 ヒラヒラと何でもないように手を振りながら笑うのは、綾女のそれより濃く長い髪を揺らす一人の女性だ。

 綾女の着るものより落ち着いた色の制服を着こなしながらも、その佇まいに一本気すら感じるのは、彼女が一人の母だからであろうか。


「それにぃ……将来の息子のお願いとあったら、断っちゃうと後であやちゃんに叱られそうだし?」

「お、お母さん!!」


 隣に立つ娘からの叱責にも、快活に笑って返すそんな女性の名は──薄野汐女すすきのしおめ。綾女の母であり、この喫茶店を実質的に取り仕切る人間だ。

 綾女に似て小柄であり、年の離れた姉だと言われれば信じてしまう程の若々しい気風を携えている。俺としても話していて気持ちのいい心地になる、稀有な人間だ。

 綾女からポカポカと叩かれているそんな最中の女性に、俺は今一度目礼した。


「いや、綾女を拉──借り受けたばかりだというのに、我が娘に場の提供までとなるとな。鬼は不心得者ではあっても、恥知らずではないのだ」

「今絶対拉致って言いそうになったよね。ていうか、そうだよ! お母さんまで刃君と一緒になって!」

「あらやだ、私は可愛い可愛い奥手な娘の恋の手助けをしようと思っただけなのよ? それでそれで、どうだった? 昨日は楽しかった? どこまでいったの? パパには秘密にしておいてあげるからママに赤裸々に話してみなさいよっ」

「お母さん私怒るよ!?」

「残念ながら母君よ、普通に生活を共にし、友好を深めるだけに終わってしまったのだ。せっかくの据えぜ──機会を、不意にしてしまい面目ない」


 矢継ぎ早に母君は綾女に質問をするが、いやはやこの戦鬼、情けない限りだ。

 俺が真実を告げれば、母君は明らかに不満そうに唇を尖らせた。


「えぇ~? お泊まりに行って何も無し~? 私が若い頃はパパのお家に行ったらそれはもうはしゃいだものよ? あやちゃんったらホントに何もしてないの?」

「………………し、シテナイヨ」

「うん?」


 なにやら綾女の歯切れの悪い言い方に、母君が目を細める。獲物を狙い定めた肉食獣のように。


「……じー」

「……」

「……あやちゃん。あやちゃんって嘘つく時、唇噛む癖あるの知ってた?」

「えっ、嘘!?」


 バッと勢いよく口許を手で覆い隠す綾女だが、


「うっそぴょーん♪」


 無論、そのような仕草を綾女はしていない。これはしてやられたな。

 ご機嫌な様子で手で兎耳を生やして言う母君に、綾女はそれはもうパンパンに頬を膨らませた。


「なっ! ま、ママーーー!!」

「きゃあ、あやちゃん怒ったー♪」

「もーー! もうもうーーー!!」

「クックック……」


 これほど感情を露にする綾女など、そう見られるものではない。やはり親子というのは気の置けない関係性なのだな。いまだ親子関係に慣れぬこの身だ、参考の一つにせねばなるまい。


「……それにしてもカナタったら、急に働きたいだなんて」


 美しい親子愛を前にくつくつと肩を震わせていれば、テーブルの正面に座るリゼットが彼方の方を見て呟く。その相貌には、疑問の色が浮かんでいた。

 そのまま視線で「どうして?」と聞かれるが、俺も詳しくは聞いていないため頭を振る。


「さてな。だが俺と刀花の娘だ。座して考えるより、身体を動かしながらの方が性に合っているのだろう。実際、時折何か物思いに耽っているようだからな」


 まるで何かを一つひとつ確かめるように。

 きっと、己の中にある持ち物を吟味しているのだろう。原点を探るようにして。

 そんなこちらの言葉に、リゼットの隣にちょこんと座るリンゼも頷きを返してきた。その度に、両端に結んだ金髪ツインテールがピョコピョコと跳ねる。


「まぁ、カナタは口より手が出るタイプですし。ああしている方が余計なことをしない分、よろしいかと」

「なるほどな」

「ふぅん、そういうものかしら? ……あーん。もくもく……」


 娘の言葉を聞きつつケーキを切り分け、ご主人様の小さなお口へと運ぶ。そこへ更に冬の寒さを吹き飛ばす温かい紅茶が添えられれば完璧だ。


「リゼットお母様……」

「あ、いやこれは……」


 あまりに自然な“あーん”に、横にじっとりと目を細める娘がいることも忘れていたのか、リゼットが赤面する。

 だが、抜かりはない。この父は全て分かっているとも。


「そらリンゼ、次はお前だ。あーんしろ」

「え、いえワタクシ別にねだったわけでは……あ、あーん……もっきゅもっきゅ……」


 ブツブツ言いながらも結局は口を開けるのだから、やはりこの子達は似たもの親子だ。髪から覗く耳の先端が真っ赤なところなどそっくりである。


「して──どうだ、彼方。調子のほどは」

「旦那様……はい、概ね良好です」


 そんな中で近くに彼方が通りかかったので聞いてみれば、彼方は少し迷いながらもそう答えた。そしてまた、静かに給仕へと戻っていく。

 その背中を見送り、俺は一つ息をついた。


「ふむ、嫌々やっているというわけではなさそうだな」

「そうみたいですね。もっと深く聞いちゃいます兄さん?」

「……いや」


 今度は右隣から聞こえてくる妹の柔らかい声に、いまだやり合っている薄野親子をチラリと見上げながら答える。


「彼方が話したくなった時でよかろう。薄野家のような関係も理想ではあるが、彼方はあまりそういうタイプでもなさそうだからな」

「ふふ、そうですね。花も水をあげすぎちゃうとかえって具合が悪くなっちゃうものですし。まぁ私は兄さんからもらう水でしたら何リットルでも飲み干しちゃいますけどねっ!」

「そうかそうか。どれ、この兄が手ずからパフェを運んでやろう」

「むふー、あーん♪」


 持ち手の長細いスプーンでクリームを掬い妹の口へと運べば、刀花は頬を蕩けさせてパフェをパクつく。

 家庭にもそれぞれ色がある。その綾模様で人間社会というものは成り立っているのだ。一律には考えられまい。

 子が親に合わせるように、親もまた時には子に合わせねばな。

 だが、我がご主人様はそんな我ら兄妹を少し疑わしげに見つめていた。


「いいのそれで……なんだかちょっと薄情じゃない?」

「む……そう、だろうか?」

「あはは、子育てなんて別にそんなものよ」

「母君」


 リゼットの言葉に思わず「むむ」と顎に手を当てていれば、母君がそれを掬い取る。隣の綾女はまだ頬を膨らませているが。

 だがそんなことはお構い無しといった雰囲気で、薄野汐女という女性は胸を張って語った。


「近くから見てても遠くから見てても、子どもっていうのはしっかりと育っていくものなのよ。親がキチンと“見守って”いればね。だってそうでしょ? 結局歩くのは自分の意思で、自分の足は自分にしか動かせないんだから」


 そうしてこちらにパチリとウィンクをして、母君は少し悪戯っぽく笑う。


「もちろん"見放すこと"と、"見守ること"は全く別なことなのね。酒上君はそのあたりどう?」

「無論、見守っているとも」


 間隙も与えずにそう答えれば、母君は満足げに笑みを深めた。


「そうそう、それが分かっていれば親として及第点。所詮、親なんていつか外れる補助輪程度に思っておかないと。親も、子も、ね」

「……そういうものか?」

「そうよ? そうじゃないとどっちも窮屈じゃない? それに子どもの重荷なんて少ない方が歩きやすいでしょ。荷物を持つようにはしても、持たせるなんて親としては失格ねー……って経営傾かせてた私が言えることじゃないかぁ!」

「いや……」


 たははと苦笑する母君だが、俺はその隣をちょいちょいと指差した。


「あれ? どしたのあやちゃん?」

「……」


 そこには、ポカンとして固まる綾女の姿がある。

 そうしてまじまじと母の顔を見た綾女は、なんとも意外そうな声音で呟いた。


「なんか……お母さんって、“お母さん”だったんだね……」

「ふふ、そうよ? 良い子に育ってくれたあやちゃんが、なによりの証拠ね」

「あ──」

「いやまったく」


 母君は冗談めかして言うが、全くもってその通りだろう。その慈愛の籠もった手で娘の頭を撫でる様を見れば、否定の言葉など出ようものか。


「いや天晴れ」


 他の客がいないのをいいことに俺や周囲の少女達が拍手を送れば、「あはー、ママまた何かやっちゃいました?」と頭をかきながらそんなことを言う。照れ隠しにも愛嬌たっぷりだ。


「いやはや、母というのは強いものなのだな。この無双の戦鬼、己より強き者が現れようとは夢にも思わなんだわ」

「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。私のこと、お義母さんって呼んでくれてもいいわよ?」

「もうママ! 調子に乗らないの!」

「きゃあ♪」


 価値のある言葉は"金言"とも呼ぶ。母君の言葉はまさしくそれであった。

 俺達兄妹は親を知らぬ。母という存在を知らぬ。だが、その母が「それもまた良し」と言ってくれたのだ。


「うーむ」


 まるで姉妹のようにじゃれ合う薄野親子を見る。この母の背を見ながら育つ綾女は、きっと良い母となるだろう。そしてそんな娘を受け入れる母の姿も、なかなかにこの鬼には眩しく映る。まるで宝石のように。

 なるほどな……、


「──人妻、か」

「あなたは何をしみじみと呟いてんのよ」

「兄さん、人のものを取っちゃめっですよ?」

「いはいいはい。じょーらんらじょーらん」


 じっとりとした目で二人に頬をつねられてしまった。少しその煌めきに目が眩んだだけだというのに。


「やだ、ダメよ酒上君っ……あなたには、あやちゃんという大事な女の子が……!」

「それを言うなら『私には愛する夫が~』でしょ、お父さん泣くよ? あと刃君にあんまり変なこと言わないでよ……何がトリガーになるか分かんないし」

「妬いてるあやちゃんもかーわーいーいー♪」

「や、妬いてないよもう! そういうのやめてっていつも言ってるじゃん!」

「だってぇ~」


 またしても騒ぎ出す一同に、リンゼのみが付いてこれず「いい話でしたのに……まぁシオメ伯母様らしいですけれど」と暗く呟く。きっとあちらの母君もこんな感じだったのだろう。

 まだまだこの童子切安綱も、親としては付け焼き刃ということか。


「教え、感謝する母君。母君は酒はやるか?」

「うん? ディナータイムにはお酒も提供してるし、まぁ……嗜む程度には?」

「そうか、少し待て」


 ゴソゴソと和服の袖を漁る。確かこの辺りに……、


「ああ、あったな。借り受けた綾女と助言の返礼だ。これを進呈しよう」

「いやどっから出したのあなた……」

「あれ、知りませんでしたっけ。兄さんの和服の袖は異次元に繋がっているんですよ?」

「これもうやっぱりジンえもんじゃん……」


 袖からヌッと一本の酒瓶を取り出せばリゼット、刀花、綾女が口々に言う。誰がジンえもんか誰が。


「価値があるのは分かるのだが、どうも横文字の酒はあまりそそられなくてな。腐らせておくのも忍びない。父君と飲むがいい」

「じ、刃君ちょっと待ってこれ……マ〇カランって書いてあるんだけど……しかも1946て……」


 ドン、と机に置けば、しかし綾女が青ざめた顔でそんなことを言う。

 リゼットもそれを認め、頬をヒクつかせながらこちらに問うた。


「ジン……あなたこんなのどこで手に入れたのよ」

「一時期、西欧に国外逃亡していた折、潜伏していた廃墟の地下で見つけたのだ。他にも何本か拾ったぞ」

「み、密造酒……」


 出所は知らんがな。

 だが飲まれない酒というのはあまりに哀れだ。あの時は「可哀想に。この俺が救ってやらねば!」と使命感に駆られたものよ。


「あ、ありがと……酒上君……」

「うむ」


 あの母君ですら冷や汗を流しながら受け取るとは、侮れない逸品だったか?

 だが日本の鬼は米派なのだ。最近はご主人様の影響で葡萄もそれはそれでいいとは思っているがな。


「ふぅむ……」


 そこまで価値あるものならば、残っている何本かは市にでも流して振り袖のローンに充てるか。上手くいけば、綾女の分の振り袖も購入できるやもしれん。


「うむうむ」

「旦那様」

「うむ?」


 そうやって脳内で一人ほくそ笑んでいると、仕事が一段落ついたのか、それともこの場でできる限りの心の整理がついたのか、彼方が声を掛けてきた。


「どうした」

「……他のこと、したい」

「ほほう?」


 他のこと、とな。


「それは、今し方終えた接客に似たことをか?」

「……」


 こくり、と小さく頷く。

 ふむ、どうやら彼方は“誰かの役に立つ”という部分に重きを置いているのかもしれん。やはり我が戦鬼の“道具”の側面を濃く受け継いでいる可能性があるな。

 だが、彼方は俺と違い少々特殊だが人間だ。そんな彼女に、次に何をさせるべきか……。


「あ、ねぇねぇ彼方ちゃん」

「はい、綾女奥様」


 迷っていれば、話を聞いていた綾女が彼方に声を掛ける。

 ……ちょっぴり、そのくりっとしたアーモンド色の瞳に期待の光を宿して。


「──ボランティア活動って、興味ないかな?」

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