第167話「にーじゅ」



 倦・怠・期。


 それは恋人達に訪れるとされる冷たい季節。

 大切な人と一緒にいることが当たり前の状況に、出会った頃のようなときめきが感じられなくなる状況のことをそう言うらしい。

 一般的には、最初の倦怠期は三ヶ月目に訪れると言われている。

 それはつまり、夏に彼と運命的に出会った私……三ヶ月目となる秋も深まったこの時期を迎えたリゼット=ブルームフィールドにも、その倦怠期とやらが容赦なく訪れてしまうというこ――


「――いい夢を、我が愛しのご主人様」

「……うん♪」


 いやないわー。

 倦怠期とかないわー。

 ねぇ、誰ぇ? 倦怠期が三ヶ月目に来るとか言ってるの。全然ドキドキするんだけど?


 いつも命じている、彼との就寝前のキス。

 自分のベッドに入って上半身を起こす私に、彼はそのちょっぴり硬い手を私の頬に優しく添えて唇を合わせる。

 もうほとんど習慣となったこれを、だけど彼は毎回情感たっぷりに施してくれる。

 唇から漏れる吐息も熱く、優しく髪を梳いてくれるその指も愛おしい。一秒ごとに愛しさが胸の奥から泉のように溢れ、その気持ちに溺れてしまいそうになる。ううん、もう溺れてるのかも……。


「マスター……リズ、愛している」

「ん、んっ、ちゅ……」


 時折唇を離し、耳許で睦言を囁かれるのも好き。

 ご主人様のことを愛称で呼ぶなんて、眷属には贅沢なことかもだけど……ま、まあ、許してあげるわ?

 そうやって彼にキスをされるたびに、大好きな人に愛されているという充足感と、ほんの少しの優越感と、そして大いなる多幸感が私を包み込む。

 毎晩、幸せの絶頂点を更新していると言っても過言ではない。愛しさが留まるところを知らなくて怖いくらいだわ。


(うーん……でも)


 彼は恥じらいも無く、私に好意をダイレクトに伝えてくる。


(でも……最近私から『好き』って、伝えてないかも)


 もちろん、気持ちが冷めたとかでは決してない。

 だけど、気持ちを素直に口に出しているかと問われれば……少々、恥じらいが勝ってしまっている部分もある。


(むむむ)


 これは……ちょっと“分からせて”あげるべきなんじゃない?

 いえ、別に昼間にネットサーフィンしてたら偶然目に入った“倦怠期”の文字にビビったとかじゃなくてね?

 眷属にご褒美を与えるのもご主人様の務めっていうか? ノブレスオブリージュっていうか?

 その……私だって、同じくらいあなたのことを愛してるって、た、たまには言葉にしておかないと――


「さて。ではな、我が主。また明日だ」

「あ――」


 キスしている間にそんなことを高速思考していた私は、自室に戻ろうと離れていく彼の温もりに思わず……、


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……」


 手を伸ばし、彼の和服の袖を摘まんでいた。


「ん……?」


 通常であれば、これで夜の儀式は終了。

 だけどいつもとは違う私の様子に、彼は小さく不思議そうな声を上げた。

 うぅ、呼び止めちゃった……でもこうしたからには、気持ちを伝えないと不自然だわ!


「そ、その……ね?」

「うむ」


 も、もぉ……そんな真っ直ぐに私の目を見ないでよぉ。本当に、本当に悪い人だわ。そんな目でじっと見られたら、私――……


「こ、今夜は……ご主人様と一緒に寝ることを、許可してあげるわ?」

「ほう……?」


 きゃー!?

 ち、違うの! なんか好意を伝えるよりすごいこと言っちゃってないかしら!?

 だってだって! そんな愛おしそうな目で私を見るからぁー! つ、つい想いが溢れたというか……まだ一緒にいたいって気持ちが先走ったというか!


「では、失礼して」

「あっ――」


 心の中で言い訳をしていても、彼は何食わぬ顔で私のベッドに入り込んでくる。

 う、まあでも? 結果オーライってやつじゃない? 口では好意を伝えてないけれど、ご主人様のベッドに眷属が入ることを許す吸血鬼なんて、そうそういないんだからね?


(って、ちょっと――!?)


 彼は横を向いて寝る私の背後にスルリと滑り込み、


「ああ。よい抱き心地だ」

「はぅっ!?」


 ――ぎゅうっと包み込むようにして、私をその両腕で後ろから抱き締めた。


(なななななな)


 な、なななな何してるの!? 誰が抱き締めていいって言ったのよぉ! 幸せ空間になりすぎて何も言えなくなるからやめなさいよねもう! この子、私のこと好きすぎじゃない……? うう、私もぉ……。


「ね、ねえ、ジン?」

「んー……?」


 気の抜けた声と共に、彼はさわさわと私の髪を優しく撫でる。その手つきは、彼が夢で見たというお母様の手の動きを再現したもの。

 そうやって私の恥ずかしがる顔をなるべく見ないように背中から抱き締めているのも、そういう手つきを自然にするところも……、


「私、ね……?」

「……」


 ああもう……。


「あ、あなたのこと……!」

「……」


 い、言う! 言うからね!?


「す、すっ――」

「すぅー……すぅー……」

「すぅすぅ!?」


 その緩やかなリズムの吐息に勢いよく振り返る。

 いや器用ー!? 髪撫でながら寝てるぅー!


「な、なんなのよ……」


 ねえ、今ご主人様すごい勇気出そうとしたところなのよ? ドキドキしてるの私だけみたいでバカみたいじゃないの……。


「むぅ~」


 頬を膨らませてみても、彼の瞼は閉じたまま。

 優しく髪を撫でる動作はそのままに、彼は夢の世界へと一足先に旅立っていた。


「もう……」


 もうちょっと、二人っきりでお話ししてたかったのに……ってそうじゃなくて。

 まったく。せっかくあなたの敬愛するご主人様が、愛の言葉をプレゼントしてあげようと思ってたのに。あなた、かなり勿体ないことをしたわよ?


「……」

「すぅ……すぅ……」


 ……寝てる、わよね?

 だ、だったら、少しは……サービスしてあげてもよくってよ? じゃないと収まりがつかないし……。


「……」


 私はもぞもぞと、身長差のある彼の頭の方へと顔を動かす。

 そうして念入りに彼が寝ていることを確認し、破裂しそうな鼓動を押さえ、彼の耳許へと唇を寄せた。


「ジン――大好きよ」


 コソッと。

 彼に秘密の愛を囁く。普段は恥ずかしくって伝えられない、私の本当の気持ちを。


「ふ、ふぅっ」


 い、言えた……!

 なに、余裕よ余裕。私を誰だと思っているの? 不意打ちだろうがほとんど独り言みたいなものだろうが、“言った”って事実を、私は大事にしていきたいわね! うんうん!


「あー、顔熱い……もう、こんなに可愛いご主人様を持てて、あなたは本当に――」

「――幸せ者だな、俺は」

「そう、幸せ者よあなたは……ん?」


 んー……?

 ちょっと待ってー? なんか聞こえたんですけどー?

 私はダラダラと汗を垂らしながら、ギギギと音が鳴りそうなくらいぎこちない動きで視線を下に向ければ……、


「俺も愛しているぞ、我がマスターよ」

「!!??」


 お、起きてるー!? お目々パッチリー!?


「な、なん……!?」

「“何かしらの感情を伝えたいが、恥じらいが生じて伝えられない”という顔をしていたからな。一芝居打たせてもらった」

「いやどんな顔!?」

「そういう、可愛い顔だ」

「あ、ちょっと、こらぁ……」


 私の了解も得ず、彼は顔を寄せてこちらの頬に軽く口付けをする。私の弱々しい声なんて、お構いなしに。


「ああ、愛おしい。愛くるしい。そういうところだぞ、マスター」

「ど、どういうところよ……もぉ……」


 互いの頬をすり合わせ、言葉が途切れるたびにその頬にキスをする。

 そんな彼との交わりが、熱が、私の思考をどんどんと溶かしていく。


「あ、あなたこそ、そういうところよ……?」

「む、とは?」

「そうやって……すぐに『好きだ』って、言うから……私も……」

「……ああ、そういうことか」


 あなたがそうやって好意を口にするから、私も伝えなくちゃって思ったんじゃない。

 そう伝えれば、彼は神妙に頷いたと思ったら、おかしそうに肩を揺らした。

 そんな彼の反応を見ていると、私はとてつもない羞恥に襲われた。


「な、なにが、おかしいのよぉ~……」

「いいや、ますます愛おしいと思っただけだ」

「また、そうやって……」

「ああ、別にからかっているわけではない。その勇気も称えよう。だが、別にマスターの好意が、普段俺に伝わっていないということではないのは知っておいてもらいたいところだ。きちんと、伝わっているとも」


 え……ほ、本当……?


「言葉に、出してないのに?」

「ああ」

「な、なんで、分かるのよ……?」

「顔に、書いてある。とても、とても大きくな」

「……どこに、書いてあるのよ」

「――“ここ”だ」

「あ……んっ……」


 そう言って、彼は珍しくちょっぴり口の端を上げて。

 たっぷりと時間をかけて、私の唇にキスをする。蕩けちゃいそうなくらい、淹れ立ての紅茶くらい熱い愛情を注ぐように。

 そうして彼は顔を離し、私を抱き寄せたまま言葉を紡いだ。


「……大丈夫だ。きちんと伝わっているとも。だから、あまり無理をするものではないぞ」

「うぅ……だってぇ……」


 別に、無理とかじゃ、ない……。

 私は顔を隠すようにして、彼の胸に顔を埋めた。


「だって……トーカとか、いつもちゃんと『好き好き』言ってるし。だけど私は、いっつも憎まれ口とかばっかりで、素直じゃなくて……でも私誇りあるご主人様だし……」

「……」

「だから、きちんと伝えないとって……でも、私、恋愛なんて初めてなんだもん……あなたが、私の初恋なんだもん。どんな風にしたらいいのか、私、分かんなくって――んっ!?」


 なんだかそんな自分は情けなくって、泣きそうになってきた……そんな言葉の途中で。

 彼が無言で、だけどこれまでにないくらい強く、私の唇を奪った。


「ん、んんんんん……! ぷはっ」


 息が苦しくなるくらい長い時間、唇を合わせ、離れる。

 い、いきなり何するのよぉ。

 あ、頭ふわふわして、何言おうとしてたか全部飛んじゃったじゃないの……。


「……これは、少々“分からせる”必要があると見える」

「ふぇ……?」


 口付けの衝撃でトロンとした私に、彼は真剣な顔でそんなことを言ってくる。

 わ、“分からせる”って……?

 私が力なくクテンと首を傾げれば、彼は痛ましげに顔を歪めて内心を吐露した。


「愚かなこの眷属を、どうか許して欲しい。そのような不安をご主人様に与えてしまうなど、我が不明の致すところだ」


 それは自分のせいだと。

 私が不安に思ってしまったのは、自分の不明なのだと彼は言った。

 そ、それって……?


「それはつまり、俺の愛が足らぬということに相違あるまい。器が満たされねば隙間ができるように、マスターという器にそれができてしまい、入り込んでしまったが故の不安であろう」


 そ、そう、かしら……?

 少々首を傾げていると、彼は決意を秘めた瞳で私を見つめた。


「ならば――その隙間が無くなるほどの愛情を、我が主に捧げる他あるまい」

「へっ?」


 つまり……どういうこと?

 その疑問は、次の瞬間に氷解した。

 まさに文字通り、氷が溶けるくらいに――彼の熱い口付けで。


「んん!? ちょ、ちょっと、ぷはっ――ん、ま、待って……んうぅっ!」

「待たぬ。マスターはマスターのあるがまままで良いのだと、お前の下僕に不安を覚える必要など何も無いのだと、この俺が分からせねば!」


 わ、分からせられちゃううぅぅぅぅぅぅ!!??

 だ、だめ、こらっ、そんな強引になんて、ちょ、ちょっとぉ……♪


「ん、んううう~……!」


 息継ぎをする暇も無く、互いの吐く熱い息だけを取り込んで呼吸をするくらい密着し、唇を貪る。

 それだけに飽き足らず――


「ん、んんっ!?」


 し、舌が……!

 彼の舌がこちらの唇を割り、私の舌に悪戯をし始める。

 互いの舌が絡まるたびにピチャピチャと恥ずかしい水音が部屋に響き、私は快楽と共に羞恥に悶えた。


(こ、このままじゃ本当に分からせられちゃう!?)


 というかもう十分ってほどに分かったから!


「んー! んー!」


 彼の胸をトントンと叩き、一旦離れさせる。

 よし、今よ――! この隙に、彼の意識を奪う! でないとなんだか淑女として大切なものを失いそうだわ!


「お、オーダー!『寝なさ――」

「我流・酒上流オーダー封じ!」

「唐突な新技!? ちょっ!? ふむっ――んぅうぅぅう♪」


 や、やだぁ……。

 キスで、オーダー塞がれちゃったぁ……強いぃ、それ、反則ぅ……♡


(ああ、もうダメ……)


 何も難しいことが考えられない……。

 彼が与えてくれる愛情に、文字通り溺れている。ご主人様としてのプライドとか、淑女としての羞恥とか、小難しい理屈とかが、全て唇から伝う愛情と快楽に塗り潰されていく。


(でも……)


 いや、だからこそ。

 今なら伝えられると思い、内に溢れる甘い感情のままに唇を動かした。


「ん、ちゅ……はぁ……ジン、に、にーじゅ……」

「うん?」

「にーじゅ……♡ にーじゅ……♡」

「――っ」


 私のグズグズに蕩けてしまった思考と、上手く動かない唇から紡がれる精一杯の『need you』を聞いた瞬間、彼はまるで天上の調べを聞いてしまった音楽家のように天を仰ぎ……、


「くっ……、俺も“にーじゅ”というやつだ、我が愛しのマスターーー!!」

「ひゃ、ん、んぅうぅぅう♪」


 そうやって、私は。

 東の空が白み始めるまで、私のことが大好きな彼に、不安に思う隙なんてないくらいの愛情をたっぷりと伝えてもらうのだった。


 私があなたに分からせるつもりが……いっぱい、いっぱい、分からされちゃった……♡

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