第163話「その価値を示せ、人間」



 愛する者を信じる。

 その眩いほどの光を言葉に灯し、少女は一人の男をその道へと送り出す。一歩踏み違えば、地獄へ落ちる修羅の道へと。

 両名とも相応の覚悟を見せた。ならば、あとは貴様が“漢”を見せるだけだぞ……一ノ瀬托生。


「――!」


 白刃に赤黒い霊力を纏わせ、化野の指に嵌められた指輪へ振り下ろす。

 叩き起こす動作にも似たそれと共に、黄昏色の光が屋上で爆発した。


「ど、どうなったの……?」

「あ、リゼットさん、あれ!」


 光に目を焼かれぬよう腕で顔を庇っていたリゼットと刀花が、恐る恐る目を凝らす。

 屋上を覆わんとしていた光が、徐々に縮小していく。


『――』


 その間、化野は目を逸らさず一瞬もそれを見逃さぬよう光の中心を見つめ続けていた。この趨勢を見極めるために。


『あ……』


 そうして光が収まり、本来の夕焼けが屋上を照らす中で……一人の男が、屋上に顕現していた。


『せ、んせ……?』

『……』


 少女が、呼ぶ。

 片膝をつき、蹲るような姿勢をとるその男。

 年齢は三十前後といったところ。清潔感のある切り揃えられた短い黒髪に、柔和そうな瞳。教師らしくスーツを着こなし、年相応の落ち着きを見せる雰囲気。

 ……間違いない。この者こそが、化野華蓮の思い人。一ノ瀬托生の霊体に相違あるまい。


『センセ……センセぇ!』


 夢にまで見た愛する男の姿を前に、化野は万感の想いを込めてその手を取ろうと駆け出す。次は自分がその手を掴む番だと。

 ――だが、そうはいくまい。


「っ!? 華蓮さん、危ない!」

『――え、わ!?』


 叫ぶ刀花の声に、間抜けな声を漏らす化野の襟を掴んで遠ざける。

 ……そうしなければ、今頃奴が振るった手刀に首を切断されていただろう。


『あ、あ……あアアアアアァァァ!!!!!』

『う、そ……センセ……』

「違う。奴はまだ自分の意識を取り戻してはおらん。今は鬼の意識が表に出ている状態だ」


 およそ人のものとは思えぬ叫びを上げ、目の前の男は頭を振り乱す。

 今、奴の頭の中では一ノ瀬托生と、鬼の憎悪が激しく激突しているのだ。だが、化野を攻撃したところを見るに、その趨勢は鬼が優勢といったところか。でなければ、自分の女を傷付けようとはすまい。


『あ゛ア゛! ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛!!』


 頭の中で渦巻く憎悪は肉体にさえ影響を与える。

 痩せた身体が肥大化し、作り替えられていく。人間を思うまま殺すために。

 いまだ一ノ瀬托生の意識を表に出さず、鬼として姿を変えていくその様に、少女達は焦燥に塗れた声を上げた。


「じ、ジン! なんとかならないの!? このままじゃ……!」

「この苦痛はこやつの物だ」


 賽は投げられた。

 このまま鬼と化し俺に殺されるか。鬼を調伏し人と成るか。


『センセ! センセぇ!!』

『アアアアアアアアア!!!』


 だが、化野が悲痛に呼ぶ声にも、奴は反応を返さない。

 頭を押さえ、蹲り、その苦痛をやり過ごさんとするように丸くなるだけ。まるで外敵に対するダンゴムシのように無様だ。

 およそ五百人分の憎しみと、それすら優に上回る鬼の憎悪。ただ一人の男が受け止め切るには、手に余る感情の奔流だ。流されるのも無理はない。ハナから無茶な賭けだったのだ。


『センセ……頑張って、せんせぇ……!!』

『ガアアアアアァァァァァァァ!!!』


 聞こえていない。

 奴は、自分を守るのに精一杯なのだ。力を御するための力が、この男には足りない。またしても。


「……ふん」


 そうしてお前は、再びこの少女を独りにするのだな。


「……ダメだな。こいつは堕ちる」


 一向に鬼を打ち破る気配の無い男を前に、宣告する。

 一握りの希望はあるかと思ったが、人間など所詮この程度か。

 完全に鬼と化し、我が主と妹に危害を加えようとする前に、俺は目の前の情けない男を斬り殺そうと刀を向け――


『待って、ください……』

「……」


 その弱々しい声に、嘆息にも似た息を漏らす。

 ……やはり、こうなったか。

 いくつか思い描いていた図絵に、現実が重なる。俺の思う中で、最もつまらん図絵が。


「どけ」


 蹲る男を背に、一人の女が両手を広げて立ちはだかる。無論それは、吹けば飛ぶような幽かなる者……化野華蓮だ。


「どかねば、貴様ごと斬る。その男はもう無理だ」


 躊躇い無く、刀を少女に向ける。

 興醒めな幕切れだ。見込みのない者を庇い立てし、諸共、戦鬼の刀の錆になる道を選ぶか。

 お前がどけば、せめてその男を弔う時間くらいはくれてやるというのに。


「どけ。鬼と化す前に殺さねばならん」

『待ってください……!』

「往生際が悪い。奇跡は起きなかったのだ、斬る」

『待ってください、せめて――』

「待た――」

『せめて、センセが私を食べるまで……』


 ……なに?


「カレン、今なんて……?」


 対峙する俺達を見守っていたリゼットが聞き返せば、男を庇う少女は儚く笑う。


『……私、思ったんです。このまま消えれば、私は天国に。彼は鬼として地獄に落ちるって』


 そうだな。

 もし死後の世界があるというのなら、そうなるのが道理だろう。


『でも――もう離れ離れは嫌なんです』


 だから、と。

 化野は泣きながら笑う。これまで見た中で、一番生気の宿った顔で。

 揺らめく前髪がフワリと舞い上がり、確かな決意を秘めた瞳をこちらに晒して。


『もし私が鬼になったセンセに食べられたら……一つになって、一緒に地獄に落ちられるかなって。そうすれば、地獄でもずっと一緒にいられますよね?』

「――」

「カ、レン……」

「華蓮さん……」


 ……ああ。

 ああ……なんという献身か。なんという覚悟か。

 この少女は、未練たらしく時間を稼ごうとしたのではなかった。

 愛する男と共にいる道を……“次”を見据えて俺の前に立ち塞がったのだ。

 その覚悟の、その悲痛の――その決意の、なんと輝かしいことか。


「……」


 だからこそ……目の前の光景に苛立ちが募る。

 自分の女の後ろで蹲るだけの、その男の姿に。


「……ちっ」


 なんだ、そのザマは。

 お前の愛する少女が、目の前で涙を流し続けているというのに。


「……お前の女が、呼んでいるぞ。一ノ瀬托生」

『あ、ああぁぁあぁぁぁぁぁぁ』


 蹲るだけか?


「お前の女が、『頑張れ』と言っているのだ。一ノ瀬托生」

『ああああああああああああ!!!』


 そうやって、やり過ごすだけか、お前は?


「ちぃっ――」


 愛する女が地獄に落ちようとしている中で――丸くなるのが、お前の示す覚悟なのか!?


「貴様ァ! 自分の女の願い程度、貴様の手で叶えてやったらどうなのだ!!」

「ジン……」

「兄さん……」


 思わず放った怒声に、リゼットと刀花が瞠目する。

 弱者め! ここまでお膳立てしてやったというのに、甘えるなよ劣等がぁ……!


「来い、化野!」

『きゃっ!?』


 立ち塞がる化野の襟首を容赦なく掴み、男から引き剥がしてその身体を羽交い締めにする。


『戦鬼さ、うっ……!?』


 そうして――これ見よがしに、化野の白い首に刃を添えた。


「兄さん、何を!?」

「俺が楽に地獄へ落とすと思うなよ」


 地獄で幸せになろうだと? ちゃんちゃらおかしいわ。この男にそのような権利など、ない。幸せを蹲って待つような、甘えた輩にはな。


「見るがいい、一ノ瀬托生! 貴様の生温い覚悟の結果、再び愛する女が死のうとしている!」

『あ、あああああああああ!!』

「見合う覚悟を見せろ! それとも、今ここで愛する女の手を離したままにするつもりか!」

『ッ、が、アッ!?』

「! 今、反応がありましたよ!?」

『アアアアアァァァ!!??』


 ふん、ようやくか。

 こいつらは互いのために命を投げ出すほどの愛を持っている。

 ならば、目の前でその命を奪おうとすれば……だが、まだ足りぬようだ。

 またも頭を抱え苦痛に叫び出した男を眼前に、俺はそう見えるよう悪魔の笑みを浮かべた。


「時間は与えんぞ」


 我こそは無双の戦鬼。人間の輝きを、可能性を、価値を、問い質す者である。

 俺は――人間の敵なのだ。


「マスター!」


 ご主人様を呼ぶ。

 この俺に、命を下せと。


「――!」


 俺の視線を受け、聡明なる我が主は一瞬だけハッとその目を見張るが、全てを悟ったようにして頷き……、


「ジン、“オーダー”よ」


 静かに、最後の命を下した。


「――『アダシノカレンを、殺しなさい』」

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