第162話「幽かなる人間共、その両名に問う――」



指輪おまえだな。一ノ瀬托生」

『え――』


 確信と共に、その名を告げる。

 一人の少女が待ち焦がれていた、その男の名を。


『この指輪が、センセ……?』


 前髪の奥に隠した瞳を驚愕に染め、彼女は左手に嵌まった指輪を眼前に上げる。信じられないというように、その腕は小刻みに震えていた。


「付喪神の逆の状態、といったところか」


 付喪神。

 周囲の人間の想いや、その地の霊脈から徐々に霊力を吸い取っていると、物に魂が宿ることがある。それが付喪神だ。


「想いや霊力を永いこと蓄えていれば、魂が宿り人型になることもある」


 それは、俺が身を以て知っている。


「だがそれは逆に、人が魂を消費すれば、物言わぬ物質になってしまうということもあり得るということ」

『そんな……じゃあそれって……』


 か細い声で問う化野に頷く。


「おそらく、諦めながら死んだお前は“幽霊”としての存在強度が薄かった。運良く幽霊になれたとて、世界の波濤に一瞬であえなく流されてしまうほどに」

『っ! 声が、聞こえたんです……死ぬ瞬間に、彼の声が』

「その時だろうな」


 魂を補うものは、魂でしかあり得ない。

 魂とは、霊力の根源とも言える存在。その一人分ほぼ全ての霊力が流し込まれ、彼女はこの世界に存在を保つことができたのだ。

 たとえその男が己の身を犠牲にしても。

 ……愛しい存在が、目の前で再び死んでいく姿を見ていられなかったのだろう。そうして儚く消えてしまいそうだった少女の手を掴んだ。

 それがこの男、一ノ瀬托生の真実だ。


「一ノ瀬托生は、約束を破ってなどいなかった」

『っ』


 化野の身体が震えを増す。


「一ノ瀬托生は、その言葉通りずっと……ずっとお前の手を離してなどいなかった」

『う……く……』


 ただでさえ前髪に隠れた瞳が、何かを隠すように下を向く。

 永い時間だ。自分が生きていた頃よりも永い時間を過ごす中、疑うこともあっただろう。自分はこのまま一人で消えていく運命なのか、と。

 手放した温もりを夢見ながら、静かに消滅を待つのかと。誰にも気付かれず、誰にも愛されることもなく。

 ……だが、そうではなかった。


「一ノ瀬托生は――死んでもなお、お前を愛し続けていたのだ」

『――ああ』


 彼女の口から、言葉とも取れぬ声が漏れる。

 その響きは安堵にも似て、しかし寂寥すら孕む矛盾した音色のようにも聞こえた。


『……私』

「……」


 ぽつり、と。

 雨粒が一滴落ちた時ほどの小さい呟き。それを、拾い上げる。


『……ずっと考えてたんです。もう一度会えたら、どうしようかなって』

「……ああ」

『手を繋いで欲しいし、髪も撫でて欲しい。でも、最初には……文句を、言ってやろうと思ってたんです』

「カレン……」

「華蓮さん……」


 彼女の独白に。震えていく声に。

 化野の生前の話をよく聞いていた二人が、温かく包むようにしてその名を呼ぶ。


『いっぱい、考えてました。遅すぎる、とか。どうしてすぐに来てくれなかったの、とか……私を愛してなかったんですか、……っ、てっ……』


 喉すら震え、ひくつくような声が漏れる。


『文句を言う、つもりだった……のにっ……』


 その手に縋るように。

 彼女はその指輪に宿る熱の一滴も逃がさぬように、自分の手をギュッと額にあてた。


『あ、ああ――セ、ンセぇ……せんせぇえぇ……!!』


 愛しい者を呼ぶ彼女の瞳から、雫が落ちる。

 独りだと思っていた彼女の瞳から流れるそれは、一足先に来た雪解けのように……温かいものだった。


「……行きましょう。今は、二人で過ごさせてあげましょうよ」

「そうですね……兄さん?」

「……」


 蹲り、愛する者がずっと傍にいてくれたという真実に涙を流す少女。

 それを前にして、リゼットと刀花は切なそうな……しかしどこか満足いったような表情を浮かべこの場を辞そうとする。

 俺との契約も不履行となる。“屋上に思い人を連れて行く”こと。それは既に、果たされていたことだったのだからな。はじめから、成り立たぬ契約だったのだ。

 きっと目の前で温かい泣き声を上げる少女は、一つの確かな愛と共に、静かに最期を迎えることになるだろう。


 だが、俺は……


「……それで、いいのか」


 ――冷めた目で、涙を流す少女を見下げていた。


「その結末で、お前達は本当にいいのか」

「じ、ジン?」

「兄さん、何を……」


 二人を手で制す。

 なんだこれは。いったい何の茶番だ。

 確かに、その男の執念は見上げたものがある。だが……“それだけ”だ。


「その男はずっとお前の傍にいた。だが化野、お前が永い時を孤独に過ごした時間は、それで報われるのか?」

『え……』


 偽物になるのか?

 思い人を待つ間に覚えた、身を引き裂くような寂寥も。流し続けた冷たい涙も。

 それらは全て……本物だったはずではないのか。


『そ、それは……』

「お前は言ったな。もう一度手を繋ぎたいと。もう一度髪を撫でて欲しいと。だがお前はこれで満足なのか。物言わぬ存在と共に、このまま静かに消えていくこの結末が」

『……!』


 いったい、何を満足そうにしている。

 これは……片手落ちなのだ。

 俺は言ったはずだ。“自己犠牲”など、当人の力不足を美談に見せかけるまやかしだと。“二者択一”など、一つしか選べぬ無能の言い訳だと。

 この男は、まさにそれだ。自分の身を犠牲にして、愛する女の存在を守った。


 ――その女の、一番大事なもの愛する者を犠牲にしてな。


 そうするしか道は無かった。

 そうすることでしか守れなかった……それはなぜだ? 決まっている。


 ――その男が弱者だからだ。


 弱いから、片方しか守れなかった。

 強くないから、犠牲を払う道しか選べなかった。

 その弱さ、愚かしさには苛立ちすら湧いてくる。

 ならば……


「幽かなる人間共、その両名に問う――」


 “それ”があれば。

 傲慢な人間に相応しく、この結末に異を唱えるならば。


『戦鬼、さん……?』


 俺は頭から鬼の角を生やし、握った白刃の切っ先をそいつらに向けた。

 覚悟を、問うように。


「――“力”が、欲しいか?」

『ち、から……?』


 ああ。

 我こそは無双の戦鬼。鬼を斬りし妖刀。

 力を欲する傲慢な者に、それを与える存在であるが故に。


「で、できるの、ジン?」


 リゼットの問いに頷く。


「物言わぬ姿に成り果てたのは、魂が弱いからだ。霊力が足りないからだ」

「あっ!」


 そこまで言えば、刀花も気付き声を上げる。

 あるのだ。刀花が考案した技の中に、それを可能にするものが。


「――刻命刃」


 我流・酒上流十三禁忌が壱――刻命刃。

 無機物に命を刻み、疑似生命を作りだす神への冒涜に等しい刃。

 かつて、俺へと捧げられた刀花の魂を彼女に返すために、最初に編み出した刃だ。


『そ、それをすれば、センセは……!』

「ああ、耐えられればな」

『た、耐える……?』


 急く化野に告げる。

 そうだ。縫いぐるみに魂を宿してヒョコヒョコと動かすのとはワケが違う。


「完全なる人型に戻すのだ。それがどういうことか、実例が目の前にある」

『……戦鬼、さん』


 “ただの刻命刃”を物に振るったところで、擬似的な生命を宿すだけで人型に転じるわけでは無い。かつての刀花の縫いぐるみを動かした時のように。


童子切安綱おれが人型を取るには、人間五百人の魂……それも、いずれ生きていれば歴史に名を刻んだであろう厳選された特級の魂が必要だった」


 物を人にするというのは、そういうことだ。生半可なことでは成り立たない。付喪神すら気が遠くなるほどの永い永い時を強いる。だからこその神の名だ。


『じゃ、じゃあ、センセは……?』

「ククク……無論、俺の霊力をくれてやる」

「え、兄さん、それは……!」


 焦ったような刀花の声に、リゼットが首を傾げる。


「問題があるの、トーカ?」

「大ありです。兄さんの霊力は鬼のもの。それをただの人間に与えれば、最悪、人間としての意識が消え去り……獣同然の鬼に、なります」

『!?』


 刀花の言葉に、化野が目を見開く。

 そう、今からやろうとしていることは、戦鬼創造の儀式に近い。元の持ち主に霊力を返すならばまだしも、適正のない者に鬼の霊力を注ぎ込めば……鬼の憎悪に塗り潰され、狂う可能性の方が高い。

 だからこそ、今こうしてその覚悟を問うているのだ。


「もし俺の霊力に耐えきれず、鬼と化すようならば問答無用で斬り捨てる。獣同然とはいえ一匹の鬼。我が主と妹に害ある存在とならば、容赦はしない」

『そ、んな……』


 か弱くこちらを見上げる幽霊少女に再び切っ先を向ける。

 さあ、選択の時だ。

 無為にした時間をそのままにし、ただ静かに消えていくのか。


「――それとも人間らしく醜く足掻いて、己の願いを叶えるために穢れた力を欲するのか」

『わた、しは……』


 食い入るように、化野はその指輪を見つめる。

 少女は迷う。これ以上の苦しみを愛する男に与えていいものか。自分の身全てを、犠牲にした男に。


「ふん……」


 だが……これは簡単な話なのだ。


「聞き方を変えてやる」

『え……?』


 苦痛が伴う方法に、失敗すれば待つのは斬死。

 過酷な道を前に惑う一人の少女に、再び問う。


「お前は愛する者を――信じるのか? 信じないのか?」

『――っ』


 そういうことだ。

 お前が一ノ瀬托生を愛しているように、それと同等に、一ノ瀬托生はお前を愛している。

 愛する者のためならば、己の身を顧みないのは既に証明済みなのだ。苦しみを背負うことなど既にその男は了承している。

 ならば後は……お前の覚悟だけだ。一ノ瀬托生は力及ばずも、覚悟だけは見せた。


 お前は、どうする。


『わたし、は――』


 弱々しかった瞳に炎が宿る。


『私は――!』


 弱々しかった声に芯が宿る……!


『私は――センセを、信じます!!』


 ――いい、返事だ。


「我流・酒上流十三禁忌が壱――刻命刃・弐之太刀」

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