第110話「その魂は清く、正しく――」
『――力が、欲しいか?』
それは私を誘う声。
こっちに来いと、お前も落ちろと。見上げても見果てぬ天上から、なぜか下へと誘う不可思議な呼び声。
きっとこれは、目の前で私を犯そうとする鬼達より、もっと酷いナニカ。醜悪なナニカ。
規模が違う。格が違う。向こうがこちらに問いかけているはずなのに、その声にはこちらに強制すら促す力があった。
多分、この声のままに動けば、現状はより凄惨なものになるだろう……それが私か、目の前の人達にとってかは分からないけれど。
そんな声が、私だけに聞こえている。私だけが今、動くことを許されている。
度重なる状況の変化。そして極めつけの現状に、普通なら脳が理解を拒否するだろう。実際に、私もほとんど頭が真っ白だ。
(だけど……)
この恐ろしい声が響いた瞬間。
私は恐怖よりも、狂気よりも……
――安堵を、感じたんだ。
『クク……見るがいい、人間』
私が何かを言うより先に、頭に響く声はそう投げ掛ける。
なにかを、楽しむように。
『薄汚く、欲望に忠実で、下劣極まりない。お前が信じる人間とは、この獣共のことか?』
「……そう、だよ」
口が動く。
いまだ男の人に覆い被さられたままだけど、私はその声に意見することができた。
『その人間に裏切られてなお、お前は愚かにもまだ人間を信じるのか?』
「……確かに、私は裏切られたよ。私が人を信じたから、こうなった」
そう、最初から分かってた。
こんな生き方してたら、いつかはこんなことになるだろうって、最初から分かってたんだ。
でもね?
「でも、人に裏切られたからって、私が人を裏切っていい理由にはならないよ」
『なぜだ? お前にはその権利がある。俺の手を取り、この獣共を駆除する権利がな。俺が許そう』
嘲笑を浮かべ、その声は誘う。
人の理に縛られない、覇者の力を貸してやると。
だけど、それは――
「それは、ダメなことだよ」
『……ほう?』
そう、ダメなこと。
それに私は怒ってるんじゃない。恨んでいるんじゃない。
ただ、ただ……悔しくて、悲しいだけ。
「それに、やられる度にやり返してたら、そんなの永遠に終わらないよ。ずっと、ずーっと、争うことになっちゃう。そんなの、悲しいよ」
『ならば貴様が、その悲しみを全て受け止めるというのか? 自らはやり返さず、全てを許すというのか?』
畳み掛けるように、その声は私に問う。人間という種族を、ハナから信用してないとでもいうように。
それにしても、なんだか話が大きくなってきている気がする。
でも、結局はシンプルなことなんだよ。
「やり返しはしないけど、簡単には許さないよ」
『ならばどうする?』
「それはね、小学生でも知ってるよ」
『なに?』
あ、変な声。でも、どこか懐かしい。
そう、分からないのなら……私が、教えてあげないと。
「――"ごめんなさい"、だよ」
『は?』
私がそう言うと、今度こそ、威厳のありそうだった声が吹っ飛んだ。
「ダメなことをしたら"ごめんなさい"をして、いいことをしてくれた人には、"ありがとう"って言う。当たり前の事だよ?」
『――』
唖然と。
開いた口が塞がらないといった雰囲気が伝わってくる。
そんなに変なことじゃないはずなんだけどな。
『ああ、そうか……貴様、まさかあの時の』
え?
ボソリと、独り言のように、どこか得心でもいったかのような呟きが聞こえてくる。
『ククククククククク……』
心底、おかしそうな笑い声が頭の中に響く。聞く人が聞けば腰を抜かしちゃうくらい不気味な笑い声。
だけど、そんな声に、なんだか私も胸の奥から湧き出るものがある。
ずっと、ずっと、鍵がかけられていた……そんな何かが。
――それはきっと、黄昏の。逢魔が時の、黄金の光。
『いいのか? 簡単な道ではないぞ、それは。礼と謝罪の言葉のみで、世が成り立ったことなどない。人が人を信用せぬからだ』
分かってる。
『まさに茨の森だ。棘だらけの道だ。人間が数千年かけても果てが見えぬ道。王道でも、覇道でもないその道を、お前はこのように傷付きながら行くというのか』
うん。だって……昔、そう決めたから。
『……なぜそこまでするのか、聞かせてくれるか?』
優しい、声。
そんな声に背中を押され、私はその記憶をたぐり寄せる。
「……昔ね、一人の鬼さんに会ったんだ」
いつも朧気だったその記憶。だけど、今なら鮮明に思い出せる。
「その鬼さんは人間のことが大嫌いみたいで、酷くうんざりしてた」
そんな鬼さんを見て……私はとっても悲しくなったんだよ。
「どうして信じてくれないんだろうって。そんなに寂しそうなのに、どうしてこっちを向いてくれないのかなって」
だからね?
「その時、決めたんだ……鬼さんでも信じられるような、優しい人間になろうって」
その鬼さんは人間に失望してるみたいだった。
だけど、最初に期待をしていないと、失望なんて出来ないよね?
「私は守りたいし、信じたいんだ。人間もそう悪くないって。人間も捨てたものじゃないんだって」
『……そんなことのために、この茨の道を行くか』
「うん。だって、きっとこの道の先で、待っててくれてるはずだから」
――だから私は、行かなくちゃ。待ち合わせに遅れるのは、ダメなことだよ?
「どれだけ棘で傷付いても構わない。本当に大事なものさえ守っていれば、いつか辿り着くって信じてる。だから私は歩いていける……人間のことが大嫌いな、誰かさんに証明するために」
それに、約束したからね。
いつか。
そう、いつか……!
「――いつかできる、その友達のために!」
『――っ!』
他人から、どれだけ愚か者と思われても構わない。
私は、人間を信じる。
いつか、人間が他人を無条件で信じられる日が来ると信じて。“他人は敵”だなんて、そんな悲しい考え方が、いつかは無くなることを願って。
それで、その友達に胸を張って言ってあげるんだ。
――どうだ! って。
そう自分の中で確信すれば、さっきまで胸につかえていたモヤモヤが消えていく。
……すごく、スッキリした気分だった。
『く、くく……』
そんな私の答えに、頭の中に響く声は……
『ハーハハハハハハハハハハハハハハ!!』
呵々大笑。
いつかの山奥で聞いた、魔王のような笑い声をあげた。
『――愚か』
ああ、そっか。君が……そうなんだね。
『愚か愚か愚か!!』
むっ、バカにしてる。
それにそこは愚かじゃなくて、昔みたいに“たわけ”って言って欲しいな。
「もう、人をバカにしちゃダメだって前にも言ったよね?」
『はっ、言うではないか。たわけめ』
あ、言ってくれた。懐かしいなあ。あの後、意味が分からなくって辞書で調べたんだよ?
『まったく、愚か過ぎて涙が出るわ。人間がそこまでの境地に至れるものかよ。何千年経とうが、人間は浅ましく争い続ける。それは人間に刻まれた本能なのだ。愚かしくもそんな種を信じようとするなど、狂気の沙汰でしかない』
遠回しに私のこと狂人扱いしてない? 大丈夫?
『――だが、しかと見届けたぞ』
私が苦笑いしていると、その声は確かにそう言った。
『その人間より人間らしく、同時に人間らしくない魂。誰もが理想とする人間をなぞり、しかし誰をも到達出来ぬ人間を夢想する者よ』
うん、いつか人間は人間に優しくなれる。
私は、そう信じてる。
『誰もが貴様を愚かと言うだろう。誰もが貴様を馬鹿者だと思うだろう』
愚か? ――そうなのだろう。
馬鹿者? ――そうなのだろう。
『――だが、そのような魂をこそ!』
まるで拳を振り上げるように、その声は奥底まで響く。
その声はまるで喝采のように。
『――清く!』
その声はまるで賛辞のように。
『――正しく!』
その声はまるで讃えるように。
『――美しい魂だと、そう言うのだ!!』
そう、断言した。
……ああ、きっと。
きっと私は、間違ってなかった。
不安に思うことがあった。友人に煙たがられることだってあって、泣く日もあった。
だけど、もう大丈夫。そう信じられる。
私はきっと……この日のために、頑張ってきたんだ。
――その瞬間、時は動き出し、黄昏の光が爆発した。
カーテンで締め切られた三階の窓。そこに銀閃が幾重にも走り、
「な、なんだ――ぶっ!?」
まるで型抜きされたクッキーのように切り取られた壁が飛んできて、私に覆い被さっていた男の人に直撃する。
直線上にいたカメラマンや機材も巻き込んでそのまま吹き飛び、ピクリとも動かなくなった。
「ククク、ハーハハハハハハハハハハハ!!」
そして、綺麗な断面を晒す壁から、逢魔が時の煌めきを背負うようにして……“それ”は姿を現した。
夜が一足先に来たかのような、暗い衣を身に纏い。
口には高揚とした、おかしくてたまらないというような笑い声を引っ提げ。
そしてその頭に……天を嘲笑うかのように歪曲した、二本の角を生やしながら。
「ククク、お前だったか、小娘」
「……うん。君だったんだね、鬼さん」
視線が交錯する。
その眉間の皺も、切れ味の鋭そうな瞳も、昔と変わってない。最近はよく横からも見てたし。
(だけど)
ほんのちょっぴりだけど……今はなんだか、優しそうに見えるよ。
「よくぞ、ここまで育て上げた」
「うん。だって――」
言ってたよね?
鬼の友達になる、その条件。
「――"その愚かで、しかして無垢なる童子の魂。それを」
「……大事に、大事に保ち続けて、再び俺に会いに来い"、だよね?」
どうせ人間になんて、そんなこと出来はしない。
いつか大事なことだって忘れていくって。そんな風に皮肉を込めてたよね。
……どうかな?
今の私は、鬼さんの目にはどう映ってるかな。
私は見せつけるように、ベッドの上で胸を張って――
「な、なんなんだよ……誰なんだよお前は!?」
「ああ……?」
「あ」
……いけない、すっかり忘れてた。
青年とカメラマンが瓦礫に沈む一方で、混乱した部長は腰を抜かして、突然の闖入者である鬼さんに指を突き付けていた。
不機嫌さを隠しもしない声を上げて、鬼さんは部長を一瞥する。
「誰が口を開いていいと言った。程度の低い餓鬼風情が、この俺に言葉を向けるな。耳が腐るわ」
私に向けていた楽しげな視線から、鬼さんは一気にその瞳を鋭くして冷たく言う。
さっき見た部長の感情の無い目なんて、まだ温かみがあったと、そう言えるくらい冷たい目。
本当の、鬼の形相だった。
「塵芥に聞かせる安い名など……いや、そうだな。今の俺は大変に気分が良い」
だけど、くつくつと。
肩を震わせながら、
「それに……名も知らぬ鬼にやられたとあっては、地獄で自慢も出来ぬものなあ?」
「ひっ」
その唇に凄惨な笑みを貼り付けて。
判決を下す閻魔のように、その鬼は言葉の刃を振り下ろした。
黒い着物をバサリと広げ、聞き逃すことなど許さないと言わんばかりに。
「我こそは! 五百の魂を生け贄とし、鬼を斬った妖刀を媒介に創造された無双の戦鬼である!」
――名を聞かば。
天よ鳴け、地よ震えよと。
「我が"所有者"、酒上刀花に与えられし名は酒上刃。"主人"にリゼット=ブルームフィールドを持つ、吸血姫が眷属」
覇者たる鬼とはかくあれかしと、真正面から堂々と踏みにじるように。
「そして人間――」
そうして、"それ"はここに在りと。
あまねく世界に、知らしめるように。
「薄野綾女の――“友”である!!」
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