第109話「愚かなる人間の小娘に問う」
「すみません、部長! この仕事、辞めさせてください!」
私はせめて、誠意が伝わるよう大きく頭を下げてそう言った。喫茶店でミスをした時より、頭を下げているかもしれない。
撮影スタジオの入った、少し汚れた雰囲気のビル。その三階の廊下。
いつも付き添いとして撮影に参加してくれている部長に、私はそう申し出ていた。
そんな私を、部長は困ったような笑顔で見つめている。
「え、うーん……困るなあ。契約期間はまだ満了してないよね? 俺が紹介したんだから信用にも関わってくるんだけど……」
「ご、ごめんなさい。それでも……」
私は胸がチクリとする痛みを覚えながらも、懸命に頭を下げ続ける。
人の信用を落とすのはダメなことだから、せめて誠意を見せないと。
「……ちょっと待ってて?」
そうして困ったようにしながらも、笑顔を浮かべて部長はどこかに電話をかけ始める。
交渉してくれるのかな……。
「うん、そう。前と同じ感じ。もうやる? じゃあ呼んどいて、はーい」
「?」
……断りの電話、って感じじゃなさそう? でも、
「ごめん、薄野さん! 今日の撮影だけ! 今日の撮影が最後でいいから、やってくれないかな!?」
部長は手を合わせて、拝むようにして私に頭を下げた。
そんな、お願いしてるのはこちらなのに!
それに撮影中、カメラマンに人がどこか怪しい動きをした時や、着替え中に部屋に入られた時にも、部長さんは憤慨した様子でスタッフに意見を申し立ててくれていた。
……受けた恩には、報いないとダメだよね。
「……分かり、ました。今日だけでいいなら」
「ほんと!? 助かる! じゃあスタジオの方に行こっか。今日はもう一人モデルの人が来るから、少し待つことになるけど」
「いえ、大丈夫……です」
大丈夫、だよね?
廊下を並んで歩きながら、少しだけ身構えてしまう。
いや、大丈夫。契約書にサインした時も、きちんと全文読んで変なところがないかも確認した。
途中で辞めたとしても、違約金とかは特に発生しないはず。
「着替えはしなくていいよ。制服のままでいいから」
「あ、ホントですか? ありがとうございます」
……もしかして、この前の着替えのことを気遣ってくれたのかな。だとしたら、さらに申し訳なくなる。ごめんなさい部長。
「じゃあ今日はこの部屋のスタジオだから。入って入って」
「はい」
せめて今日の撮影ではリテイクを頻発しないようにしよう、と心の中で誓いながら、私は部長が手招きするそのスタジオに足を踏み入れた。
そこには……
「……ベッド?」
「うん。あ、お疲れ様ですー! 急な変更ですみません」
窓はカーテンで締め切られ、光が一切入ってこない。そして、部屋の中央には少し大きめのベッドがポツンと置かれるのみ。
以前は背景に海とか森とかの画像を合成して、環境保全の啓発ポスターを撮ったけど……これはなんの啓発に使うんだろう。
疑問に思うも、部長はカメラマンの男の人と何か熱心に話し合っている。これから辞める立場の人間としては、少し入りづらい。
「じゃあ薄野さん、早いけど始めちゃおっか。先に一人だけで出来るやつ」
「え、はい……」
こじんまりとした部屋の中には、私と部長とカメラマンの三人のみ。あとでもう一人モデルが来るって話だったけど……。
「じゃあベッドに腰かけて。そうそう」
「あ、あの……これって何の啓発なんですか?」
なんだかいつもと違う雰囲気に押されながらも、ベッドに腰かけながらそう聞く。
座るだけでいいんだよね?
「え? うーん、そうだな……『疲れを一発抜こう』って感じかな」
……過労とかに関するポスターかな。
でも、そんな部長の言葉を聞いて噴き出すカメラマンが気になったけど……やっぱり、今日もどこか目が怖い。
「じゃあ次は寝そべって、視線をこっちに」
「……はい」
指示に従い、ポーズを変える。
相変わらずその視線は怖かったけど……特に何も不備はなく、順調に撮影は進んでいった。そして、
「お疲れさまでーす。うわ、写真でも見たけど実物の方が可愛い」
スタジオのドアの方から、そんな声が聞こえてきた。
多分、もう一人のモデルの人が到着したのだろう。
そちらに視線をやれば、浅黒い色の肌をした、筋肉ががっしり付いた青年がこちらに歩いてきていた。
(ちょっと怖い……かも)
ああ、ダメダメ。人を見かけで判断しちゃ。
頭の中の嫌な考えをブンブンと振って追い出し、私は立ち上がって頭を下げた。
「あの、よろしくお願いします!」
「はいヨロシク……あれ、シャワーとかは?」
「いや、もうそのままでいいよ」
「あ、そう?」
……シャワー? 何の話だろう。
首をかしげていると、その浅黒い肌の色をした青年は、
「よっと」
「え、きゃっ!」
いきなり、上半身の服を脱ぎ始めた。
え……どうして?
目を白黒させると同時に、未知の恐怖を感じ始めた私を、その青年は不思議そうな視線で見る。そしてその視線をそのまま部長の方に向けた。
「……もしかして、また説明してなかったり?」
「ああ、うん。直前の方がいいかなって。その方が臨場感出るし」
「お前マジ……それで前の子壊れちゃったんじゃん。あの子いい具合だったのに」
「ごめん。やっぱ最近金欠だからさ。こういう裏モノが自然と多くなっちゃうよ」
「押さえつける俺の身にもなれよ……」
この人達は、何を言ってるの?
私に関係のある会話のはずなのに、その言葉がまったく理解できない。いや、理解を拒む。理解したくない。
「ほら、時間も限られてるからさ」
「へいへい、そんじゃ綾女ちゃん……でいいんだっけ? 偽名?」
「本名だよ」
「えっぐ。じゃあ綾女ちゃん、始めよっか」
「……え?」
何を?
そう聞く前に、上半身を剥き出しにした男の人が顔を近付けてきて……え? そのままだと顔が当たっちゃうんだけど……。
もしかして……キスしようとしてる、の……?
「――や、やめてっ!」
そう気付いた瞬間、全身が総毛立ち、男の人を振り払っていた。
「ど、どうして……」
部屋の隅まで後退り、震える。
信じたくなかった、今の状況を。そういうことだったのだと、ようやく理解した。
今すぐ、ここから逃げ出したい。
そう思い震える私を、三人の男の人達は気持ちの悪い笑みを浮かべて眺めていた。
「わ、私、そんなつもりじゃ……け、契約書にだってそんなこと書かれては……!」
「これのこと? ちゃんと書いてあるよ」
「……え」
糾弾するように声を発する私に怯むことなく、部長は懐から一枚の紙を取り出した。
「ほら、いかなる撮影にも応じますって」
「う、嘘……そんなこと、書かれてませんでした」
「あれ、そうだったかな? でも君のサインや捺印がある以上、拒んだら賠償もやむなしだなあ」
嘘だ。
いくら私でも、契約書はきちんと精読する。これでも喫茶店を生業にしている両親の一人娘なのだ。
私が契約書を読んだ時には、いかなるだとか、賠償だとか、そんな文言は一つもなかった。きっと何か、仕込みがあったんだ。
(悪い、人達……!)
優しかった部長は、今も柔和な笑みを浮かべてはいる。でも、その瞳の奥にはまったく感情がこもっていなかった。
「け、警察……!」
私は制服のポケットからスマホを取り出し、警察に電話をかけようと……
「やめた方がいいよ? これなーんだ?」
「え……ひっ――」
自分の喉から、今まで一度も出たことのないような悲鳴が漏れた。
部長は楽しそうに、手に持ったスマホをこちらに向ける。その画面には……
――私だ。私の写真が表示されている……無防備に服に手をかけ、下着姿を晒している、私の。
それを認めた瞬間、頭が真っ白になり、身体の震えが一層強くなった。
「通報したらこれ、ばらまくから」
「そ、んな……」
なんで……?
なんで、そんなことするの……?
「保険くらい用意するって……大丈夫だよ、薄野さん。写真や動画の売り上げはちゃんと渡すから。それにバレたら全部パーだよ、パー。俺達なら裏だけで済ませて、表に顔バレとかはしないからさ」
分からない。
分からない分からない分からない。
グラグラと、視界が揺れる。この人が何を言っているのかも分からないし、自分が何を考えなければならないのかも、よく分からなくなってくる……。
「通報されちゃったら、君の写真は表に出て、大事な喫茶店にも迷惑がかかるかもね。今大変なんでしょ?」
そう。
そう、お店に迷惑をかけるのは、ダメなこと……
「契約書にもあるように、賠償もあるしさ」
嘘。
でも、もし、万が一、本当だったら……それは、ダメなことで……
「いいじゃない。君に渡してたお金も、雑誌の掲載分もあるけど、あれは『こういう子が入りましたよ』っていう宣伝の役割の方が大きいんだ。うちはそういう事務所でね。それで大部分は前の子の分の売り上げとか、募金の中抜きだよ。はは、君は既に汚れたお金に手を出してしまっていたわけだ」
なに、それ。
でも、それも、絶対にダメな、ことで……
「ほら、君が少しだけ我慢すれば、お金も手に入るし、俺達も気持ちいい。お店の助けにもなる。いい“契約”でしょ? 善行だよ、善行」
それは、良い、こと……?
まるで人助けをする人の顔をして、部長は「善行だ」と言う。
そんな善行……人の善意が、あるの? あっていいの?
ああ、もう、よく分からない。
今、私はどうするのが良いことで、ダメなことなの?
「ほら、こっち来て」
部長に腕を捕まれ、ベッドの方へと向かわされる。
(……人間じゃない)
それだけは、分かる。
この人達は……鬼だ。それも最低最悪の。
「はい、じゃあ横になって。途中からは俺も混ざるからさ。あとよろしく」
「じゃあやろっか。アドバイスすると、嫌がった方がいいよ。その方が売れるから」
――何が、悪かったのかな。
こちらに覆い被さる男の人を前に、そんなことを考える。
――私、何か悪いことしちゃったのかな。
宿題も忘れたことないし、予習は欠かさずしてきた。
両親の手伝いもしてきたし、友達の頼みごとも快く引き受けてたし、悪いことなんて絶対にしてこなかった。
――どうして? どうしてこうなっちゃったのかな。
お金がないから。
そう、お金がないからこの仕事を紹介してもらったんだ。
じゃあ、お金がないのが悪いことなの? お金がなかったらこんな目に遭うの? ……違うよね。
――うん……私。私が、悪い。
簡単に人を信用して、ホイホイこんなところまで無防備に付いてきて……。
――でも、さ。
人を信用するのは、そんなに悪いことなのかな。
こんな目に遭っちゃうくらい、ダメことなのかな。襲われるようなことをした方が、悪いのかな。
――おかしいよね?
ああ、ダメ……
――私、悪くないよね?
ダメだよ、そんな風に考えちゃ。
きっと何か事情があるんだよ。
身内の不幸か何かで、こうしてでもお金を稼がなくちゃいけない理由があった、とか。
……そんなこと、あるわけないのに。
――じゃあ、本当に悪いのはさ。
(ああ……それは、ダメ)
一瞬、思い浮かべてしまった最悪の考えを振り払う。
これは私に非があること。そういうことにしておかないと。
男の人が、妙に慣れた手つきで私の制服に手をかけるのを見つめながら、そう自分を納得させる。喫茶店に、絶対に迷惑はかけられない。
――だから、納得しないと。私が悪いんだって。納得しないと、納得しないと。
だけど……やっぱり、おかしいって。そう思ってしまうのは、どうしても拭いきれなくて。
悔しくて、悲しくて。涙が出てしまいそうで。
だから、かな。
『ク、ハハハ……』
そんな一瞬の弱気が……
――"それ"を、呼んでしまったのは。
『愚かなる人間の小娘に問う――』
重く、暗がりの底から響くような。
自分が強者であることを知っており、周囲を見下す傲慢さを隠しもしない声色。
頭の中でそんな声が聞こえてきたと同時に、目の前の男の人も、部長も、カメラマンも凍り付いたように動きを止める。
下卑た笑顔はそのままに。まるで、時間そのものが止まってしまったかのように。
そんな中で、私だけが瞬きのみを繰り返していた。
……何が、起こってるの?
そんな疑問を問う相手も周囲にはいない。影も形もない。
しかし頭の中で確かに、姿の見えないその声の主は、私にこう問いかけたのだった。
小馬鹿にするように。嘲るように。
――どこか、試すように。
『――力が、欲しいか?』
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