第108話(酒上さんって、意外に繊細なのでしょうか)
ああ、そろそろだな。
「……はあ」
太陽が傾き、西に沈み始めようかという時刻。
全授業を終え誰もいなくなった教室にて、疲労感の滲む溜め息を吐く一人の少女がいた。
ポツンと、椅子に座ったままの小柄な少女は、まるで世界から取り残されたかのような哀愁を漂わせ、視線を床に固定している。
その少女こそ、先日まで明るい表情で未来に展望を抱いていた薄野である。
カフェオレ色の髪が肩をくすぐり、普段であれば小さな体躯ながらも、己の定めた道を進まんとする懸命な求道者。
それが、今はどうだ。
まるで目を覚ましてみたはいいものの、いまだ周囲に茨が立ち込めていたといわんばかりに間抜けな顔を晒す、童話のお姫様だ。
「……」
俺はそれを黙って隣の席に座り、見つめていた。
……やはりこうなったか。
何があったかは知らんが、期は熟しつつある。
見るがいい。その穢れなき魂にほんの一筋、影が差し込もうとしている様を。
いまだその輝きは褪せないが、何か切っ掛けがあればその影は容易くその魂に潜り込み、白を黒に汚すだろう。
……唾棄すべき、人間の汚穢にな。
「……どうした。何かあったのか」
「あっ、酒上君……まだ、いたの?」
ピクリ、と。
肩を震わせて顔をあげる薄野。その顔には、弱々しい笑顔が貼り付いていた。とってつけたような、不出来な顔が。
……似合わんな。
舌打ちしそうになるが、やめた。この小娘は今、何かに怯えている。俺の今後の方針を定めるためにも、事情は聞いておきたい。
「何かあったのかと聞いている」
「あ……その……」
言いにくそうに俯き、膝の上でぎゅっと拳を握る。
そのみっともなく足掻くような行為に、俺は少々苛立ちを覚えた……似合わないというのだ。
「……吐き出すだけでも、多少は楽になるぞ」
「あっ……」
さて、誰の言葉だったか。
俺がそう言えば、薄野は少し目を見開いたあと、
「……なんだか、今日は優しいね」
「ふん……」
そう俺を評した。
まったく、バカな娘だ。優しいだと?
今の俺は落ちそうな魂にすり寄る死神……死骸を漁ろうと、今か今かと獲物が死に絶えるのを待つ禿鷹も同然だ。
……言い得て妙だと、我ながら失笑してしまった。
「あの、ね……? まだ、まだ分かんないんだけどね……?」
「ああ」
少女は慎重に、言葉を紡ぐ。
誰をも傷付けぬよう、アリを踏まずに歩こうとするかのように。
「あれからも、写真撮影を何回かやったんだ」
「そうか」
ボランティア啓発ポスターのアレだな。
しかし、何回かとは。そのように頻繁に絵柄を変えるものなのか?
疑問は内に留め、どこか無理するような薄野の言葉を待った。
「最初は偶然かな? って思ったんだけど……ポーズを変える時とかに、その……たまに、身体を触られて……」
ああ、なるほど。そういう類いか。
下種に相応しい欲望の発露だな。吐き気がするわ。
「着替えをしてる時にも、間違えてドアを開けられたりして……ううん、きっと本当に間違えちゃったんだと思う。でも、やっぱり、その、目が……怖くて……」
……確定だな。
この娘は信じたくないようだが、なんとも御粗末な人間の欲よ。よりにもよって、邪淫の類いとは。
「今日も撮影があるんだけど……ちょっと、さ。足踏みしちゃって。あはは、ダメだよね。お仕事なんだから……契約書にもサインしたんだから、ちゃんとしないとダメだよね」
渇いた笑いを漏らし、己を鼓舞する。しかしその足はいつまで経っても動くことはない。
いつもならここで、「今日も清く正しく」などというふざけた言葉で己を鼓舞しそうなものだが……少女の口から出るのは、痛々しく自分を鞭打つ言葉のみだった。
……そこまでして他人を信じたいのか、愚か者め。
正直、俺は侮っていた。
善なる魂を持っていようと、いつか穢れる。墨汁が如き黒を垂らされ、童子のように無垢な魂は人間味というものを覚え大人になっていく。
"敵は他人の中にいる"と。そんなこと、今時のガキでも理解しているはずだ。
だが、こいつはいざ人間の悪意に晒されてなお、その輝きを懸命に守ろうとしている。他人からすれば、愚か者と見られようと。
(……惜しいな)
当初の俺はどこか、その天秤がどちらに傾くか見極めようとしていた。あわよくば、その穢れなき魂が黒く染まる光景を見られるものかと。
だが、惜しい。惜しいのだ。
俺は今、そう思ってしまっている。
それは醜い同情か、それとも見下す憐憫か。
この有り難い魂を、このまま曇らせてもいいのか?
俺の中の何かが、そうしろと……朧気に残る夕焼けの光が、こいつに働きかけろと言っているのだ。
(だが……)
この者は主でも妹でもない。ましてや俺に助けを求めたわけでもない。
そんな俺が、どうこの小娘に干渉するのか。俺が迷っているのはそこだ。
俺は怨嗟や生命を糧とし、契約に生きる無双の戦鬼。
我が無双の力は、契約者のために振るわれなければならないのだ。凡百の只人に、振るう力は持ち合わせていない。
だと、するならば……
「……俺が、力を貸してやろうか」
「えっ」
俺の言葉に、俯いていた顔をバッと上げる。
「ほ、ほんとに……?」
半信半疑でそう問う薄野。
まるで目の前に蜘蛛の糸が垂らされた者のように、その瞳には光が戻りつつある。
「ああ、この俺が気まぐれに、力を貸してやろうというのだ」
「もしかして、一緒に来てくれるの?……それは、心強いな。とっても嬉しい」
薄野ら肩から力を抜き、安堵の息を漏らす。
……いや、まだ安心するのは早いぞ。
――これは、あくまで"契約"の話なのだからな。
俺はさも当然のことを言うように、言葉を滑らせた。
「無論、ただではないぞ」
「……え」
俺がそう言った瞬間、肩を強ばらせ、
「そう、"仮契約"……とでも言ったところか。お前はまだまだ足りん、後払いというのもたまにはいいだろう」
「……けい、やく」
"契約"という一言に……怯えた顔を浮かべる少女の様子に気付かずに。
「俺はそういう存在であるがゆえな。無論、報酬はいただくぞ。そうだな、やはりその」
「――ごめん」
……なに?
段取りを決める俺の言葉に被せるように、目の前の少女は言葉を放っていた。
「……なんだと?」
「ごめん。そういうことなら、私は……いい」
……どういうことだ。
この女は助かりたいはず。
その魂が黒く落ちきる前に、特別に仮契約という詭弁を弄してまでも、俺が助力してやろうというのだ。なぜ拒む。
何も言えずにいると、目の前の少女は力無く、首を横に振る。疲れたように。
「"契約"とか"報酬"とか。そういう話は……もう、いいかな。お腹いっぱい」
その言葉と共に、貼り付いた笑顔が種類を変える。
それは……諦観の笑みだった。静かに、儚げに。
この女は今、目の前に垂らされた命綱に背を向けたのだ。
なぜだ? 何がおかしい。何を笑っている。契約を結べ。怒れ。恨め。敵を定めろ。何を勝手に受け入れている。それでは、俺が――
「ごめん、もう行くね。大丈夫。ホントはダメなことだけど、辞めさせてくださいって、きちんと言うから」
そう言って、どこか悲しげな表情を浮かべて、少女は足早に去っていく。遅刻するのは悪いことだからと。
その後ろ姿を、俺は眺めることしか出来ない。
なぜなら、求められなかったからだ。求められなかった以上、その道具には価値がないのだ。
「……」
……分からない。
疑問が頭に浮かび、解消されることなく頭蓋を埋め尽くしていく。
その状況に、無性に苛立ちを覚えた。今まで感じたことのないような苛立ちが俺を満たす。
分からないのだ、何が悪かったのか。
理解不能なのだ、何を望まれていたのか。
劣悪な契約に縛られた少女。それを覆すのは、それすら越える血塗られた契約に他ならない。そうでなければならない。
一方だけが得をするでもなく、一方だけが損をするでもなく。見合った対価さえ支払えば、どのような逆境をも撥ね除ける無双の力。
契約も報酬もお腹いっぱいだと? 理解できん。
そうした契約の在り方こそが、人間同士の営みではないのか? 損得を計りながら、互いの利を交換することが人間ではないのか?
俺はこれまで、そういう在り方をしてきたのだ。
だからこそ。だからこそ、俺は……そうでなければ――
「……っ」
苛立ちから椅子を蹴飛ばそうとしたが……やめだ。
弁償をするのも癪であるし、
「……出てきたらどうだ、橘」
「っ!?」
ドア付近に隠れている、もう一人の少女を脅かしてしまうからな。
「……見ていたか」
「……っ」
申し訳なさそうな困り顔で、橘は教室に入り、こくんと頷く。
そうか……。
何を言うでもなく、傾き始めた太陽の光を眺める。
橘は気を遣ってか、それとも何も言えないのかは知らないが、肩から提げる革製のブックカバーに覆われたスケッチブックも鳴りを潜めたままだ。
「……分からんな」
「?」
別に、聞かせようと思ったわけでもない。
独白のように、愚痴のように。俺は知らず口を開いていた。
「人間は損得勘定で生きる者だ。ならば結局はその話に行き着く」
薄汚い人間に相応しい、私利私欲の押し付け合い。そうしてその中に理を設け、約定を交わすことを契約と呼ぶはずだ。
「俺が与えるメリットと、あの娘が負うデメリット。どちらかに傾きすぎない契約を交わすつもりだったのだが」
……ん?
僅かな徒労感と共に言葉を紡いでいると、
「……」
橘が、無言で首を横に振っている。
『そういう問題ではありません』とでも言うように。
だが……
「俺には分からない。損得勘定、それで人間は動いているはずだろう。互いに利用し合う……そうした関係の構築の仕方しか、俺は知らんのだ」
それが妖刀。それが戦鬼。契約に生きる道具の在り方なのだ。
リゼットや刀花ですら、契約を結んでいる以上この理からは逃れられない。それ以上に愛してはいるが、どうしてもどこかでそういったものは必ず発生してしまう。
そう言う俺に、橘は悲しそうに瞳を細めながら言葉を綴った。
『損得勘定だけが、人間関係ではありませんよ』
……人間風情が、笑わせるな。それ以外に何がある。
「家族だろうがなんだろうが、互いに損や得がある。それを見極め、自分に少しでも得があるように動く。それが薄汚い人間の性だ。そうして世は回っているのだ。でなければ」
人間が人間同士で争うものかよ。
「……」
頑なな俺に、橘は困ったように難しげに眉を曲げる。何か言葉を探すように。
固い空気が、教室内で佇む俺達を包み込んだ……と思ったのだが、
「……!」
橘はなにやらピンポン! と能天気な効果音が付きそうな閃きの表情と共に手をポンと打ち、すらすらと文字を踊らせた。
そうして、スケッチブックに現れた言葉は――
「♪」
「……な、に?」
ひょいっと。
なんとも軽い雰囲気で、橘はスケッチブックを掲げる。
だが、その文字列を理解した瞬間……俺は間抜けにも目を点にしたものだ。
「ク、ハハハ……なんだ、それは」
橘は『使い古された言葉ですけどね』と恥ずかしげに笑い、俺もそのあまりの馬鹿馬鹿しさに大笑を上げるところだった。
だが、悪くない。悪くないぞ、そのアホらしさ。
ならば……見定めねばならない。
あの小娘が。薄野が。
"それ"に値する価値を、持つかどうかをな。
「ククク……」
窓の外を見れば太陽は傾き、その身体を血の色に染めている。
――逢魔が時が、近付いてきていた。
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