第103話「信頼に応えるのはダメなこと?」



「うぅ~ん……」


 ……うるさいな。

 いや、いつもならば「酒上君、あのね!」やら「それはダメなことだよ?」と騒がしく話しかけてくるため、ここは辛気くさいと言うべきか。


「……」


 目を開け、横目で隣の席の小娘……薄野を観察する。

 現在、授業間の十分休み。薄野は自分のスマホを操作しながら、うんうんと難しげに唸っている。

 ……珍しいこともあるものだ。

 そのように悩ましい態度を見せていることもそうだが、なにより――


(……におうな)


 ふわりと香る挽きたてのコーヒーのような芳醇さの中に……かすかだが、俺を惹き付ける香りがするのだ。


「……?」


 前の席の橘も、薄野の態度に違和感を示していた。『何かあったのでしょうか?』と俺に目だけで聞いてくるが、首を横に振っておく。俺が知るものか。


「うーん……ん?」


 すると、橘はトントンと薄野の机をノックし注意を引いた後、キュッキュッとスケッチブックに言葉を綴り始めた。


『どうかされたのですか? お元気がないように見えますが』


 首をコトリと傾け、橘は心配そうな顔を浮かべる。

 失声症を患いながら他人にまで気を遣うとは、儚げな見た目ほど消極的ではないらしい。


「あー、あはは……ごめんごめん。ちょっと困ったことになっちゃったというか、なりそうっていうか……」

「?」


 頭をかきながらの曖昧な言葉に、橘は更に首を傾げ……再びペンを走らせる。


『言いにくいことでしたら無理に聞きませんが……吐き出すだけでも、楽になることもありますよ。受け売りですけどね』

「橘さん……」


 コロコロと橘はおかしそうに笑っている。見せつけおってからに。

 そんな橘を見て、薄野はふっと肩の力を抜いた。


「そうだね。じゃあちょっと相談なんだけど……酒上君もだよ?」

「なぜ俺まで……」


 嫌そうな顔……いやまさに嫌な顔をすれば「むしろ酒上君に聞きたいと思ってたんだよね」と薄野は返してきた。

 そうしてどこかそわそわしながら、薄野は一つ喉を鳴らしてから口を開くのだった。


「あのさ……お金をいっぱい稼ぐ方法、知らない?」

「働け」


 以上、解散。俺は寝る。


「そうじゃなくてー!」


 腕を組み、目を閉じたところ、必死な様子で薄野に肩を揺すられる。ええい、ただの人間が俺に触るな!


「酒上君ならさ、こう裏稼業的な仕事とか知ってるかなって思ってー!」

「なぜそうなる」

『酒上さんって見た目は怖いですからね』

「おい橘。それでは俺が実際は怖くないと言っているように見えるぞ」

「♪」


 お、おどけている……この無双の戦鬼を前に小癪な。やはり無闇に人を助けるものではないな。


「まったく……」


 俺は肩を揺する薄野を払いのけ席に戻す。

 何を言い出すかと思えば、金稼ぎだと? しかも裏と来た。ダメなことはダメと言える魂を持つこの小娘の言葉とは思えん。


(それほど切羽詰まった状況ということか)


 ふん、そもそも俺の裏とは陰陽局だ。

 俺は刀花の学費と生活費を稼ぐためならば神すら殺す男。この小娘が神を殺せるとは到底思えん。俺の話は参考にすらなるまい。だが、


「……マグロ漁船が、一番稼げたな」

「おお、それっぽい!」


 まあそれらしいことは言っておくか。コーヒーの借りもある。

 目を輝かせる薄野は、それでそれで!? と続きを促してきた。


「やっぱり厳しかった?」

「力仕事というのならばそれほどでもない」


 鬼だからな。


「だが、やはり給与というものは拘束時間に比例するものだ。お前のような学生には無理な話だろう」


 学生をやめる覚悟がなければな。

 そもそもその図体では、船から振り落とされて溺死が関の山だ。


『ちなみに期間はどれくらいなんですか?』


 乗るではないか、橘。

 俺としてはあまり思い出したくはないのだが……


「そうだな、日本近海ではだいたい一ヶ月。大西洋やインド洋まで行く遠洋漁ならば、一年近く船の上で過ごすことになる」

「えー!?」

「!?」


 薄野も橘も目を点にして驚く。分かるぞ、俺も一年と聞いて憤慨したものだ。


「近海では正直あまり稼げんが、遠洋では数百万稼げるぞ」

「数百万……!?」


 それはそうだ。一年、労働者を監禁するのだからな。まあ俺は当然抜け出して、妹との逢瀬を楽しんでいたのだが。

 とはいえやはり家を長期間空けるのは心苦しく、一度でやめたものだ。

 俺は「むむむ……!」となにやら顎に手を当て考え込んでいる薄野を諫めておく。


「落ち着け、年収で数百などザラな話だろう。やはり定職について安定した収入を得るのが一番なのだ」

「あ、そうだよね……」


 ああいうのは借金を抱えた者の罰ゲームみたいなものだ。あとはそういう単純な仕事しかできん鬼とかな。悲しくなってくるな。やはり人間社会はクソである。

 しゅんと落ち込む薄野に、橘はペン動かしていく。


『なにか、お金が入用なんですか?』

「……うん」


 迷いながらも、こくんと頷く。

 そういえば経営不振だと、以前冗談交じりに言っていたが、本当のことだったのか?


「あんまり大きい声では言えないんだけど……パパが、さ。親戚の“連帯保証人”だったらしくて」

「っ!」

「レンタイホショーニン?」


 橘が驚愕に肩を跳ね上げているが、なんだそれは?


「仕置き人かなにかの類いか?」

「漁船乗ってたのにそこは知らないんだ……」


 薄野が不思議そうな目でこちらを見るが……なるほど、ということは借金関連か。きな臭くなってきた。

 思わず眉を寄せていれば、橘が珍しく厳しい顔でスケッチブックに文字を記していく。


『簡単に言えば、他人の負った借金を代わりに払わされる契約を結んだ人のことです』

「……なんだそれは」


 思わずスケッチブックに書かれた文字を二度見する。腑に落ちん。


「なんのメリットがあってそんなことをする」

「ないよ。連帯保証人にメリットなんてないんだ。だから他人とかじゃなくて、親族間で取りなすことの方が多いの」


 ……なるほど。

 おおよそ信用だとか、信頼だとか、そういった人間間のおままごとの結果ということか。下らん制度もあったものだな。


「それで金が入用、ということか」

「……うん。あ、まだ分かんないだけどね! もしかしたらそうなるかもって話で」


 先日「このままだと自己破産してそちらに借金が流れる」と親戚から電話があったらしい。


「……もし、そうなっちゃったら、さ。喫茶店も差し押さえられて、お店を続けられないかもしれない。家族もバラバラになるかもしれないんだ」


 中途半端に笑いながらも、暗い陰を落とす薄野に、橘は痛ましげに目を細める。

 薄野は笑みを浮かべているが……取り繕ったような、貼り付いた笑顔だ。言葉も段々と力を無くしていく。

 だが、ほう……?


「……人からお金を借りるのはダメなことだよ」


 なのに、と。


「どうして借りてもない私達が払わなくちゃいけないのかなあ……?」

「……そういう“契約”だから、だろう」


 そのような契約をした者がバカだった、それだけの話だ。


「うん、そうだね。分かってる。けど……さ」


 ポツリと、寄る辺を探すように薄野は呟いた。


「――人の信頼に応える事って、そんなにバカでダメなことだったのかなあ……?」

「……」


 そう、善なる魂を持つ者は呟く。

 ……ああ、そうだとも。

 人間は簡単に裏切る。だからこそ人間は人間を警戒せねばならん。

 人間の敵から人間が省かれたことは、歴史上一度たりともないのだからな。


「恨んでいるか、その者を」


 試すように聞く。だが、こいつは――


「ううん。まだ詳しくは聞いてないけど、もしかしたら事故に遭って、働けなくなっちゃっただけかもしれないし。きっとなにか事情があるんだよ」


 これだ。

 ああ、きっとこいつはそう言うだろうと思っていた。0点の魂を持つ穢れなき人間よ。


「あ、いけないいけない。授業始まっちゃうね。辛気くさい話してごめんね!」


 そう言って断ち切るように、薄野は次の授業の準備を始める。

 ……どうせ先の時間のように、ノートも取れないほど考え込むというのに。


「……ふん」


 橘はまだ心配そうに薄野を見ているが、俺はつまらなさそうに鼻を鳴らし視線を切る。

 まったく、0点だ。そこで恨み言でも言っていればいいものを。


(……そうすれば、20点くらいはやれたものを)


 こいつは人間を信頼している……いや、信頼をしたいのかは知らんが。

 だが、そう上手くはいくまい。何か事情がある? それがどうかもわからん。


「うーん、定職かあ。まずはバイトかなあ……」


 隣からは、相も変わらず悩ましげな声と疲れたような溜め息。


「……」


 だが、その吐息が絶望に染まる時、この小娘は何を思うのだろうか。人を信ずるこの小娘が。


(……0点が、あるいは)


 現状、俺が出来ることは何もない。やってやる義理もない。求められたわけでもない。

 そしてこの小娘は我が主でも、妹でもない。なんらかの契約関係ですらないのだからな。


(十中八九、碌な事にはならん)


 時が過ぎれば、喫茶店や土地は差し押さえられ、学園に通うこともままならなくなるだろう。

 ……リゼットも刀花も、あの喫茶店を気に入っているようだった。

 そして、俺も……


(あのラテアートが見られなくなるのは、少し惜しいかもな)


 ……下らん感傷だ。

 俺はそれを断ち切るかのように、再び目を閉じるのだった。

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