【16】 『狗駄』
和也はレブルの工場で自分のバイクの下を覗いていた。オイル交換をするためにドレンボルトをまず最初に抜かなくてはならない。
レブルの店主である菜前さんとは一匹女狼つながりで仲良くなり、こうして工場の隅を整備場として貸してくれるようになった。当然、オイル等の費用は自分持ちだが、こういった整備を自分でできれば工賃はかからない。工場も工具も良心で無料で使わせてもらっている。
バイクを買ったのも、ここレブルであった。知り合った初めのうちは、このガタイもよく掘りの深い顔立ちをした菜前さんに多少なりとも怯えてはいたが、関わっていくうちに彼に対する認識も変わっていったものだ。バイクで困り事があると嫌な顔せずに相談に乗ってくれるし、他にもいろいろと便宜を図ってくれたものだ。加えて、一匹女狼に対して全くと言っていいほど怒らないことが、彼が穏やかな性格であることの何よりの証拠であった。
ドレンボルトを自身の手で回せる程度にまで緩め、最後は手で抜き取る。出てくるエンジンオイルはまだ綺麗に見えなくもないが、それでも推奨されている交換時期を少し超えているのだ。出費は痛いが、エンジンのためには細目に変えていかなければならない。
オイルが付いているドレンボルトをウエスで拭いていると、カウンターの方から一匹女狼の声が聞こえた。和也が作業に取り掛かる直前に来たのだ。和也に挨拶を済ませ少し世間話をしたかと思えば、菜前の顔を見るなり、自分がサーキットに行き始めたことやハイグリップタイヤの貢献度、そして何よりも協力してくれる人の重要性などを力説し始めたのだ。「この厄介客をどうにかしてくれ」と菜前に言われたが自分ではどうにもできないと断った。厄介客と認識されているにもかかわらず、一匹女狼は負けじと力説し続けている。流石に工場を貸してもらっているのに助け船を出さないのは不義理だと思ったので、はじめこそは一匹女狼を落ち着かせようとしたが、先日の彼氏の件でいじられたことを引き合いに出されそうになったので工場に引っ込んだ。親子ほど年の離れた女性に押される困顔の男を見るのは変な感じがしたが、本当にどうにもできないので放置することにする。
古いオイルを抜き終わり、規定量の新しいオイルを専用の穴から流し込む。バイクの車種にもよるらしいが、一気にオイルを流し込むと逆流してきてしまうことがあるらしい。和也のバイクはその類のバイクなのでゆっくりと流し込んでいく。
オイル交換の行程が全て完了したので、オイルの料金を払いうためにカウンターへと向かうと、一匹女狼がカウンターに突っ伏していた。
「何でよ菜前さん。今回だけって言ってるじゃない!」
「そのセリフ前回も聞いたな」
「こんなか弱い女の子が泣いてお願いしてるのに・・・」
か弱いと聞いて和也は笑ってしまいそうになる。
「泣きマネも何回も繰り返されるとかえって逆効果だぜ」
「チッ・・・」
当然、泣いてなんかいない一匹女狼はすぐにいつも通りの顔になる。
「菜前さん、終わりました。支払いお願いします」
「おう、お疲れさん」
料金を支払い帰り支度をしている横では、一匹女狼が菜前への嫌がらせに無料で提供されているコーヒーをがぶ飲みしている。そういうとこやぞ、とたしなめていると、菜前が思い出したかのように切り出す。
「そういやぁ最近な、ロスのモンが『D』で車に絡まれてな」
「絡まれた?」
「おう」
ロスとは、菜前が所属するリング・オブ・スピリッツ(Ring Of Spirits)というツーリングチームの略称だ。一匹女狼も一応は所属しているらしいが、半幽霊部員と化している。
「仕事終わりに行ったらさ、後ろから急に迫られたんだと」
「煽りですかね」
「間違いないだろうね。横付けまでされたらしい」
「なんか最近、そういうの湧くって聞くわね」
使い捨てコップの端をガジガジ噛みながら一匹女狼が話に混ざる。
「あぁ、他のオートバイも煽られたらしい」
「実は俺も似たような奴にあったんですよ」
「マジか、既にか」
和也は当時のことを思い出す。
ハイビームで自分を照らし、煽りと断定できるであろう程にまで車間を詰めてきたならず者。恐怖も当然あるが、今では怒りの方が大きい。
「う~ん。ロスの間ではな、『狗駄』の仕業じゃないかって話題になってるんだわ」
「くだ?」
一匹女狼が反応する。この周辺でのバイク活動がそれなりに長いと聞く一匹女狼でも知らない単語らしい。
「あぁ、最近になってちっとばかし出回り始めたヤン車の名称だ。暴走族系列のチームを破門されてからソロで活動してる不良らしいが・・・」
「何でそんな奴が普通のバイクに絡むの?」
「さぁな。他のオートバイ乗りへの八つ当たりのつもりなのか・・・」
「迷惑な話っスね」
『大』でも話題になっていたが、もう完全に無視できる存在ではないらしい。とは言うものの、その場で警察に電話をしようにも、バイクを止めたら何をされるか分からない。今はまだ余裕で逃げ切れるが、今後も同じように振り切れるとは限らない。ドライブレコーダーを買うか悩む。
「まぁ、『D』でのその車が『狗駄』本人なのかは確証はないがな。お前らも気をつけなね」
「はい」
とりあえずは金を稼がなければ、必要な物も買えない。バイトのシフトを増やそうかと考えながら、和也は店舗の外へと向かう。後ろでは一匹女狼が再び熱弁し始めるが、菜前はもう無視を決め込むことにしたようだ。
暑い日差しの中、レブルを後にした。
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