そこに愛ありてこそ


 翌朝、荷物をまとめた零夜たちは宿をあとにし、ソラトのアトリエへと向かった。橋のすぐそばを抜ける、大通りの端っこに飾りパン屋がある。その店舗の裏にひっそりと立つ小屋。油絵の具の匂いが充満するそこで、ソラトは三人を待っていた。

「いらっしゃい。このアトリエにヘイリュー以外の人が来るなんて、久しぶりだよ」

 ソラトの服は絵の具に汚れている。直前まで絵を描いていたのだろう。

「今日は店が休みだからね。ここから見える……ほら、あそこに花屋があるだろ。あの坂を描いてたんだ」

 ソラトが差し出した小さなカンバスには、花に彩られた小道が描かれている。それはもうほとんど完成しているようだった。

「普段描くのは、こういう小さい絵。すぐ完成するからどんどん溜まっていくんだ。そういうのをまとめて保管したり、あとは大きなカンバスに描くときは、このアトリエにこもるんだよ」

 小屋の扉が開け放たれると、より強烈な油絵の具の匂いが押し寄せる。しかしその匂いが気にならないほど圧倒的な色彩が、零夜の視界を埋め尽くした。

 ――黄昏の色。


「もう少しで完成するんだ」

 ヘイリューが言う。アトリエの扉を開けてすぐ正面、壁を覆うほど大きなカンバスに、目をみはるほど美しい黄昏が描かれていた。部屋のすみには、使い切ってひしゃげた絵の具のチューブが木箱に入れられ置いてある。赤や橙色、黄色――黄昏を彩る色ばかりだ。

 昨日、橋のたもとで見たソラトの描き道具を思い出す。黄昏色の絵の具だけが新品に近く、夕日を描けないがゆえに使われることも少ないのだとばかり思っていた。しかし、そうではない。

「ずっと、夕焼けを描き続けてたのか」

 零夜の言葉に、ソラトは少し恥ずかしそうに頷いた。「好きなんだ、夕焼けが。今はもう、あの橋の上から見る夕焼けは描けないけど……俺の記憶に焼き付いている夕焼けは、いつだって描ける」

 零夜はもう一度、その絵を見た。橋の上から西の海を臨む。波の向こうに沈みゆく太陽を中心に、鮮やかな赤が海を、空を、山を、街を彩る。


「すごい……すごく、綺麗だ……」

 その色彩に、零夜は波の音を聴いた。潮の匂いを感じた。ただ正面に立っているだけで、見たことのないはずの「この街の夕焼け」を幻視した。ティエラも、キヤですら、程度の差こそあれど零夜と同じ体験をしているようだった。三人はしばらく言葉を忘れ、その絵の前に立ち尽くした。

「ありがとう。この絵はヘイリューもお気に入りでね、ここに来るたびに褒めてくれる」

「いや……そりゃそうだろうよ。すげえな……全部あんたが描いたのか」

 芸術というものにどうにも疎いキヤも、口をぽかんと開けて夕焼けの絵に目を奪われている。「ほんとにここに夕焼けがあるみたい」と、ティエラも感嘆する。「これだけ大きな絵を、こんなに綺麗に描くなんて……」

 ソラトは、零夜たちが繰り返す素人質問――ここはどうやって描いたんだとか、どれくらいの時間がかかるんだとか――に快く答える。そして零夜たちは改めて、その計り知れない肉体的、精神的労力がかかった絵に魅了される。あらかたの質問攻めが終わると、三人はまた無言で絵を眺める。たった一枚の絵――しかしその中に、実際の風景以上の情報が詰め込まれていた。それは絵の具と共にカンバスに重ね塗られていった、黄昏への懐古ノスタルジーであり、愛だった。


「実は、筆を折ろうと思ったこともあったんだ」

 深い沈黙の中、ソラトがぽつりと呟く。

「目を、患ってね」

 零夜は黄昏の絵から視線を外し、ソラトの横顔を見た。ヘイリューは言っていた。この街に生まれた人間の身体には、光を喰うミトラが巣食っている。彼らの好む夕焼けをよく見る人間は、眼球の中でミトラが増殖し……。

「このままだと数年で失明するって言われて……正直、絶望したよ。この絵もまだ半分も完成していなかった。数年で描き終えるなんて無理だった。絵を燃やして、筆を折って……死んでしまおうとすら思った」

 でも、とソラトは続ける。

「病気の進行が止まったんだ。奇跡だと思った。神様が俺に、必ずこの絵を完成させなさいって、そう言っているように思えたんだ」

 夢を見るように話すソラトの瞳は、遠く黄昏の向こうを見つめていた。


 ああ、そういうことだったんだ。

 全てが腑に落ちて、零夜の鼻の奥がつんと痛んだ。どれほど恨まれようと、ヘイリューが旅をやめてこの街に残り、夕焼けを消してしまおうと決意した理由。根気よく街の人間を説得するという、穏便だが気の長い方法をヘイリューが選ばなかったその理由が、ようやく理解できた。

 ヘイリューは確かに、黄昏に魅せられていたのだ。



 手のひらサイズの小さなカンバスが三枚、荷物の中に加わった。好きなものを持って行っていいと言われ、三人がそれぞれ気に入った絵を選んだ。キヤは冠雪の石畳を描いた真っ白な絵。ティエラは鈴なりに実った桑の実の絵。零夜は――黄昏色の野花の絵。

「後生大事に持っておくんじゃなくて、どこか遠い土地で、欲しがった人に譲ってほしい。裏に俺のサインがあるからさ。

 この街の外、世界のどこかに――俺という絵描きがいたあかしを、残しておきたいんだ」

 零夜たちはそれに同意し、三枚の絵を譲り受けた。旅の道連れが増えた気分で、街をあとにする。またうんざりするような山道を歩き、昼休憩を挟んで、また山道。ようやく平らな地面に足をつけたころには、日はすっかり落ちようとしていた。

「あ、夕焼け……」

 ティエラが呟く。空は茜色に染まっている。黄昏――昼と夜の境界。零夜は思わず、来た道を振り返った。街は既に、山の向こうに見えなくなっていた。あの街で今夜もまた、黄昏喰いのヘイリューは夕焼けを消しているだろう。


 黄昏の刻は瞬く間に終わり、すぐに濃紺の夜が訪れる。空には薄く、星が瞬きつつあった。

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黄昏喰いのヘイリュー 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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