エピローグ

アイ

 視力と聴力を再交換したあと、僕らの日常生活も元に戻った。僕は指圧師の仕事を再開し、みりかは特別支援学校に復学した。

 一ヶ月のブランクを埋めることにはそれほど苦労しなかったし、みりかもなんとか進級はできそうだと言っていた。僕はホッと胸を撫で下ろした。


 あの日以来、僕とみりかの関係に変化はない。

 以前のように僕が笠原家に行ったり、チャットでやり取りをしたりというのはたまにあるけれど、本当にただそれだけだ。

 変わったことを強いて一つ挙げるとすれば、彼女も料理をするようになったことくらいだろうか。


 みりかはもう僕のことが好きだとは言わなくなり、特別なアプローチもしなくなった。もちろん僕だってそう。


 もしかしたら学校で好きな男の子でもできたのではないだろうか。そんな風に思ったこともある。

 でも、それならそれでいいのかもしれない。その方がよっぽど彼女にとって健全で真っ当で正しいことなのだから。


 僕の方はというと、一応あの日の約束通り目の治療を始めることにした。

 手始めに特殊なレンズを用いた矯正治療を受けてみたけれど、効果は全くなかった。

 十数年ぶりの検査でも原因や対策は分からず、時間だけがむなしく過ぎていった。



 一年後のある日、健斗と二人で居酒屋に行ったとき、かつて真利が好きだったことを打ち明けた。

 その店はよくある居酒屋チェーン店で、適当な肴をつまみながら健斗はビールを、僕はカルピスサワーを飲んでいた。


「というわけで、僕が真利に告白することなく、お前たちが付き合うことになったわけだよ」

「そうだったのか……」

「やっぱり気付いてなかった?」

「俺は気付いてなかった。気付いてたら、もっとこう、違う接し方をしていたと思う。上手く言えないけど」

「俺はってことは、真利は気付いてたかもしれないってこと?」

「もちろん俺にそんな話はしなかったが、気付いていたかどうかは分からんな」

「そっか……」


 僕は、卒業式に真利とボタンを交換したことは健斗に言わなかった。みりかにはつい話してしまったけど、健斗には言うべきではないと思った。麻里と再婚したとはいえ、真利が健斗の妻だったという事実が消えたわけではない。


 ふと思った。

 僕が真利にあげた第二ボタンは今でも彼女の部屋のどこかにあるのだろうかと。

 彼女が死んでから時間の歩みを止めてしまったあの部屋に――。


 それは分からない。

 結局、あのボタン交換の意味すらも僕は知ることができなかったのだから。


 追加の酒を注文し、今度はみりかの話題になった。

 健斗はみりかの将来の心配をしていた。障害のある彼女が良い相手と結婚できるのかと。


「じゃあ、娘さんを僕にください」


 特に深い意味はないけれど、冗談めかして言ってみた。


「アホなこと言ってないで、お前も結婚相手を見つけろ。俺も売れ残ってる奴を探しておいてやるよ」


 僕の冗談は信じてもらえなかったようだ。


 さすがに、僕が一年前みりかに告白されたことまで教えるつもりはない。そんなことをしたら今度は健斗が引き籠ってしまうかもしれない。


「期待しないで待っておくよ」

「ま、みりかだってお前じゃなくても、お前くらい理解のある奴と結婚できたらいいんだがな」


 騒がしい店内で、健斗の声だけが妙に優しく聞こえた。



 真利の友達であった峯岸と再会したのは、視力と聴力を再交換してから二年後のことだ。

 再会したといっても、僕は峯岸の顔を見たわけではない。僕の勤めている治療院に、彼女が患者としてやってきたのだ。


「真利ちゃんのことは、亡くなってから数ヶ月後に人づてに聞いたんです」


 意外なことに峯岸は僕のことを覚えていて、腰のマッサージを受けながら昔話をしてくれた。


「最初に聞いたときは本当にショックで、一日中泣きました。真利ちゃん、結婚しても式を挙げなかったから、高校を卒業してからは結局会えずじまいだったんです」


 彼女はなぜか僕に対して敬語で話をした。


「でも、真利ちゃんの子供が元気でいることはやっぱり嬉しいです」


 それから、湿っぽい空気を変えようとしたのか、峯岸は話題を切り替えた。


「それにしても蟹沢君、本当に見えているみたいに動けるんですねぇ」


 盲目でも普通に仕事をしている様子を見て、峯岸は感心したようだ。


 僕は最初に視力を失ってからの日々のことを簡単に話した。でも、視力と聴力が交換されたことは話さなかった。僕とみりかの関係性についても話さなかった。

 その代わり一年前と同じように、高校時代に真利のことが好きだったということは話した。それは、笠原家とは関係ないだからだ。


「そうだったんですかぁ」


 峯岸は何かを言いたげに唸った。でも僕はそれについて訊かなかった。きっと、今の僕には必要のないことだから。


 そのあと峯岸は、訊いてもいないのに自分もまだ独身だという話をした。仕事は音楽講師をやっているらしい。


 普通の男ならば、この機会に彼女とお近づきになろうとするのかもしれない。高校の同級生とこんなところで会うなんて、まさに運命の再会だ。盲目の男と音楽家の女というのも、相性は悪くない気がする。

 それに、お互い独身で三十代。結婚願望がある人なら、かなり焦っている頃合いだろう。


 でも、どうしてもそんなことをする気にはなれなかった。

 僕の心の片隅には、いつもみりかがいた。逆にいえば、みりかがいなかったら僕は峯岸といい関係になっていたのかもしれない。


 僕にとって、どちらの道が正しいのかは分からない。

 峯岸を選ぶことが健全で真っ当で正しいことなのかもしれない。

 でも、健全で真っ当で正しいということが、僕にとって幸せなのかどうかは分からない。


「実は今日、蟹沢君のことちょっといいなって思ったんですけと、蟹沢君はそんな気なさそうですね」


 一通りのマッサージが終わったあと、峯岸が言った。僕の考えは見抜かれていたようだ。


「どうして僕なんかを?」

「だって、目が見えないんだったら、私が老けても別に気にならないでしょう?」

「……なるほど、その発想はなかったよ」


 彼女の言葉が冗談なのか本気なのか、僕には判断がつかなかった。



 再交換から約三年後の夏。

 僕は、みりかの十九歳の誕生日にお祝いのメッセージを送った。


 みりかの誕生日は七夕で、眼鏡がよく似合う友達と浴衣を着て花火大会に行ったらしい。


 僕としては、毎年の誕生日にみりかと会おうとはしていなかったし、プレゼントも贈っていなかった。

 僕らの年齢差を考えれば、おめでとうのメッセージを送るだけでもちょっと普通ではない。親しすぎるほどだ。

 そう、誕生日に会わないこともまた、健全で真っ当で正しいことなんだ。


【みりか】花火すごく綺麗だったよ


【祐樹】羨ましいな。僕には見られないから


【みりか】目の治療の方はどう?


【祐樹】進展なし


【みりか】そっか


 みりかは残念に思ってくれているだろうか。

 それとも、もうそこまで気にしていないのだろうか。


【祐樹】みりかは確か、心因性の症状だと言ってたよね

【祐樹】でも、本当に真利のことでは立ち直ったはずなんだ


【みりか】うーん


 僕はもうどうすればいいのか分からなくなっていた。

 こんなことを言われて、みりかも困っているかもしれない。


【みりか】あとは、祐樹がどうしたいかだけなんじゃないかな


 僕がどうしたいかだって?

 どうすればいいのかではなく、どうしたいかが重要なのだろうか。


【みりか】私は来年、祐樹と一緒に花火を見たいよ


 その一言で、目が覚めた。


 みりかに告白されたあの日、彼女が成人になったら付き合うと約束した。その日までに目を治すとも言った。

 でも、あれから三年経った今、そんな約束はうやむやになって立ち消えたかもしれないと思っていた。


 そうじゃない、そうじゃないだろう?


 つまるところ、僕は逃げていただけだった。みりかの想いを受け入れる勇気がなくて、結論を先延ばしにしていただけなんだ。


 盲目と難聴だからとか、年の差があるとか、もう彼氏ができたかもしれないとか、もっともらしい理由で行動を起こさずにいたけれど、そんなのは全部言い訳だ。その気になれば、どうにでもできたはずなんだ。


 これじゃあ、真利に告白できなかったときと同じじゃないか。怖気づいているだけだ。


 僕は、決めた。

 もう逃げない。みりかとの約束を叶えてみせる。


【祐樹】一緒に行こう。目は絶対治す


【みりか】うん!


 翌日から、僕は本当に本気で目の治療に取り組んだ。

 角膜の再生治療をはじめ、鍼灸から風水まで、思いつく限りのことは全部やった。

 ただひたすらに、がむしゃらに走り続けた。

 みりかも僕のことを応援してくれた。


 結局、その年内に視力は回復しなかった。

 けど僕はくじけることもなく、年明けの早朝に家の近くの土手まで来た。初日の出にお願いするためだ。


 もちろん僕の目に初日の出は見えない。

 でも、それでいい。満月にお願いしたときもそうだったんだから。


 僕は土手に座り、みりかの言葉を思い出した。


 あとは、祐樹がどうしたいかだけなんじゃないかな――。


 彼女はそう言っていた。

 僕がどうしたいか、そんなことはもうとっくに決まっている。


 みりか、僕は君を愛したい。

 あの頃のように、君の笑顔が見たい。

 一緒に花火も見たいし、浴衣姿だって見てみたい。

 怒った顔も、悲しい顔も、全部――。


 かつての僕は、辛いことから目を背けながら生きていた。

 視力を失ったあとも、誰かの負担にならないようになるべく一人で過ごしてきた。


 でも今は違う。

 僕は視力を取り戻して、耳の聞こえない君を支えたい。

 君を守りながら生きていきたい。

 だから、あの日の約束は必ず果たす――。


 スマホで時報を聞いてみると、午前七時になっていた。

 既に朝陽が地平線の向こうから街を照らしている頃かもしれない。


 ふいに冷たい風が吹いてきて、体が震えた。

 願掛けという名の決意表明はもう済んだし、そろそろ行くとしよう。このままいたら風邪をひいてしまう。


 僕は凍えながらゆっくりと立ち上がり、家に帰ろうとした。


 まさに、そのときだった。


 自分の目に異変が起きていることに気付いた。瞼の裏側が薄らと色付いている。

 まさかと思い、目を開けてみた。


 すると、視界が明るくなった。白い玉のようなものがあり、そこから光が放たれている。


 目が見えているというわけではない。ただ、明るさを認識することができているだけだ。


 だが、それだけでも大きな一歩だ。

 僕の想いや、これまでの努力がやっと実を結んだんだ。


 僕はその場に立ち尽くし、いつまでも白い光を眺めていた。

 早朝の寒さのこともすっかり忘れてしまっていた。


 まあ、それも仕方あるまい。

 約二十年に及ぶ長い長い夜が終わり、僕の世界にもようやく朝が来たのだから。



 それから僕の視力は徐々に回復した。

 眼鏡やコンタクトレンズで矯正すれば視界がはっきりと見えるレベルにまでなり、みりかが成人するまでに目を治すという約束は果たすことができた。彼女も自分のことのように喜んでくれた。


 やがて夏が到来し、とうとうみりかの二十歳の誕生日を迎えた。

 だがしかし、あろうことか僕はまだ彼女と会うという話を取り付けていなかった。プレゼントだって買っていない。


 僕はベッドで寝転がりながら考えた。


 二十年前の今日、真利が死んだ。

 真利は二十歳になることができなかったけど、みりかは二十歳になることができた。

 だが、これから彼女のそばにいる男が僕でいいのだろうか。


 もちろんみりかのことは好きだ。それははっきりしている。

 でも、実際に想いを伝えて付き合うとなると、どうしても臆してしまう。色んな障害を乗り越える自信はあるけれど、物事を先へ進める勇気だけがほんの少し足りない。


 それにもしも、みりかが僕と花火を見たいと言ってくれたことや、視力の回復を喜んでくれたことが、恋愛感情ではなく長年の友情からだったら、とも考えてしまう。あの日、僕に告白したのも一時の気の迷いなのかもしれない。


 まあ、まだ夜まで時間はある。まだ大丈夫、まだ……。


 そんな風に悩みながら、僕は貴重な午前の時間を無為に過ごした。

 結局僕は、前を向いてはいたけれど、前に進んでいたわけではなかったのだ。



 昼ご飯の冷凍スパゲッティを食べてから、僕はようやく決心した。

 みりかに会いたいというメッセージを送ることにした。


 彼女は誕生日の昼まで連絡を寄越さない僕のことなんかとっくに見限り、既に予定を入れてしまっているかもしれない。

 でも、どうなっていたところで、あとの祭りだ。もうやるしかない。


 僕はみりかに送るメッセージをスマホに打ち込んだ。


【祐樹】今更で申し訳ないけど、今日二人で会いたい


 あとは送信マークをタップするだけだ。


 これを送ってしまえば、もう本当に後戻りできなくなる。

 だけど、もう送るしかない。

 さあ、押せ。押すんだ。


 胸の鼓動が高鳴り、手がぶるぶると震えている。

 でも僕は、その指先でゆっくりとスマホの画面に触れようとした――。 


 ピンポーン。


 いきなり、インターホンの音が部屋に鳴り響いた。


 心臓が止まるかと思った。

 宅配便でも来たのだろうか。なんてタイミングが悪いんだ。


 僕はメッセージを送信せずに、スマホを床に置いた。


「はーい」


 インターホンのマイクに向かって返事をした。しかし、なんだか様子がおかしいことに気が付く。

 その来訪者は何も言わずに玄関扉をドンドンと叩き始めたのだ。


 まさか――。


 僕は慌てて玄関に行き、ドアスコープを覗いた。

 その先に、みりかがいた。


 どうしてうちまで来ているんだ?


 僕は焦った。

 Tシャツにハーフパンツという緩みきった服装だったのでどうしようか迷ったけど、とりあえず扉を少しだけ開けてみる。

 すると、みりかはほとんど体当たりみたいな勢いで中に入り込み、後ろ手に扉を閉めた。


 みりかは浴衣を着ていた。えんじ色をベースに、白色で花と月の柄をあしらったデザインだ。黒い髪を後ろで結って、赤い花の髪飾りを付けている。

 僕は二十歳になったみりかの浴衣姿をとても可憐だと思った。


 そんなみりかに見惚れていると、彼女はニッコリと笑いながらスマホの画面を僕の目の前に突きつけた。

 そこには予め文章が入力されていた。


《ウダウダ悩んでないでさ、私と付き合おうよ! 絶対楽しいよ!》


 それを見て、目が点になった。


 これがみりかの、僕に対する想いだ。

 僕のこの四年間……いや、二十数年に及ぶ迷いや葛藤が「ウダウダ」の四文字で片付けられてしまったのだ。


 さっきまでもの凄く真剣に悩んでいたのが急にバカバカしくなって、吹き出しそうになった。

 笑いを堪えている僕を見て、みりかも困ったような笑みを浮かべていた。「あれぇ?」とでも言いたげな表情だ。


 やれやれ。先に言われちゃって、最後までカッコつかないな、僕は。

 でも、答えはもう決まっている――。


 僕はみりかのことを抱き締めた。


 これが僕の返事だ。

 四年前に告白されたときは抱き締めてあげることができなかったけど、今なら伝えられる。

 僕の気持ちを受け取ってもらうのに、目も耳も必要ない。この温もりだけで充分だ。


 みりかも僕に抱きついた。

 彼女は浴衣も髪型もバッチリ決めているのに、僕は髪がボサボサで髭も剃っていない。傍から見ればだ。


 みりかの涙がTシャツに染み込んでいくのを感じる。

 こうしたかったのを今までずっと我慢していたのだろうか。


 いや、もしかしたらこの四年の間に恋人がいたこともあったのかもしれない。

 そうだったとしても、僕はそれを受け止められると思う。自分の都合のいいように、あるいは物事を捉えるのはもうやめることにしたから。どんなことに対しても、目を逸らさずにいるつもりだ。


 ふと、みりかが顔を上げて、僕の髪を撫でた。

 まるで寝癖を直すかのような手付きで。


 僕はみりかの顔をまじまじと見てみた。

 すると、彼女の耳がとても綺麗だということに気が付いた。


 みりかには聞こえないだろうけど、一応言葉でも返事をしてあげよう。


 月のように美しい耳に向かって、こう言った。


「僕は、みりかを愛している」

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恋は盲目、月の耳 広瀬翔之介 @Hiroseshonoske

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