平和になんて生きられない生物
皆が苦しくて顔をしかめている時に、一人だけ楽をしていると、状況は劇的に動き出した。
学院長と老紳士の距離はおよそ、ニ十歩ほどだと言ってもいい。
あの男はその距離を一歩だけ縮めながら、その本音を吐露していく。
「私がどんな思いをして、君たちが持つ当たり前の未来を捨てたと思っているんだい?」
その表情はあまりにも昏く。
「平和に生きると言うことが、どれだけ素晴らしいことかわからないのかい?」
その瞳は嫉妬に濡れて。
「無能なクズが戦いの道を歩むな、迷惑なんだよ!」
その言葉は、ついに爆発した。
これだけの魔力と殺気に溢れているが、空白地帯と言うのは恐ろしい。
老紳士は学院長の発する、全てのプレッシャーからの影響を受けていないらしい。
だがそれは実力ではなく、運による結果でしかないので、ほんの僅かに何かが変われば大惨事になるであろう。
それでも、老紳士には反論する余裕があるのはただの悲劇だ。
「才能がないからなんですかな、能力が足りないからなんですかな、見くびらないでいただきたい!」
老紳士も、まだ瞳から力が失われてはいない。
「力があるものだけが戦っていいわけではない、無力なものが誰よりも努力をして、欲しいものを手に入れるために力を求めて何が悪いのですかな!」
それも確かな理屈だ。
何が欲しくて、どんな道を歩くか。そんなものは自分で決めればいい。
その結果どうなるかも含めて、自分が決めた道。
そう、例えばこの場で虫けらのように殺されるとしても、それは許されている選択のはずだ。
「自分の道は自分で決める? それが出来るのはお前たちクズどもだけだろう、私にはそんな道がなかった。万人に自由が許されているのなら、他人に口を出す権利などないだろうね。だが、自由が許されなかったものならば、他人の自由に口を出す権利があるはずだ」
全ての人間は平等であり、自分に許されているのなら他人も許される。
その反面として自分が許されなかったのなら、他人のことも許されない。
これも一つの平等だろう。正しいか間違いかは、また別の話だとしても。
「自由がなかったですと? そんなのは言い訳ですな。それは選ばなかっただけで、本当の意味で自分の道を選べない人間なんて、この世にはいませんな」
「……クズはいつでも幸せだな」
この理屈は流石によくわからない。さっきからずっと老紳士のほうが、正しいことを言っている気がするぐらいだ。
「私の戦闘本能は、戦闘欲は自分で制御できるものではないんだよ」
戦闘欲?
ぼくはついルシルの方を向いて、説明を求める。
「欲望なんて万物に向けて存在するものです。その一つに戦いがあっても不思議はないでしょう?」
まあそれはそうだろう、食欲から睡眠欲などの基本は言うまでに及ばず。
何かを破壊したい欲や、購入に対する欲だって存在する。
「戦いたい欲。一般人ならケンカぐらいで済むのかもしれません。平和を望む魔法使いも、なんとか耐えて生きることが出来るのかもしれません」
当然の話、欲なんてある程度抑えるのが当たり前なのだ。
「でも、才能のある魔法使いは生まれつき、欲望を抑えることが出来ないように設計されているのです」
設計だと? それは、もう人間ではないような言い方だ。
「魔力とは留める力だと説明しましたよね? 年齢や体重など、魔法使いは変化させにくい」
優秀な魔法使いは、外見年齢が二十歳で止まる。
魔力を全て使い果たさなければ、体重が減らない。
あまり詳しくはわからないが、共通点があるようには感じる理屈だ。
「魔力は、使わなければ溜まります。才能のない魔法使いなら日常で勝手に消費されていく程度の魔力しか溜まりませんが、才能のある魔法使いの魔力は加速度的に溜まっていき……」
最終的には、爆発する。と言うわけだろう。
「本当に優秀な魔法使いは、平和な道を歩けません。もしその道を歩んだら、周りの全てを巻き込んで壊れるしかないのですよ」
その爆発の仕方は、わからない。
欲望が溜まりすぎて、性格が変わり殺人鬼のようになるのか。
あるいは魔力が暴発して、爆弾が落ちたかのように周囲と共に滅びるのか。
でも……。
「平和な道を歩んでも、戦わない道を選んでも適度に魔力を使ったりしてガス抜きが出来ないのか?」
誰もいない場所で魔力を使うとか、何かの魔道具を使って消費するとか。
「戦闘欲求と魔力が溜まることは別のことですので、確かにムゲン君の言葉は正しい。でも魔力の高さは戦闘欲求と比例するんです」
それはつまり、強い奴ほど戦いが避けられないということか。
「そうですね、力づくで欲求に打ち勝てるのは私ぐらいまでの強さでしょう。それ以上は……」
不可能なのだろう。
話をまとめると、学院長は初めから強すぎるせいで平和な道を選べなかった。
選んでいたら、自分の意志とは関係なく周囲の人間を巻き込んで破壊していた。
その規模はもしかしたら、一国。あるいは世界が滅びていたかもしれない。そういうことだ。
学院長は平和を尊ぶがゆえに、平和には生きられなかったのだ。
「私の戦闘欲は高すぎて、一週間もなにもしなければ寝ている間に……」
何をしているかわからないほどだと。
「幸いにして、戦いは楽しくて平和に生きる事への未練はあっと言う間になくなったが、それでも君のようなものは癇に障る」
学院長は、ゆっくりと老紳士との距離を詰め、残り二歩ほどの距離で。
ついに気づき始めてプレッシャーで、白目をむき、顔中汗だらけで、仰向けに倒れこんでしまい意識なんて残っているのかも怪しい老紳士へ向けて……。
「平和に生きることが出来るほどに無能なのに、虚しい戦いの道を選んだ男よ。君にはこの世を生きる価値がない。疾く死ね」
決定的な一言を発しながら、その右足を老紳士の顔面へ叩き下ろした。
「……」
鉄をも砕きそうな衝撃音と、この場の静寂。
「止めだ、こんな八つ当たりは美しいものじゃない」
その中で、理事長の哀愁に満ちた声が小さく響いた。どうやら直前で足の軌道を変えたらしく、老紳士はギリギリで生き残ったのだ。
「本当に平和の価値がわからないものが多すぎて嫌になる、私も愚かに生まれたかった」
抑えられない感情を、人間味と呼ぶ。
それならば、この平和に嫌われてしまった男を端的に表す感情は……。
怒りでも、楽しさでもなく、哀しみなのではないのかと、ふとそう思った。
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