千里駆け抜けるは馬
千里疾走の馬、操る騎手は地団太を踏む
自分は騎手だ。
驚天童子という名馬の手綱を握り、乗りこなす騎手。
しかし、それで千里を駆け抜けたと言えば滑稽でしかなく、何故だと問いかければ、千里を駆けたのはおまえでなくて馬の方だ、と返される。
騎手はただ手綱を握り、馬に跨っているだけのこと。
千里を実際にかけているのは名馬の方であり、自分自身はまったく進んでいないことに気付いてしまったとき、生まれた感情の名を知っていながら、その名を紡ぐまいと夢より醒めて跳ね起きる。
見ると、妻が心配した様子で自分のことを見つめており、佐天の体は自分でも驚くほどの脂汗を掻いて、寝巻をぐっしょりと濡らしていた。
「とても悪い夢を見ていたのですね。ずっと魘されていましたよ」
「……すまない。蘭丸は起こしていないか」
「はい。昼間、驚天さんとたくさん遊んでいたので、疲れていたのでしょう」
「そうか……少し湯浴びをして着替えてくる。君はもう寝なさい」
湯浴びをしてくると妻には言ったが、すでに冷め切った桶の水をそのまま頭から被る。
夏とはいえ夜は少し冷えるものの、頭を冷やすには丁度いいとさえ思って、震えながらも脂汗を洗い落とす。
しかし脳裏に浮かんだ光景はいつまでも、寝て覚めても残り続けていた。それこそ今、妻が落とすのに苦戦している鍋の頑固な焦げ付きのように。
「俺がやろうか」
「あぁ。ありがとうございます、貴方」
「おぉにぃさぁん、こぉちぃらぁ!!! 手ぇの鳴ぁるほぉぉぉぉお、えぇぇぇぇぇ!!!」
「まてまてぇ!」
驚天を追いかけ、庭を駆けまわる蘭丸の喜ぶ声が聞こえる。
余程健気で、無垢で、無邪気な姿なのだろう。それを見る妻の微笑む姿が、見ずともわかる。
気付くと、鍋の焦げ付きはすでに取れていて、底は大きく歪んでしまっていた。
何に対してそこまで憤り、鍋の焦げ付きに八つ当たりしていたのかわからない。ただ苛立っていたこと、夕べに見た悪夢が関連するだろうことだけは、見当がついた。
「
「は……蝦夷の地にて、妖刀の手にかかったと。先ほど、同行していた妹の――」
「ふざけるな! 六道剣だぞ!? まだ若いとはいえ、壊刀団最強の称号を貰った奴が……」
不幸や不運の巡り合わせとは、どうしてこうも度重なるものなのだろうか。
壊刀団本部に向かって最初に聞いたのは、団内部でも実力を認められた六人の剣士、六道剣の一人が殺されたという訃報で、その剣士はまだ就任してから半年も経っていない若者だった。
彼には妹と、その妹が拾ってきた女の子がいると聞いたが。さぞ無念なことだろう。
だが佐天が、いの一番に考えたのは、残された二人の苦しみではなく、あっけなく殺された年下の剣士に対する憤慨であった。
実力を認められ、最強の一角を担う称号を与えられておきながら、なんという体たらくだと、残された妹らにはとても言えないことを思い、考えてしまっていたことに我先に気付いて自分を責める。
自分にも大切な家族がいる身でありながら、なんてことを考えるのだと。
「佐天、顔色が悪いぞ。大丈夫か」
同僚に見つかり、顔を覗かれる。そういや彼にも、先立った妻が残した一人息子がいたか。
「……いや、なんでもない。ただ衝撃的過ぎてな」
「そうか。無理はするなよ」
六道剣の一角が潰された噂は本部内に忽ち広まり、同時に蝦夷支部が壊滅したこともすぐ、皆の耳に入ることとなった。
『馬の耳に念仏』とでも言うべきか。噂を聞いてもまるで反応しなかったのは、難聴であるこの天才くらいものだった。
「よぉし、よぉぉしっ!!! たぁかい、たかぁい!!!」
「わぁぁ! たかぁい!」
「驚天さん、ありがとうございます。ですがよろしいのですか? その、組織の方が何やら不穏な様子ですが……」
今更になるが、驚天は人と話すとき基本的に唇の動きから言葉を理解する。いわゆる読唇術という奴だ。
難聴であって失聴しているわけではないので、本人のように大声を出せば聞こえないことはないが、それでも基本的に彼と話す相手は、彼が自分の方を向いているときに口を開け、これから喋りますと示す必要があった。
故に佐天(妻)の気持ちが沈み、縮こまった声も聞こえはしなかったものの、驚天は内容を理解して「知らん!」と言い切った。
「俺に難しいことはなぁんもわからん! 俺ができることは剣を握って戦うことだけだ! だが龍之助は俺にできないことがなんでもできるからな! だから大丈夫だ! 蘭丸、おまえの父ちゃんがきっとなんとかするぞぉ! みてろぉ!!!」
「うん、みてるぅ!」
事情も何も、幼い子供に理解できているはずもない。
だが自分の父親が何か凄いことをしているんだと言われると理由なく嬉しくて、高々と持ち上げられた幼子はまだ小さな手をバタバタさせて喜びを表す。
子供が喜んでいる姿を見るのは母親としても喜ばしいし、旦那を信じろと言われるのは妻としても嬉しく、不安だった気持ちにもわずかに安堵と共にゆとりができ、子供と一緒に笑うことができた。
そんな光景を、佐天は見てしまった。そして思わず隠れてしまう。
そこは自分の家で、妻も子供も自分の家族なのに、何故か自分が邪魔者のような気分になって咄嗟に隠れてしまった。
堂々と帰っていいものを、何故何故邪魔だと思ったのか、何故隠れたのかもわからない。
だが家族団欒の中、部外者が邪魔をしては悪いと思ったのと同じ感覚だったのに恐怖し、憤り、焦燥に駆られた。
「おぉぉぉ!!! 帰ったか、龍之助!!!」
「あぁ。すまないな、息子の面倒を押し付けて」
「構わん! 俺は難しい話は点で駄目だからな! 後でかいつまんで説明してくれ!」
「あぁ……」
疲れている様子の夫の顔色が心配で声を掛けようとする妻を、佐天は一瞥で制止させた。
自分でもおかしいとは思っている。悪夢を見て寝覚めが悪いからと、ここまで不機嫌になることもないというのに。
仲間が死んだ報告を聞いて憤り、家族が友人と仲良くしている光景を見て苛立ち、馬鹿みたいだ。被害妄想も甚だしい限り。自分自身で嫌になる。
(落ち着け。今日はそういう日なだけだ……)
そう自分に言い聞かせて、気分転換にと読書を始める。
最近仕事が立て込んでいたために読んでいない本が溜まっており、その中の一冊を抜き出して何気なく読み進めていく。
気に入っている文豪の書籍だけあって、すらすらと頁が進み、物語が頭の中で紡がれていく。
書き出しはこうだ。『少年には、兄弟同然の友がいた――』
◀ ◀ ◀ ◀ ◀
「凄いぞ、あの子。もう大人でもついていけない」
「さすが鞍馬の家の子だ。天翔さんも鼻が高いだろう」
大人は皆、彼のことばかり見ていた。彼は難聴故、また剣術馬鹿故、そんな大人達の期待に満ち満ちた声にわざわざ振り返ることはない。
ただただ真っ直ぐ前を見て、剣の基礎たる素振りを黙々とやり続ける。
彼と同年代の子供はもちろん、八つ年の離れた彼の兄でさえ百回もやれば疲れ果ててやめるのに、彼はもう何回振っているのだろうか。滴る大量の汗と、体から発せられる熱が生み出す湯気とが、想像を超えてくる数だろうことだけを教えてくる。
その姿に黙って見入る者の中には彼の才能を妬み、憎み、陰口を叩いている者さえいて、その時間その間だけ、彼らも一切の陰口を叩かない。
目の前にいるとはいえ、彼は難聴。口元を隠すか背を向けるかして小声で囁けば聞こえはしないのに、彼の剣技の前では誰もが黙る。
その中に、佐天龍之介少年の姿もあった。
自分と同じ歳でありながら、大人達から注目を浴び、自分より一回り以上の時間剣を振った者からも尊敬と嫉妬を集める彼の姿は、少年時代の佐天が見ても異質だった。
そして同時、彼のことを唯一殺意の籠った目で睨む彼の兄のことが、堪らなく怖かった。
鞍馬家の長男、
体格に恵まれたというと、誰もが筋肉質で大柄な逞しい姿を想像するかと思う。
だが相手の懐に飛び込んで討つことを主流にする義経流にとって、恵まれた体とは敵の懐に入れる敏捷性と身軽さを表し、他人より低身長で身軽な弟は、義経流を磨く者として恵まれていたのだった。
故に他――例えば剛剣と言われる類の、己の腕力や筋力によって威力を発揮する剣術に方向性を向ければ、彼とて充分に名のある剣士として張り合えるだけの素質は持っていた。
それでも義経流にこだわり、弟に嫉妬するのは兄としての気位か。それとも御家の面汚しになりたくなかったからか。
いずれにしても、鞍馬(兄)は義経流にこだわるがあまりに自壊していくのだと、少年時代ながらに思っていて、同時にその気持ちが痛いほどに理解できてしまえていたことの恐ろしさを、このときの佐天少年は気付いていなかった。
「九頭一、韋駄……これは、一体……」
事件は必然的に起こった。
何か問答があった末のことだったのか、それとも突如として始まったことなのかはわからない。が、鞍馬(兄)が先に仕掛けたのだろうことだけは、誰が見ても間違いなかった。
そして弟に返り討ちにあって悶絶しているのだろうことも、見てすぐに理解できた。
「韋駄を取り押さえろ!」
返り討ちで折られたのだろう手首を押さえながら呻く鞍馬(兄)は、抵抗することもできぬまま門下生らに両脇を抱えられて連れていかれる。
父親は茫然自失で立ち尽くす弟の方に駆け寄り、彼の背丈に合う様片膝をついた。
「おい、九頭一! おい、大丈夫か! 九頭一!」
「ち、父上……俺は、俺は一体、何を……」
「落ち着け! 大丈夫だ、大丈夫だ!」
茫然自失と、彼は立ち尽くすままだった。
当然か。実の兄に命を狙われたのだ。いくらなんでも戸惑いもあろう。
その兄が弟を斬ろうとしたのだろう刀が、目の前に転がっている。
道場の入り口で燃えている松明の炎に照らされ、赤々と燃える光を反射する刃の鋭さは、命を刈り取るために磨き上げられ、研ぎ澄まされていた。
本気だったのだろう。本気で、弟を殺そうとしたのだろう。
刃の鋭さを見れば、悪戯や冗談では済ますつもりなどなかったのがよくわかる。
自分もそれを見たとき恐ろしくて、戸惑って、震える体を必死に押さえて――舌打ちした。
◀ ◀ ◀ ◀ ◀
読書の最中に眠ってしまったらしい。
にしても嫌な夢だ。悪夢と呼んで相違ない。
何故自分にとっても、彼にとっても忌々しい夜を夢に見るのだろうか――いや、理由など問うまでもなかろう。
「……おまえのせいか」
自分でも、何故そうしたのか理解に苦しむ。
あの日我が友を斬ろうとした忌むべき刀を、未だに隠し持っているのだから。
後日談となるが、鞍馬(兄)の身柄はその後警官に引き取られた。が、お上の判決を待つことなく、彼は獄中で自死を遂げたらしい。
その日以来、この刀は何やら禍々しい気配を帯びた気がする。
亡き鞍馬(兄)の亡霊が取り憑いたなどと怪奇じみたことを言うつもりはないが、妖刀という存在を相手にしていればそんな考え方だってしてしまう。
ならば神社仏閣にてお祓いをして廃棄するなりすればいいものを、未だ隠し持っているのは何故なのか。
未だ自分の気持ちは、あの夜より地団太を踏んだまま、進んでいないのかもしれない。
驚天童子と名乗る彼と共にいても未だ距離を感じ、彼を御しているつもりでも、団内に広まるのは彼の噂ばかり。実際に前線に立ち、戦っているのは彼なのだから当たり前のことだ。
その当たり前にすら憤りを感じ、妬み、苛立つ自分に、禍々しい妖気をまとった刀が自分を握れと誘ってくる。
今までその誘惑を断ってきた。今日も断つ。
駿馬は千里を疾走し、手綱を握る騎手もまた千里を渡る。
しかしその足が実際に進んだ距離は千里に遥か及ばず、自分は未だあの場所が見える位置に。
それが理解できているからこそ進む。進まなければ、ならんのだ。
故に今日もまた刀に布を被せ、誘惑を断つ。その刀を抜いたとて、何も変わるわけがない。
変わるわけがないと、このときまでは思っていたのだ。少なくとも、このときまでは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます