声は殺し心は閉ざし想いは底に積もらせて

 頬が赤くなれば、つねられたのだとわかる。

 青あざができれば、何度も強い力で殴られたのだろうとわかる。

 骨が折れれば、大変だと誰もが騒ぐ。

 臓物が潰れて吐血すれば、医師を呼べと皆が騒ぐ。

 青ざめた顔で嘔吐しただけでも、人は何事かと騒ぎ出す。

 では、心が傷付いた場合には? その目は光を映さず、耳は言葉に反応せず、何をしたいとも訴えないほどに、心が壊れてしまった場合には――誰も、何も言わない。騒ぎもしない。

 人が他人の傷を傷だと判断するに必要なのは認識だ。認識できているかどうかで、その人が傷付いているのかいないのかを計る。

 傷の色、範囲、深さ、症状、容体、緊急性の有無を認識し、前例と比較して原因を探り当て、薬を処方し、傷を手当てし、痛かったねと言葉まで添える。

 だけど心の傷は?

 誰の目にも見えず、話を聞こうとも同調は適わず、ただ憐れだと嘆くばかりで何もない。

 欲しいものは救いであるのに、誰も救ってなどくれず、求める言葉すらかけてくれない。

 どれだけ訴えようとも、泣き叫ぼうとも、心の傷は難しいと皆に距離を置かれるばかり。

 だからもう、訴えるのも泣くのもやめました。

 訴えるのだって辛く、泣くのだって辛い。訴える度に心の傷の要因を思い出し、堪え切れずに泣いてしまうと歯止めがかからなくなって、余計に辛くなってしまうから。

 だからもう、思い出すのもやめた。どうしてと問われるのも嫌になって、喋るのもやめた。

 結果、誰もが自分のことを理解するのを諦めて、何も喋らない自分のことを気味悪がって、話しかけるどころか近付いてもこなくなったけれど、別に構わなかった。

 この世で最も理解してほしい人が、すでに理解してくれていたからだ。


 ◀  ◀  ◀  ◀  ◀


「……おはよう。また潜り込んできたのかい? 静閑」

 腹部に重みを感じて布団を捲ってみれば、静閑が自分を敷布団にして眠っていることがよくあった。兄として妹が懐いてくれていることは嬉しいのだが、お互いそれなりの歳だ。そろそろ卒業せねばなるまい。

「おはよう、静閑」

 寝ぼけまなこをこすりながら体を起こす鳴無(妹)は、寝巻がはだけて肌が見えてしまっていることなど気にしない。

 それどころか起こしたばかりの体を再び寝かせて、喋らぬ代わりの起床の挨拶として、鳴無(兄)の唇に吸い付いた。

 照れ笑いする妹の頭を撫でながら、鳴無(兄)は困り顔で微笑む。

 妹のことが嫌いなわけではない。むしろ大好きだ。現在唯一残る家族として、妹として、彼女のことを愛している。

 だけど本当に、お互いにいい歳になった。夜な夜な布団に忍び込んでくるのも、気軽に口吸いを強請ってくるのもやめさせなければいけないとは思っているのだが、未だにできないでいる。

 心に傷を負った妹を思っていると言えば聞こえはいいが、甘いというだけだ。

 兄として、妹が自立できるよう手助けすることこそ真の愛。自分だっていつまでも妹の側にいられるわけではないのだから、彼女が一人で生きていけるようにしていかなければならない。

「って、その話もう何回目? ねぇ、何回目? 教えてあげようか。一六回目よ、一六回。私との飲みは吉利支丹キリシタンの懺悔の部屋のつもりなのかしら?」

「まぁまぁ、そう言わずに。鳴無様がお困りなのは事実なのですから」

 ぶつくさと文句を垂れる同期の団員は、お酌された酒を飲み干して運ばれてきたつまみを一人で食い散らかす。

 不満たらたらの同期を宥めてくれたのも同期で、同時に交際相手でもある女性団員。名を織田依姫おだよりひめといい、かの一族と浅からぬ繋がりのあるらしい由緒正しき家柄の娘である。

 彼女と交際関係にあることは妹も存じているが、あまりよくは思っていない様子。だからといって邪険にはしないが、妹には自立してほしいと思っている次第だ。

「毎度毎度、情けない姿ばかり見せてごめんよ、依姫」

「構いません。ですが、本当によろしいのですか? 本当はお側に置いておきたいのではないのですか? あの子の心の苦しみを思えば、貴方がお側にいた方が……」

 軽はずみな発言でしたと謝りそうだったので、そんなことはないと無言で制す。

 かの一族と所縁のある彼女の家は広く、手伝いを家に置けるほど。

 本部からも近いため、祝言を上げた後にはそこに住むことになっているのだが、その際に妹もうちで引き取ろうと、彼女とその両親が申し出てくれたのだが、お断りした。

 自分達の交際を認めてくれた、今では義理の両親も同然の方々だ。人柄も知っているし、信用もしている。だが妹を置くことと、彼らを信用していることとは繋がらない。

 心の傷を持ち、そのせいで喋る気力と意欲を失った哀れな妹。確かに彼女が負った心の傷は深い。共に同じ傷を負った者として、兄として、共感もしよう。

 しかしあれから、十年もの月日が経った。そろそろ殻に閉じ籠るのも、卒業せねばなるまい。

「僕らはいつ死ぬかわからない戦場いくさばに身を置く人間だ。そうでなくとも、年齢からして僕が先にあの子より死ぬだろう。そんなとき、君でも君のご両親でも、とにかく僕以外の人間を頼れるようにならないと。あの子の居場所を決めるには、今はまだ早いと思うんだ」

「……ごめんなさい。私が力及ばないばかりに」

「いや、君を責めているんじゃない。僕だって長年努めて、未だできていないことだ。謝るのは僕の方だよ。君にまで苦労をかけてしまって、申し訳ない」

 本当に、語れば語るほどに、自分のことが情けなくなってくる。

 聞けば呼び声高い鳴無家などと言われていた時代は十年前に終わった。それこそ、妹が言葉を失うきっかけになった事件にて、鳴無家は表舞台から姿を消した。

 声を失い言葉を失い、何も語らぬ妹の姿は、まるで表舞台から姿を消した鳴無家を臭わせる。妹が自ら名を静閑と改めたのもまた、それを意識してのことなのだろうか。

 彼女はもう、鳴無と名乗るのも嫌なのかもしれない。

 だから声を殺したのか。だから心を閉ざしたのか。叶うのなら再び言葉を交わし、心の底に燻る闇を振り払ってやりたいものだが。

「本当に、僕は情けない兄だな」

 鳴無家は代々、医師の家系。

 二人の両親も父が医師、母が看護婦として村で実家を兼ねる小さな病院を建て、村に住む人々を診ていた。

 だが医師の家系でありながら、鳴無家には代々引き継がれてしまった悲しい命運があった。

 鳴無の家に生まれた男は短命。

 いつからなのかは知らないが、鳴無の男は嫁いでから十年以内には必ず死んでしまうという命運――呪いがあった。そして父もまた、呪いから逃れることはできなかった。

 だが父は、とても優しい人だった。そう、それこそ最期まで。

「凛音……大丈夫だ……心配することなんて、何も、ない……大丈夫……安心して、好きなように、生きて……好きな人と、添い遂げなさい」

 突如罹った不治の病に蝕まれ、今にも死に逝きそうになっている中で、次に呪いと呼べる命運を辿ると恐れ、震えていた当時の息子に「大丈夫」と言い続けた人だった。

 もしかすると父にとって自分が最期の患者だったのかもしれないと、今になって思い返すこともある。

 父の言葉があったからこそ自分は織田と婚姻を結ぶ決心ができたし、何より彼女を愛おしく思うことができた。呪いに怯える息子の心を、父は死の淵に立ちながらも救ったのだ。

「あれ、あんちゃんがこんな夜更けに出掛けてるたぁ、珍しいじゃあねぇの」

「あぁ、魚屋の。見ての通り、酔い潰れた同僚を家に送っている次第です」

 帰路の途中、知り合いの魚屋の店主と出くわした。

 肩を借りている同僚がすかさず「酔ってねぇ!」と反論するが、今にも寝てしまいそうな寝ぼけまなこに真っ赤に茹で上がった顔。回らない呂律に力の入らない足腰と、見ての通り説得力の欠片もない状態。

 魚屋の店主も近所では酒豪として有名だったが、そんな店主でも引いているくらいだった。

「しかし、今日はやけに遅い店仕舞いですね。いつもは半刻くらい前に閉めていたはずでは?」

「そうなんだよ。夕方になって急に大量の魚が届けられてよ? そんなにたくさん貰っても置く場所がねぇってんで、若いのを知り合いの家にあちこち走らせて差し入れさせてたんだよ。ちっと早いが、暑中見舞いみたいなもんでね。そうだ、あんちゃんにも渡そうと思ってたんだが……その状態じゃあ、無理みたいだな」

「それはありがたいですが、しかし妙な話ですね。急にそんなにも大量の魚が届けられるなんて」

「俺も長ぇこと商売やってるが、こんなことは初めてだ。最初は中身が腐ってるんじゃねぇかと疑ったんだが、捌いてみても腐ってるどころか綺麗で油の乗った身をしててよ? これがうまいのなんのって」

「なるほど……ではお手数ですが、今貰えませんか。」

「いいけどあんちゃん、そんな飲んだくれを連れてたら大変じゃあねぇかい?」

「いえ、それだけ美味しい魚なら、この飲んだくれの二日酔いに利くだろうと思いまして」

「なるほどな。そういや妹さんは魚が好きだったもんな。わかった、ちょっと待ってな!」

 そんな経緯から貰ったのは、なんとも肥えた身をした鮎だった。初夏の若鮎とくれば実に食べ頃。塩焼きもいいだろうし、妹は鮎の天麩羅てんぷらが一番の好物で、土産としてはこれ以上ないものを貰うことができた。

 これで少しは、妹の喜ぶ顔を見ることができるだろうか。酔い潰れた同僚を女子寮に送り届け、自分の部屋に戻るまで、鳴無(兄)は喜ぶ妹の顔を想像して見られたらいいなと思っていた。

 そして部屋に戻ると、それまで何度も繰り返し想像していた妹の喜ぶ顔をすっかり忘れて、状況判断と心の整理に急かされることとなった。

 と言うと誤解されてしまうかもしれないが、別に血生臭い惨劇が繰り広げられていたというわけではない。ではないのだが、衝撃的だったことには違いない。

 何せ言葉など一切話さない妹が、小さな女の子と遊んでいたからである。

 一瞬、本当に一瞬であるが、兄はそれこそ誘拐の可能性すら考えてしまって、喋れないということが怖くなった瞬間はこのとき以外になかったと、後日団員に語るのだった。

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