第87話 憎悪の芽吹き

 寂しそうなガルの鳴き声は、すぐに聞こえなくなった。

 外とは打って変わって静まり返った廊下を歩きながら、エメーリエは現れた赤い絨毯をちらりと一瞥する。つと睫毛を持ち上げれば、強い雨が窓に打ち付けられ、滝のように流れ落ちる。遠くで唸る雷鳴は、エメーリエの動悸を少しずつ速めていった。

 やがて聳え立つ巨大な扉が、二人の騎士によって左右へと開かれる。

 ──昔はこの瞬間がとても嫌いだった。

 小さな玉座に座る父と、傍らに控える母の姿が見えただけで腹痛を引き起こしていた。今日、前へ前へと導いてくれた兄の手はない。

 自身の足で絨毯の先へ進んだエメーリエは、両脇にずらりと立ち並ぶ甲冑と、垂直に携えた槍の穂先を何と無しに数えていく。

 ここで自分が魔物になれば、あの槍で貫かれるのだろうか。そんなことを考えながら。

「……このような状況下に呼び出してすまぬな。エメルよ」

 ずしりと腹の底に響く低音。

 エメーリエはそこで初めて礼をしていないことに気付いたが、どうせ薔薇姫を叱責する者などいないと思い直しては、おどおどとした心を押し隠す。

「お久しぶりでございます、国王陛下。私に如何様なご用件でしょうか」

 一礼の後、玉座に腰掛ける国王を仰ぐ。

 白く染まりがちな銀髪、皺の刻まれた目許。こちらを冷たく見下ろす碧眼。頭部に輝く王冠は、太陽を模した金細工が曇天の光を鈍く反射する。

 錫杖を一度だけ床に突いたゼーリッヒは、その残響が消える頃に口を開いた。

「狂騒の宵が訪れる前にと思うてな。テオドルよ、前へ」

「はっ……?」

 そのとき、玉座に続く階段の麓から、慌てた様子でテオドルが踏み出す。ルシアンに思い切り転がされてから暫く姿を見かけなかったが、どうやら謁見の間に呼ばれていたらしい。

 しかしながら彼自身、何故呼ばれたのか分からないと言った表情で、戸惑い気味の視線をエメーリエに寄越した。


「──そなたの夫となる男だ。よく覚えておけ」


 エメーリエが絶句する一方、同様に驚いたテオドルは言葉にならない声を発して国王を仰ぐ。

「な……っ、お待ちください、陛下! そのお話は白紙になったと以前」

「そなたを一時的に候補から外したのは、リング公爵家の目を欺くために他ならぬ。そなたの家にとっても、そう悪い話ではなかろう」

「し、しかし」

 エメーリエの意見を聞こうとしない国王に、彼は愕然とした面持ちで言葉を詰まらせていた。しかし彼も恐らくは王家の傍系にあたる一貴族、ゼーリッヒの決定に異を唱えることなど到底叶わない。

 テオドルはこちらを気遣う眼差しを向けたが、ついに発言を許されることはなかった。

「さて、エメル。いや、我が娘エメーリエよ」

 ゼーリッヒは彼女の目を見るなり、どこか愉快げな笑みを口元に刻む。

「暫く見ぬうちに、よい眼をするようになったではないか。真の神族には相応しくないが、王族としては時に太々ふてぶてしさも大事だろうて」

 言われた通り、確かに自分は今とても酷い顔をしていることだろう。ただでさえ体が重いというのに、またしても身勝手な婚約を突き付けられて気分は最悪だ。

 ふと右手の痺れを感じ、エメーリエは顔を顰めつつ後ずさった。

 そんな彼女の小さな異変にも気付かずに、ゼーリッヒは何処か夢うつつな口調で語る。

「ようやくだ。そなたが薔薇姫として目覚めれば、この国はようやく神族の園として昇華する……これほど喜ばしいことはない」

 国王の言葉に、傍らに控えていた宰相や武官が鷹揚に頷いた。恍惚とした、虚ろな笑みで薔薇姫を見下ろして。その目はまさに、体のいい道具を見るものと同じだった。

(──悔しい)

 彼らはエメーリエを人間と見なしていない。彼らにとってエメーリエは国王の娘、第三王子、薔薇姫──そのどれでもなく、ただヴィラシア王国を高みへと導く便利な駒に見えているのだ。

 神の威光を手に入れんとする愚か者。

 自らが滅ぼした大陸で、自らが神になり替わろうとしている、救いようのない連中だ。

「さて、無駄話は終わりだ。宵が来る前に果実を食せ、エメーリエ」

「……」

「真の神族となりて、聖火の加護を維持させよ。民を、皆を。これまでと変わらず護り続けたいであろう?」

 ゼーリッヒが片手を挙げると、それを合図に周囲の騎士が一斉にエメーリエに向けて槍を構えた。無論、その中でただ一人、テオドルは信じがたい面持ちで固まっている。

 玉座の傍から下りてきた騎士の両手には、丸い銀盆と白金の果実が乗っていた。騎士はエメーリエの前に跪き、献上するが如く両手を高く掲げる。

「安心せよ、エメーリエ。そなたが朕への憎悪を記憶ごと忘れた後……我々は十七年間の無礼を改めよう。それからは、本来あるべき家族の関係へと戻ろうではないか」

 さぁ、と国王が促す。何も心配は要らない、断る理由もないと言わんばかりの顔だ。

 身を乗り出し、その瞬間を見届けようとする彼らの姿を、エメーリエは視界から追い出すように瞑目した。


「……あ、っははは!!」


 唐突に上がった甲高い笑い声に、びくりと肩を揺らして瞼を開く。ざわつく広間を確認する暇もなく、エメーリエは目の前に跪く騎士が銀盆を手放す様を、ただ茫然と見送った。

 絨毯の上に落とされた銀盆は、車輪のように転がっては螺旋を描き、やがて呆気なく倒れる。投げ出された白金の果実を片手で拾い上げた騎士が、それを躊躇なく握り潰してしまった。

「な──何をしておる!? 貴重な実を……!」

 エメーリエが果実を食す時を、今か今かと待ち侘びていた大臣たちは、転じて顔を真っ赤にして騎士を非難する。

 しかしそんな彼らを振り返ることもせずに、ゆらりと立ち上がった騎士はエメーリエを愉快げに見下ろした。

「良い感じに育ったじゃない。大丈夫だよ、エメーリエ。僕が君にチャンスをあげよう」

「え……」

 ──この声と喋り方、どこかで。

 無邪気な少年を思わせる高い声。この騎士の姿からは想像もつかないほど幼げな語り口調。

 間違いない。彼のに違う誰かが入っている。

 そしてそれはエメーリエにとって、ずっと捜していた目的の人物でもあった。

「あ、あなた、ルシアンに呪いをかけた……!」

「そうだよ? 覚えててくれたんだ、嬉しいな。もしかして僕のこと捜してたの? あいつの呪いを解きたくて? はは、健気だね」

「笑いごとではありません! 彼の呪いを解いてくださいっ」

 ここが何処かも忘れて掴みかかれば、騎士がおかしげに笑う。


「ごめんよ、僕は呪いの解き方なんて分からない」


 眉を下げて謝った彼を、エメーリエは唖然と見上げていた。

 胸倉を掴む手が次第に震え、見開いた瞳から生温かい雫がぽろぽろと落ちていく。

 妖精の少年はそんな彼女の頬を両手で拭うと、こんなことを囁いたのだった。

「泣かないでよ、芽吹きの姫。呪いを解くのは神族の仕事だから。でもお詫びに良いこと教えてあげる」

「……いりません、早くその騎士から出て──」

「君の大好きなおじいさん、って知ってた?」

 一際大きな声で告げられた言葉に、謁見の間が凍り付くのが分かった。

 玉座から国王がにわかに立ち上がる気配を感じながらも、エメーリエは微動だにしない。やがて再び両手に力を込めれば、妖精の少年がにこやかに明かす。

「そこの馬鹿な王様が殺したんだ。手っ取り早く、君を薔薇姫に近付けるためにね」

「でたらめを……!! その者を殺せ! 予備の果実を持ってこんか!!」

 半ば遮るようにゼーリッヒが怒鳴る。しかしながら慌ただしく駆け寄ってきた大勢の騎士には目もくれず、エメーリエは無音の中で立ち尽くしていた。

「……将軍が……陛下に……」

「そう。病死なんて嘘ついて。殺されたと知ったら、すぐに魔物になっちゃうからさ」

 掬い上げられた右手が、指先まで黒く染まる。手首に鋼鉄の茨が這った直後、エメーリエの首筋から侵蝕した魔鎧が全身を覆った。

 漆黒の薔薇を模した巨大な繭を見上げ、妖精は大きく両手を広げたのだった。

「──僕はラデクみたいに甘くないんだ。頑張っておくれ、愛しい薔薇姫」

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