第86話 唸る自己

 ロイスダールの指揮によって、北塔周辺を固めていた王国兵にも統制が取れてきた。凶暴な中型の魔物はミネルバの弓兵隊が動きを止め、すぐさまジェロムやフレイ率いる前衛が他の尖兵ごと切り崩す。

 その間に負傷した王国兵を回収しては衛生兵に引き渡し、迅速かつ滑らかに戦力を循環させていく。

 陣形を再び持ち直させた皇子は、塔の壁がそれ以上破壊されないことを確認すると、暫く迎撃態勢を維持するよう指示を下したのだった。

「ロイ!」

 その鮮やかな手腕に圧倒されながら、エメーリエも主に祈術や負傷兵の回収でちゃっかりと扱き使われていた。ようやっと落ち着いてきた頃にロイスダールの元へ駆け寄れば、いつもの涼しげな顔が振り返る。

「エメル、すまんな。お前だけ仕事が多かった」

「いいえ、僕は出来ることが少ないですし……お役に立てて良かったです」

 確かに負傷兵の元へ向かったり、凶暴な魔物が出て来たら呼び戻されたりと忙しかったが、どちらかと言うと走って往復することに疲れただけだ。

 額に滲む汗を拭えば、フードの中に入っていたガルがよろよろと這い出して来る。恐らくエメーリエが走り回るたびにフードが揺れに揺れたおかげで、すっかり酔ってしまったのだろう。

「!! どうした、ガルが弱っているぞ」

「だ、大丈夫ですよ、抱っこしていれば良くなると思います」

「だっこ……」

 皇子がそんな可愛らしい単語を反芻するとは思わなかった。

 しかし今は剣を抜いた状態だからか、珍しくロイスダールはガルを拒否する。無論その顔には物凄く抱っこをしたいと書いていたが。

「アゼルス殿は無事だったか?」

「はい、今は安全なところへ移動していただきました。それと、ケイドン兄様が地下扉を閉ざすために準備を進めてくださっています」

「そうか。ようやく尖兵の数が減ってきたところだ。そろそろ突入しても良い頃だろうな」

 ロイスダールは思案げに顎を摩ると、ちらりとエメーリエに視線を寄越す。浅葱色の瞳をきょとんと見返せば、皇子がふと小さな声で告げた。

「顔色が悪い」

「え」

「と、ルシアン殿が先程こぼしていた。確かに青褪めているな」

 その言葉に驚いたエメーリエは、陣形の前衛に視線を移した。そこでは帝国兵の動きを支援しつつ、襲い来る魔物を斬り崩すルシアンの姿がある。

 もはや彼の前では嘘も強がりも通用しない気がしてきたエメーリエは、されど素直に言う気にもなれず曖昧な笑みを浮かべた。

「体調が悪いのならガルと共に後方に下がれ。祈術ならケイドン殿も協力してくれる──」

 そのとき、二人の鼻先にぽつりと冷たい感触が落ちる。

 ふと顔を上向ければ、曇天から小雨が降り注いでいた。次第に勢いを強くする雨脚に、ロイスダールは厄介だと言わんばかりに目を眇める。

「……エメル、やはり暗くなるまで体を休めておけ。狂騒の宵が訪れれば、いやでもお前の力を借りなければいけなくなる」

 狂騒の宵。いつだったか、ルシアンに教えてもらったことがある。

 月光はおろか、星々の光さえも遮られる黒夜。魔物にとって最高の環境が整う時間、それが狂騒の宵だ。

 この分厚い雲が夜になっても晴れない限り、魔物の勢いは更に増すことだろう。ロイスダールの言葉に甘えて今は素直に下がるべきかと、エメーリエは控えめに頷いたのだった。


 ──王宮の北廊下に入るなり、ドサリと壁際に腰を下ろしたエメーリエは、忙しなく動き回る兵士の影を目で追う。

 時折、こちらの体調を気遣う声も掛けられたが、やはり彼女は適当な言葉を返して彼らを追い払った。

「……ガル?」

 キィ、と小さな鳴き声に肩を見遣れば、ガルが頭をすり寄せてくる。彼の少しばかり尖った顎を撫でつつ、エメーリエは気怠い睡魔に辛うじて抗っていた。

「ごめんね、何だか急に眠くなって……」

 視界に自分の手が映り、そこに滲む黒い泥を見詰める。

 やはり見間違いなどではなかった。アゼルスとティタを塔から救出した際、既に彼女の手は黒く汚れ始めていた。

(魔物の瘴気にてられたのかしら。それとも……)

 感情を切り捨てた次兄の心を目の当たりにして、怖気づいたせいなのか。

 エメーリエは未だ、自身にどのような感情が育っているのか分からない。心当たりとしては家族への不満と、周囲に自己エメーリエが認知されない虚しさ。

 もしも自分が魔物への変化を止められず、やむを得ず白金の果実を食すことにでもなってしまえば──家族と、この王宮での暮らしごと忘れるのだろうか。


「そんなもの忘れても良いだろうに」


 不意に聞こえた声に、顔を上げる。

 先程まで騒々しかった空間に、不思議な静寂が落ちる。兵士の姿も、足音も、風も、何も見えないし聞こえない。ただ冷たい王宮の内装だけが、薄闇の中に広がっている。

「いい子のエメーリエ。お前はいっつもそう。無視されても虐げられても歯向かわず、一人寂しく泣いている。無いものねだりをして、勝手に失望するのが好きなのね」

「……誰……」

「何故言わない、何故叫ばない。己の存在を知らしめよ。私欲のために神の威光を手に入れんとする愚か者に、裁きを下す力がお前にはあるのだから」

 誰かに頬を撫でられる。冷たい指先が耳へと這い、やがて両の聴覚を塞がれた。

「果実なんて必要ないわ。忌々しい記憶は、お前の手で自ら消してしまえばいい。二人の兄を壊したのは誰だ。大陸を混沌に陥れたのは誰だ。愛しい男の故郷を奪ったのは誰だ。──抗え、エメーリエ」

 輪郭を持ち始めた手のひらが、エメーリエの頬やこめかみに強く食い込む。虚ろな瞳で虚空を見詰めていたはずが、そこにはいつの間にか見覚えのある深緑の双眸が、こちらを睨みつけていた。


「──エメーリエ?」


 目の前には少しばかり息を切らした青年がいた。

 雨に濡れた髪から、ぽたぽたと水が滴り落ちる。その奥にある薄茶色の淡い瞳を静かに見詰めていると、次第に意識がはっきりとしてきた。何度かまばたきを繰り返せば、彼の肩に張り付いていたガルが鳴く。いつの間にそちらへ行ったのだろう。

「ガルが急に飛んで来たから、何かと思えば……熱でもあるのかい」

「え……」

 ずぶ濡れのルシアンを見上げ、エメーリエは咄嗟にかぶりを振る。

 一体どれだけの間ぼうっとしていたのだろう。上手く飛べないガルが外まで移動したほどだから、それなりに長い時間だったはずだ。

「ご、ごめんなさい。外、大変なのに」

「もう殆ど収まったから良いよ」

 ルシアンは自身の外套を脱ぐと、それをエメーリエの膝元に掛けた。訪れた温もりに、ざわめいていた胸がいくらか落ち着きを取り戻す。

 ほっと息をつく彼女の額に手を当てて、ルシアンは僅かに眉を顰めた。

「……エメーリエ、もしかして──」

「エメル第三王子殿下。こちらでしたか」

 二人が廊下の奥を見遣ると、そこに普通の兵士とは異なる服装の者たちがいた。徽章を見るに、ヴィラシア国王ゼーリッヒの近衛兵団だろう。

 彼らはエメーリエの正体を知っているせいか、傍にいるルシアンを鋭く一瞥しては剣に手を掛ける。その動きを片手で制した老齢の騎士はかぶりを振ると、エメーリエに向けて膝をついた。

「陛下がお呼びです。至急、謁見の間へお越しください」

「……今……でしょうか」

 ちらりと騒々しい外を見遣ると、エメーリエの心配を汲んだ騎士が静かに首肯する。

「我々の部隊を残していきますゆえ、どうかご心配なく」

 どう返答をしても、無理やり謁見の間に連れて行かれるのだろう。少しばかり苦い表情を浮かべたエメーリエは、億劫な動きでその場に立ち上がる。

「……エメル」彼女の手を引き、ルシアンが耳元に口を寄せた。「皇子に伝えたら、すぐ追いかける」

 名残惜しそうに離された手を見送り、ついで彼の瞳を仰ぐ。エメーリエは眉を下げて微笑み、小さく頷いたのだった。

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