第66話 条件

 全身から力が抜ける。ありとあらゆる関節が痺れ、地の上に立つことも許されず、エメーリエはその場にくずおれた。

 肩を抱いていた腕がずるりと滑り、数歩先に進んだルシアンが弾かれるようにして振り返る。

「エメーリエ!?」

 併せて宙に放り出されたガルが、キィキィと鳴きながら舞い戻ってきた。

 彼らの呼び声に応じたいのに、見開かれたままの瞳はおろか、指先すら満足に動かせない。青く染まった唇からは掠れた吐息が漏れるばかり。

 ──この異常な寒気は何なのか。

 エメーリエが自覚していない体の奥深くで、凍えた恐怖が自由を奪う。瞳の粘膜が渇いてゆくのを感じながら、それでも視線は逸らせない。

 真っ直ぐにこちらを見据える白い人影が、逸らすことを許さなかった。

(怒って……いる?)

 以前に見たときは何も感じなかったはず。否、その抑揚のない声と感情に違和感を覚えはしたが、ここまで明らかな怒りは──。

「人の子。何故逃げる。全てを知ったのではないのか」

 投げ掛けられた問いに、エメーリエは戸惑った。

 人影は深い溜息をつくと、緩慢な動きでこちらへ踏み出す。

「おぬしはラドキアで何を知り、何を決めた。よもや、まだ人に未練を残しているなどと言うまいな」

「……!」

 声に滲む失望と呆れ。微かに寄った眉間の皺。

 手にした白金の果実を差し出し、人影は静かに告げた。


「我らの元へ戻れ、薔薇姫。この穢れた大地に、おぬしを降り立たせるべきではなかったのだ」


 ──要らぬ感情を捨てた、真の神族。

 それが彼なのだと気付いた直後、エメーリエの体がぐいと抱き起される。脱力した彼女をそのまま腕の中に閉じ込めたのは、言うまでもなく。

「それを食べたら、神族は感情が捨てられるのかい」

「……ル、シアン」

 僅かに息を切らした彼の手には、いくつかの傷が走っている。ようやく自由が利くようになった目で辺りを見渡せば、ルシアンが斬り伏せたであろう無数の蔓が干からびた状態で散乱していた。

「エメーリエ、立てない?」

 神族を見据えたまま、ルシアンが密やかな声で尋ねる。

 ちらりと自身の両脚に意識を向けてみたが、まるでそこだけ他人の体のように感覚がない。これでは走るどころか立ち上がることすら儘ならないだろう。

 エメーリエが小さく謝りながら首を振れば、寄越された薄茶色の瞳がふと微笑む。ついで、倒れた拍子に擦り剝いた彼女の頬を撫でては、そのまま優しく抱き竦めた。

「……ラドキアで」

 そして彼は一呼吸置きつつ、静かに佇む神族へと言葉を掛ける。

「百年前に俺が攫ったのは妖精じゃなくて、神族の薔薇姫だと聞いた。……ラドキアに降りるはずだった赤子を、ヴィラシアに届ける手伝いをしてしまった」

 ルシアンの独白に、神族の眉根が更に寄った。辺りの空気は軋むほどに冷え込み、白い面から怒りと侮蔑が滲み出す。魔物を前にした時と似た、禍々しい気配が周囲に立ち込めた頃、ルシアンが更に言葉を続ける。

「あの国が全ての元凶で、俺たちがまんまと嵌められたことも承知の上だ。だから、一度だけ機会が欲しい」

「……機会だと? おぬしに何が出来る、死に損ないが」

「聖泉を復活させる。そのために、この森でオードの剣を清める方法が知りたい」

 彼が物怖じせずに言い切ると、不意に周囲の張り詰めた空気が弛む。

 神族は怪訝な表情でルシアンの顔を見詰めた後、にわかに笑い出した。無論それは愉快に思っての笑声ではなく、相変わらず人間への敵意を孕んだものだった。

「──そうか、その何をも恐れぬ生意気な態度。どこかで見たと思うておったが……おぬし、ホラントの倅か」

「!」

「教えてやろうか、愚かな子倅よ。オードの剣に加護を授けるのは我ら神族。中でも成人の儀を終えた者にしか行えぬ……つまり」

 美麗な笑みを浮かべた神族は、ほっそりとした指先で自身を指す。

「私の力なくして、聖泉の復活は有り得ぬ」

 オードの剣を清める。それすなわち、神族から直接加護を戴くこと。

 魔物となり得る感情たましいを全て切り離した神族は成人として認められ、それまで以上の神力を宿すようになると彼は言う。

 魂を込めた言葉を授け、生命の繁栄を祈り、大地を豊かにさせる力が。

「おぬしが剣の加護と、聖泉の復活を望むのなら──薔薇姫を神族の手に返せ」

 ひく、とルシアンの手が力んだ。

 彼のほんの僅かな動揺を見逃さずに、白い人影は畳みかけるように告げる。

「オードの剣、聖泉、西の楽園、ラドキア……我らが人間にどれほどの恵みを与えたと思っている? それでは飽き足らず神族の赤子を奪うとは……ここはとんだ愚か者の巣窟よ」

「……」

「そもそも薔薇姫を任せると決めたのは百年前のこと。もはや今のおぬしらに薔薇姫を預かる資格など無い」

「なら」

 半ば遮るようにして口を開いたルシアンは、ちらりとエメーリエを一瞥する。知らぬ間にその横顔を見詰めていた彼女は、視線が寄越されたことに少々驚きながらも、ひとつ瞬きをした。

「……なら、何故今までヴィラシアから薔薇姫を救ってやらなかったんだい? 機会はいくらでもあったはずだ」

「ああ、そうだ。あの咎人の家に薔薇姫が生まれるたびに、我らは何度だってあの子を連れ戻そうとした」

 語調を強めた人影は、悲愴な面持ちでエメーリエを睨む。

 赤い髪と深緑の瞳。それが薔薇姫の魂と器を受け継ぐ証だ。神族の者たちは彼女がこの世に生を受けるたびに、ヴィラシアから引き摺り出そうとしたが──。

「間に合わんのだよ、腹立たしいことに。奴らは西に残した神族の加護を用い、薔薇姫の居場所を巧みに隠す。……我らが見付けるのは決まって、魔物と化したあの子が樹海で苦しんでいる姿だ」

「っ……!」

「おぬしが攫った赤子も、感情を制御できずに魔物になって死んだ。ちょうど、その娘と同じ歳頃にな」

 十七歳の誕生日──それが、百年前の薔薇姫が亡くなった日。

 エメーリエと同じように城に閉じ込められていた当時の薔薇姫は、心を病んで魔物になってしまったのだ。そうなる前に何とか子を産ませたヴィラシア王家は、やがて手に負えなくなった魔物を殺し、樹海に捨てた。

 自分もいつかそうなるのだろうかと、エメーリエの吐く息が自然と震える。否、家族はそうするつもりなのだろう。知らない男と結婚させて、子どもを産ませて、魔物になってしまえば用済み。


(──私を蔑ろにしたのは、に情が移らないように?)


 信じたくない、だが現実味のある結論に至ったエメーリエは、またひとつ心が冷たくなるのを感じた。

「分かるか、ラドキアの騎士よ。その娘さえ我らの元へ戻ってくれば、二度と同じ結末は訪れない。要らぬ感情を捨てよ、薔薇姫。人にも魔にも脅かされることのない真の神族となり、我らの元へ──」

「なるほどね。じゃあどうする? エメーリエ」

 不意にルシアンが大きめの声を発した。

 体の自由が利かないせいか、微動だにせず話を聞いていたエメーリエは我に返る。と同時に頬をむにっと片手で挟まれてしまい、慌てて視線を持ち上げた。

「エメーリエを渡したら剣に加護をくれてやる、って言いたいんだろうけど。……俺が決めることじゃないから、聞いても良いかい」

 神族の元へ帰れば、オードの剣に加護が授けられる。恐らくはそのまま聖泉の復活も望めるだろう。

 しかし──。

『どうか捨てないであげて』

 エメーリエは小さく息を吸い込むと、ぼんやりとした意識を引っ張り戻すべく唇を噛み締めたのだった。


「私は、何も……捨てたくありません」


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