第四章
第46話 童心
ラドキアの台地を拝める湖畔に陣営を敷き、エメーリエたちはそこで一夜を明かすことになった。
明日の早朝に少人数で台地の内部へ進入することが決まり、各自それまで体を休めるようロイスダールは指示を下したのだった。
その後、天幕の一つを借りたエメーリエは、綺麗な毛布に包んだ魔物──否、竜の子どもを腕に抱いていた。
魔物の襲撃を凌いだ後、急いで石橋へ戻ったエメーリエがマントを持ち上げると、そこで小さな銀鱗の竜が穏やかな寝息を立てていたのだ。体から泥はすっかり剥がれ落ち、あの禍々しい目玉も見当たらない。
これなら魔鎧も機能しないだろうと、エメーリエは竜をひょいと抱え上げ、夕飯を食べることも忘れて様子を見ていたのだが。
「──ルシアン、どうしましょうっ」
「何が?」
「あ、あの」
わなわなと震えているエメーリエを、ルシアンはちらりと一瞥しては苦笑を滲ませる。しかし彼女を助けるわけでもなく、素知らぬ顔で剣の手入れを再開してしまう。
エメーリエの膝の上では、先程目覚めた竜がごろごろと喉を鳴らし、上機嫌な様子で彼女の腹に擦り寄っていた。
それはもう、お前は猫かと言いたくなるほどの懐き具合である。
「か、可愛いです!」
「良かったじゃん」
わっと泣きそうな声で訴えれば、ルシアンが肩を揺らして笑った。
橋の上でひたすら話しかけたおかげなのか、竜の子どもは目覚めるや否や、エメーリエの顔を確認してはキィキィと鳴き、それ以降ずっとこの状態だ。
「こ、こんな、これが魔物なんて嘘ですよっ、それとも人間に懐く魔物もたまにいるんですか!?」
「さあ……そもそも魔物に話しかける人とか誰もいなかったしね」
それはエメーリエが変人だと言いたいのだろうか。
ルシアンは剣の手入れを終えると、緩慢な動きで傍までやって来た。少しだけ警戒を露わにした竜を見詰め、おもむろにその右目を指差す。
「潰れてるね。こっちの目」
「えっ」
彼の指摘に慌てて竜を持ち上げてみると、右目の瞼が内側に食い込むようにして閉じていた。ついでに左側も確認してみたが、そこには深い藍色の瞳がしっかりと嵌まっている。
「あの泥に覆われると、体が腐ってしまうのでしょうか……? この子の親も、翼や目が潰れてましたよね」
エメーリエが労わるように背中を撫でれば、竜は心配されていることなど気付きもしないで、そのまま再び眠りに落ちてしまった。
親に対してこれだけ体が小さいのだから、やはりまだ赤ん坊なのだろうか。エメーリエがそっと毛布に包んでやると、ちょうど天幕の仕切りが外から開かれた。
「──エメル、入るぞ」
現れたのはロイスダールとジェロム、それからミネルバの三人だった。やはりこの三人が揃うと安心できる上に、自然と兵たちの士気も上がる。勿論ミネルバだけでもその統率力は素晴らしかったので、相乗効果というやつだ。
「ロイ、すみません。ろくに挨拶も出来ないまま……」
「構わん。それが竜の子どもか」
「はい。あの、ありがとうございました。手間を掛けさせてしまって」
ロイスダールは帝都に戻った際、帝国騎士団に命じて子どもの行方を捜してくれたそうだ。よもやそこまで大規模な人員を割いてくれるとは思わず、エメーリエは丁寧に礼を述べたのだが。
当のロイスダールは何とも思っていないのか、彼女の前に屈んでは眠っている竜をじっと凝視する。
「……ロイ?」
「あー……エメル様、お気になさらず。殿下はちょっと少年の心に戻ってしまっているだけです」
ジェロムが生温い笑みで告げると、隣でミネルバも苦笑いを浮かべて頷く。どういう意味かと皇子に視線を戻せば、確かに浅葱色の瞳がいつもより爛々と煌めいているような。
「……竜、お好きなんですか?」
「ああ、昔読んだ英雄譚によく出てきた。翼があるが飛べるのか」
「ええと、もしかしたら飛べるかもしれませんね」
エメーリエの答えに、ロイスダールは何とも期待に満ちた様子で顔を上げる。本当に童心に帰っているなと、つい笑ってしまいそうになった。
「起きたらロイにもお知らせしますね」
「そうか、ありがたい。餌は肉が良いのか、それとも木の実か。取って来るぞ」
「待て待て待て、皇子の威厳をかなぐり捨てるな。餌はフレイに頼めばいいだろ、今は本題に入れ」
ミネルバが慌てて皇子の襟首を掴めば、ロイスダールは少々残念そうに唇を引き結ぶ。それから渋々と居住まいを正せば、あっという間に少年から皇子の顔へと早変わりである。
この見事な切り替えについては見習わねば、とエメーリエも姿勢を正したかったのだが、如何せん膝の上に竜がいるために叶わず。彼女がちょっとだけ背筋を伸ばしたところで、本題を思い出したであろうロイスダールが口を開いた。
「フィリップ公子に妖精が入り込んだと聞いた。私に取り憑いたものと同じだったのか?」
「いいえ、それとは別の、僕を城から攫った妖精でした。何か個人的な用があるみたいなんですが……詳しいことは何も」
「ふむ」
件の妖精がエメーリエの体を乗っ取り、再びヴィラシア王国へ入りたがっていることも添えれば、ジェロムとミネルバが不気味そうに顔を顰める。
「ええ……それをエメル様に直談判しに来たんですか? そりゃまた図々しい」
「しかしフィリップの体が持たなくなり、さっさと逃亡したと。はあ……つくづく気味が悪い」
二人の言葉に頷く傍ら、ロイスダールはふと、エメーリエの傍であぐらをかいているルシアンに視線を移した。
「ルシアン殿、妖精は獣に乗り移ることが多いのだったか」
「ん、そうだね。手頃な死骸を探して皮を被るんだよ」
「ということは、意識がある者は上手く操れない可能性もあるな。だからエメルの許可を得ようとしたのかもしれん」
「ああ、それは確かに一理──」
皇子の推測に頷きかけ、ルシアンは「ん?」と首を傾げる。
「……じゃあこの前、皇子は気絶でもしてたのかい?」
「最近、たまに意識が飛ぶからな」
「あー激務ですもんね殿下。いやいやちょっと待ってくださいよ、本当ですかそれ!! 何で言わないんです!?」
適当な相槌を打つや否や、ぎょっとしたジェロムが必死な形相で皇子の肩を揺らす。しかしこれにはエメーリエも焦りを覚え、彼に続いて皇子を問いただした。
「ロイ、意識が飛ぶって……相当な疲労が溜まっているのでは」
「だとしても悠長に寝る時間もなくてな。ふと思い立って馬に乗りながら寝たら、それ以降の記憶もなくなった」
「ロイ……」
何とも皇子らしい返答に、エメーリエとミネルバが同時に額を押さえる。さすがのルシアンも苦笑を禁じ得ず、頬杖を突く姿勢で口元を隠していた。
「まあ、それなら今後は休んだ方が良いかもね。精神的に弱ってる奴ほど乗っ取りやすいのは確かだろうし」
「ルシアン殿の言う通りですよ殿下! 殿下はすぐ一人で仕事集めて懐に溜め込む癖がありますからね!」
「人を
未だにジェロムから揺さぶられたまま、ロイスダールは不本意そうにしながらも頷く。
魔物の襲撃以前から、皇子が寝る間も惜しんで公務に励んでいたことはエメーリエの耳にも届いていた。地方の警備は勿論、食糧の提供や防壁の建築など、とにかくやることが山積みだったのだろう。
しかしそんな過労状態で旅を続ければ、妖精が入り込むための器としては格好の餌だ。ジェロムから口を酸っぱくして、睡眠を増やすよう強く言われた皇子だったが。
「──で、エメル。竜は何と呼ぶんだ。候補が無いなら考えるぞ」
「ロイ、呼び名は僕が頑張って考えておきますから、今日は寝てください!」
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