第29話 交渉

 窓から広がる快晴の空を仰ぎ、昨日とは打って変わって清々しい朝を堪能したエメーリエは、姿見で再び自分の格好を確認した。ヘアピンでしっかりと鬘を固定し、身なりも適当に整えておく。

 昨夜、結局ロイスダールとケイドンと話す時間はなく、ミネルバやジェロムとも顔を合わせる機会がなかった。いずれも各軍の指示や被害状況の確認で忙しかったのだろう。

「……とにかく今日は正念場よ、エメーリエ」

 鏡に映る自分へ言い聞かせ、頬を叩く。

 長兄とは少々気まずい雰囲気が拭えないままだが、帰国を延ばして欲しい旨は必ず伝えなければいけない。昨日のように気圧されて黙り込んでしまったら、強制的にヴィラシアへの帰国が決定されるのは目に見えていた。


「──エメル様、おはようございます。いらっしゃいますか?」

「え、あ、はい!」

 不意に客間の方から声が掛けられ、エメーリエは肩を跳ねさせる。慌てて寝室から出ると、ちょうど扉を開けたジェロムがにこりと笑った。

「いやー、今朝も麗しい! 雨雲が晴れたのはエメル様の美しさのおかげですかね!」

「あ、ありがとうございます……?」

 この男、本当はこちらの男装を見抜いているのではないだろうかと、内心びくつきながらも礼を述べる。

 とは言え、顔見知りであるジェロムが迎えに来てくれて安心したのも確かだ。エメーリエは挨拶もそこそこに彼の用件を尋ねてみる。

「殿下がエメル様を呼んでいますので、お迎えに上がった次第ですよ」

「そうですか、分かりました。あの、ジェロム殿……ケイドン兄様は大丈夫でしたか? ロイや帝国兵の方々に、何かご迷惑をお掛けしたとか」

「いえいえ、しかしそのぉ……」

 ジェロムは否定するように両手を振りつつ、ちらりと廊下に誰もいないことを確認する。そうしてこっそりと耳打ちをする体で背を屈めた。

「……大変失礼ながら、ケイドン殿下は持病などはお持ちで?」

「え?」

「昨夜遅くに、ケイドン殿下のお部屋から物凄い音が聞こえてきたんです。何かあったのかと王国の方々に尋ねても、知らん顔されてしまいましてね」

 持病──恐らくジェロムが言いたいのは、ケイドンは癇癪を起こしやすいのか、ということだろう。

 長兄の部屋からは家具が倒れる音や、たまに呻き声のようなものまで聞こえてきたという。正直エメーリエには信じがたい話だが、皇子であるロイスダールに仕えているジェロムが、他国の王族を侮辱するような嘘をつくとも思えない。

 確かに昨日のケイドンは恐ろしかったが、あれは危険な行動をしたエメーリエに対して怒っていたのだろうと──。

「僕は聞いたことありません。アゼルス兄様なら何か知っているかもしれませんが……」

「そうですか……すみませんね、侯爵邸の女の子が怖がってたもんで! さ、殿下の元へ参りましょうか」

 まさか昨夜はその女の子を宥めるのに忙しかったのだろうか。行軍中と比べて妙に元気なジェロムに苦笑いを浮かべつつ、エメーリエは部屋を後にしたのだった。


 □□□


 ケイドン=ニルバナスの要求は簡潔だった。

 弟の第三王子エメルを速やかに帰国させ、そして彼の傍にいる不審な男をジュダ帝国で預かりを下せとのこと。

 予想通りというか直球が過ぎるというか、相変わらずな態度にちょっとした安心すら覚えてしまったロイスダールは、向かいのソファに憮然と腰掛けている王子を一瞥した。

「……まあ、貴殿の溺愛ぶりを思えば至極当然のことなのだろうが。ケイドン殿、エメル殿の意見は聞かずともよろしいのか?」

「ロイスダール殿。エメルは体が弱い。外の瘴気に長いこと晒すわけにはいかないんだよ」

「そうだろうか? それなりに気を遣って様子は見ていたが、病弱な印象は受けなかったぞ」

 なぁ、と傍に控えていた騎士に話を振ってみたが、同時にケイドンの視線を浴びることになったせいか、彼は完全に委縮して固まってしまった。ジェロムなら肯定していただろうが、仕方ないかと皇子は再び前に向き直る。

「それと、ルシアン殿の処分は無理だ。彼は……エメル殿の恩人でな」

 そもそも不死身の彼をどう処分するのかという話だが、それは黙っておいた方がいいだろう。ルシアンが妖精の呪いを受けている、などと口を滑らせれば、ケイドンは益々エメルの近くには置きたくなくなるだろうから。

「エメル殿が魔物の巣穴に落ちたところを救ったのが彼だそうだ。そのせいか彼のことをいたく気に入って」

「で、殿下」

 騎士から耳打ちをされて前を見れば、ケイドンの目が据わっている。よほどルシアンのことが嫌いなのだろうと悟り、ロイスダールはとりあえず話を中断して紅茶を啜った。

「……ともかくエメル殿とルシアン殿のおかげで、あの巨大な魔物が足を止めたのは事実。帝都を救った英雄に十分な礼もせず、さっさと国に帰せば非難囂々だ」

「つまり帰国はさせないと言うのか?」

「私の個人的な意見としてはな。あくまでもエメル殿の意思を尊重しよう」

 昨日この兄弟が再会した場面は、ミネルバやジェロムの目には酷く緊迫した様子に見えたそうな。生憎とそういう空気には疎いため、ロイスダールは彼らの話を聞いて初めて気付いたくらいだが。

(しかしエメルのこととなると、周りが見えなくなるのは確かだな)

 さてどうなるかと、皇子がひとまずエメルの到着を待とうとしたとき、ケイドンが大きく溜息をついた。

「……エメルは連れて帰る。例え君がジュダの皇子であろうと、我が国のに首を突っ込むな」

「事情……?」

「魔物を退けた礼など不要だ。失礼する」

 引き留める間もなく、ケイドンはソファから腰を上げてしまう。帝国兵が動揺を露わにする一方、やはりヴィラシア王国の兵士は顔色一つ変えずに王子の後へ続いた。

 ──しかし、近衛が扉に手を掛けた瞬間、それは廊下側からおもむろに開かれる。

 兄王子よりも頭一つ分は小さな人影。恐らく今の話を聞いていたであろう彼は、大いに怯みながらも口を切った。

「ケイドン兄様」

「……やあ、エメル。おはよう」

 ゆったりとした朝の挨拶に、体の横に揃えたエメルの手が震えていた。彼の傍にいるジェロムも珍しく頬を引き攣らせていることから、相当な威圧を感じているのだろう。

「兄様、僕……」

「さて、帰ろうか。帝国にいたら、再び魔物に襲われるかもしれないからね」

「兄様っ、お待ちください。僕はまだ帰るつもりはありません」

 またケイドンの眼差しが険しくなったのか、エメルとジェロムがじりじりと半歩下がるのが見えた。しかし引き下がるつもりはないらしく、エメルはなおも気丈に言い募る。

「帝国は本当の意味で救われたわけではありません。僕たちが放置し続けたせいで、この大陸は魔物だらけで……いい加減、この事態への対策を考えるべきです! だから、まだ──」

「聞き分けがないな、エメル。これも外に出てしまったからかな」

「っ……」

 そこで強気な態度が崩れ、転じて彼の深緑の瞳が不安に揺れた。

 そろそろ加勢してやるべきかと、ロイスダールは重苦しい沈黙の中で思考を巡らせる。

「……エメル殿が帰りたくないのなら、我々が責任を持って預かろう」

「ロイスダール、口を挟むな」

「そうは言っても貴殿があまりにも過保護、いや厳しいからな。口も挟みたくなる。──こういうのはどうだ、ケイドン殿」

 ロイスダールは深く腰掛けながら、薄ら笑いを浮かべてケイドンを睨み返して見せた。


「百年もの間、我ら下民を見捨ててきたヴィラシア王国に、ぜひとも納得のいく説明をしていただきたい。それが出来ぬのなら、エメル殿をここに残していけ」

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