第3話 見舞う恐怖

 ──痛い。苦しい。

 何だろう、この痛みは。転んで膝を擦り剥いた、なんていう程度の話ではない。どこか高い場所から、思い切り体を地面に叩き付けられたような。

 手足が動かない。息が、しづらい。

「あ、ぐ……っ」

 辛うじて瞼を押し開くと同時に、全身を覆う痛みが更なる輪郭を持って襲いかかった。思わず呻き声を漏らしつつ、錆びついた動きで体を仰向ける。

 か細い呼吸を繰り返し、射し込んだ光に目が眩んだ。白と黒で構成された樹冠の天井。肌に纏わり付く湿気。絶え間なく聞こえてくる野鳥のざわめき。

(外……?)

 暫しの間、エメーリエはそこから動くことが出来なかった。痛みは勿論のこと、それ以上の混乱が彼女の思考を止めていた。

(……私、何故……に……)

 記憶違いでなければ、ここはヴィラシア王国周辺を囲む樹海だ。王国を魔物の手から守ってくれる巨大な防壁とも言われている。ヴィラシア王家の祖である神族が、この樹海に加護を与えたとケイドンは言っていたが──。

(違う、そんなことは今はどうでも良くて)

 エメーリエはこの樹海のことを、全くと言って良いほど知らない。幼い頃に一度だけ訪れたきり、樹海に足を踏み入れる機会はなかった。つまり無事にヴィラシア王国内へ戻れる自信も保証もないのだ。

 己の置かれた状況を自覚すると、急激に不安が湧いてくる。

 痛みを堪えて上体を起こし、くらりと傾いた額を手で支えた。恐る恐る手のひらを確認してみたが、幸い血は出ていないようだ。

 エメーリエは衣服に付着した土を払いつつ、腰にある剣をベルトから外す。それを杖にしてゆっくりと立ち上がる途中、ふと足元に意識が引っ張られた。

「……?」

 そこには枝葉が不自然に散っており、エメーリエがそれらを下敷きにして倒れていたことが分かる。次いで先程からヒリヒリと痛む頬を探ってみると、皮膚が薄く切れていた。

「私、もしかして……本当に落ちてきたの……?」

 ちらり、先程まで眺めていた樹冠を再び見上げる。いくつか枝先が折れているような気がしないでもないが、「まさか」とエメーリエは苦笑混じりにかぶりを振った。

(大きな鳥にでも攫われたっていうの? さすがに無理が)

 そのとき、自分のものではない足音を聞き捉え、エメーリエは弾かれるように後ろを振り返る。

「誰だ……──!!」

 剣を引き抜いたところで、彼女はハッと息を呑んだ。

 そこにいたのは、城で出会ったあの不審な男だったのだ。彼はエメーリエと同様、枝葉を纏わりつかせた状態でのそのそとこちらへ歩み寄ってくる。

「と、止まれ! 僕をここまで連れて来たのはお前か!? 何が目的──」

「エメル様、どうかお話を聞いていただけませんか」

「はあ!?」

 この期に及んでまだ「話を聞いてくれ」などと宣うつもりだろうかと、エメーリエは思わず顎を落とした。

 どう考えても、エメーリエを樹海に攫ったのはこの男なのだ。気を失う前に言葉を交わしたのは彼しかいないし、況して怪しい人物なんて彼しか思い浮かばないのだから。

 しかし、そう断言するには少々引っかかる箇所があるのも事実で。

 エメーリエは逡巡を経て、剣を構えたまま問いを口にした。

「あなた──お前はジュダ帝国から来た先触れの騎士ではないのか? ロイスダール殿下の来訪を知らせに……」

 そう、この男が身に纏っているのはジュダ帝国の鎧だ。背中に靡くマントにも──枝に引っ掛けたのかズタズタだが──しっかりとジュダの紋章が刺繍されている。

 何故ジュダ帝国の者が「エメル王子」を攫うのか。その目的が全く分からない上に、どうやって気絶したエメーリエを担いで城から脱出したのかも謎である。

 とにかく、この男から早急に離れた方がいい。まだ息は苦しいし体も痛いままだが、走って逃げるくらいなら……出来るはずだ。そのためにもまずは、時間を稼ぎながら逃げ道を確保しなければ。

「……エメル様、どうかお話を」

「それしか言えないのか? 僕を攫った理由を明かせ、さもなくば」

 斬り伏せる──そう告げようとして、エメーリエは背筋が凍った。

 彼女は人を斬ったことなどない。それどころか野を駆ける獣ですら。こんな腰の引けた脅し、すぐにハッタリだとバレてしまう気がした。

 だがそれでも、ここは城の外なのだ。誰もエメーリエを守ってはくれない。

『己の身は己にしか守れませぬぞ、エメーリエ様』

 師であるドレイク将軍の言葉を胸中で反芻し、もう一度改めて警告をしようとしたのだが。

「エメル様、……エメル様、エメル様エメル様」

 突如として、男が壊れたようにエメーリエを呼び始めた。甲冑の奥でぐるぐると回る眼球は、まるでこちらを認識できていない。次第に呼吸が乱れたかと思えば、こぽりと泡立つ音がそこに混じった。

 次の瞬間。

「ひ……っ!?」

 男の口から大量の血が噴き出し、周囲の茂みや土を黒く汚す。ぐしゃりとその場に崩れ落ちた男を、エメーリエは真っ青な顔で見詰めることしか出来なかった。

「な……なに……何が起きて……」

 意図せず足が震え、剣先も情けないほど小刻みに揺れる。辛うじて柄を握っているような状態で、エメーリエはどくどくと暴れ回る心臓を押さえつけた。

 しかし恐怖に全身を支配されながらも、彼女は即座にこの場から離れなければいけないことだけは分かっていた。

(魔物が……魔物が来てしまう)

 人間の血は、他の動物と違って非常に魔物から好まれると聞く。こんなにも派手にぶちまけてしまえば、例え樹海の中であっても嗅ぎ付ける可能性が高い。

 エメーリエは震える足に鞭打ち、急いで踵を返した。もはやどちらの方角がヴィラシア王国への帰路に繋がるのかなど、考える余裕はなかった。

「ケイドン兄様、アゼルス兄様……っ」

 何故こんなことになったのだろう。いつもと変わらぬ朝だったはずが、気付けば城外どころか国外にまで放り出され、不気味な男の死を見届け逃げ惑う。一体どこへ走れば良いのか、それすらも分からずに。

「人の子、人の子」

「何故ここに?」

「魔物の餌にされてしまうよ」

「早くお逃げよ」

 混乱を極めたがゆえの幻聴にしては、随分とはっきり聞こえる。虫のさざめきか、はたまた木々の囁きか。くすくすと耳元で笑われたような気がしたエメーリエは、鳴り止まぬ動悸に促されるまま振り返った。

「──あっ」

 だがその拍子に爪先が引っ掛かり、体が勢いよく前傾する。来たる衝撃に備え目を瞑ると、瞼の黒色よりも更に暗い闇が彼女を覆う。

「きゃあああ!?」

 エメーリエは全身を打ち付けながら、予想だにしなかった深い穴を、下へ下へと転がり落ちたのだった。

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