第2話 隠された王女

 ヴィラシア王国の王女エメーリエは、その日もいつも通りの朝を迎えた。

 長く艶やかな赤髪をきつく編み込み、決して人の目に触れぬよう銀髪のかつらを被る。襟足を短く切り揃えたそれを頭にしっかりとピンで固定すれば、鏡の中に小柄な少女──否、少年が完成した。

 真っ白な頬や深緑の瞳を隠すように前髪を散らしつつ、エメーリエは華やかなドレスではなく濃紺の騎士服に袖を通す。あらかじめ綿布さらしで胸部を平らにしたおかげで、体の線はさほど目立たない。

様、おはようございます。朝食の準備が整いました」

「分かった、ありがとう」

 部屋の外から掛けられた侍女の声に返事をして、エメーリエは小さくため息をつく。じっと鏡を見詰めた後、やがて気合を入れるように頬を軽く叩き、愛用の剣を腰に挿した。


 ──エメーリエが「第三王子エメル」として、男装をして過ごすようになったのは、わずか三歳の頃からだった。

 物心ついたときには既にドレスは部屋から消え失せ、部屋の内装も随分と質素なものになっていた。美しい母、正妃エルレインのきらびやかな私室とは大違いである。

 そもそもエメーリエは髪が生え始めた頃から、王家の色とされる銀髪の鬘を被せられていた。彼女の葡萄酒を染み込ませたような赤髪は、絶対に人目に触れさせてはならないと強く言い含められたから。

「やぁエメル、おはよう!」

「わっ」

 廊下の角を曲がった瞬間、正面から勢いよく抱き締められる。塞がれた視界に慌てたのも束の間のこと、すぐにそれが誰なのか悟ったエメーリエは、眼前にある広い胸板を押しつつ半目で彼を見上げた。

「……ケイドン兄様、びっくりするのでやめてください」

「すまないね、この角を曲がれば愛しい弟が現れると予期したものだから」

 どうやら兄──ケイドンには恐ろしい感知機能が備わっているらしい、などとどうでもよいことを考えながら、エメーリエはぐいぐいと両手を伸ばして距離を開ける。

 そんな仲睦まじい兄弟の姿を、侍女や兵士が微笑ましく見守る中、ケイドンの後ろから大柄な騎士──次男のアゼルスがやって来た。

「ケイドン、そんなことしてると更に嫌われるぜ。なぁエメル」

「アゼルス兄様……おはようございます」

 口調や仕草から粗暴に見えなくもないが、彼も王家特有の銀髪と碧眼を持つれっきとしたヴィラシア王子だ。

 妹への溺愛が少々過ぎる長男のケイドンを、アゼルスは呆れた様子で一瞥しては視線をこちらに寄越す。

「エメル、今日はジュダ帝国の皇子が来るぞ」

「あ……ロイスダール殿下が? 随分、急では……」

「ああ。先触れが来たのも今朝早くだったからな。ケイドンは何も聞いてねぇのか?」

 ヴィラシア王国から東、樹海を挟んだ先にあるのがジュダ帝国だ。そこの皇子であるロイスダールとは、一応だがエメーリエも面識がある。彼と言葉を交わすのはもっぱら二人の兄だったので、特別親しいというわけでもないのだが。

「私も詳しくは聞けていないよ。ただ……」

「ただ?」

 それまで緩んでいた目許が引き締まり、ケイドンは些か鋭い眼差しで窓の外を見遣った。

「先触れの騎士が負傷していてな。外の魔物に襲われたのやもしれん」

「!」

「ジュダの武力をもってしても、やはり魔物は抑えきれなかったかな」

 ケイドンの言葉に、エメーリエは密かに息を呑む。

 話にしか聞いたことはないが、国外には恐ろしい異形の魔物が跋扈ばっこしているという。それは何もつい最近現れたというわけではなく、彼らは太古の時代から人間を脅かしてきた存在だ。

 ヴィラシア王国には魔物を寄せ付けない不思議な樹海があるのだが、ジュダ帝国にはそれが無い。ゆえに、かの国は圧倒的な軍事力を利用して魔物に対抗し、今日まで国民を守り続けている。

 だからこそ皇子の急な訪問は、様々な憶測と不安を呼ぶものだった。

「……ああ! エメル、すまない。君を怖がらせてしまった」

「えっ? いえ、そんな」

「安心すると良い。ヴィラシアは神族の加護を賜った国。例えジュダが荒らされても……わが国には魔物など入っては来れないさ」

 慈しむ手は優しく、エメーリエの顎を摩る。碧色の瞳に射抜かれた彼女は、半ば気圧されるようにして頷きながら、堪らず後ろへ下がった。

 ──実の兄ながら、この目は苦手なのだ。

 柔和な笑みの奥に潜む、暗い光。幼い頃から王太子になるべくして育てられた長男は、立太子を阻もうとする勢力から何度か刺客を差し向けられたことがあると聞く。恐らくはそのせいで……。

(……昔はもう少し、含みのない笑顔だったと思うのだけど)

 エメーリエが無意識のうちにアゼルスの方へ身を寄せるのを、ケイドンはやはり慈愛に満ちた笑顔で見つめるばかりだった。


 ▽▽▽


 朝食をとった後、エメーリエは散歩がてら城の二階にある歩廊へやって来た。

 名目上は第三王子とされているものの、彼女に城の仕事が回されることは滅多にない。それこそ男装を知る側近の侍女は、趣味としてピアノや刺繍を勧めてくる。

 正直、そんな彼らの態度には呆れてしまう。男装を強制するぐらいなら、扱いもそれ相応にして欲しかったものだとエメーリエは肩を竦めた。

(おかげで剣の稽古しかやることがないのよね)

 剣術を学ぶことに抵抗はなかった。寧ろ、この窮屈な生活における唯一の気晴らしになるので、わりかし好きな方かもしれない。

「……」

 ふと、腰に挿した細剣を見遣る。

 これは昔、エメーリエに剣を教えてくれた老将軍が贈ってくれたものだ。

『儂は剣を教えるにあたって、あなたのことを姫だ王子だと扱う気はありませぬ。……ご自身の足で強く生きられよ、エメーリエ様』

 師──ドレイク将軍は一年前、急な病でこの世を去ってしまった。彼が亡くなってから、エメーリエはまた一つ城での暮らしに息苦しさを覚えるようになった。

 もはやこの城には、「ただのエメーリエ」として自分を見てくれる人間はいない。王女でもなければ本当の王子でもない、中途半端な存在としてしか──……。

「……でも、それももう少しの辛抱ね」

 鬱屈とした気分を振り払い、俯いていた顔を上げる。

 エメーリエは来月、十七歳を迎える。ケイドンは彼女の十七回目の誕生日に、男装を強制した理由を教えると約束してくれた。無論、もう男装をしなくてもいいなんてことは言われていないが、理由が明かされるだけでもマシだろう。

 何せ、今まで訳もわからず正体を偽ってきたのだ。エメーリエだって、本当は貴族の令嬢みたく着飾ってみたい気持ちがある。幼い頃は特に周りを羨み、嫉妬したり不貞腐れたりしたこともあった。

 そんな日々の鬱憤が来月、ようやく少し晴れるわけだ。


「──エメル様でいらっしゃいますか?」


「え?」

 爽やかな風と共に大きく息を吸い込めば、不意に声を掛けられる。胸壁から城下町を見下ろしていたエメーリエは、首を捻りつつ後方を振り返った。

「……はい、そうですが……あなたは?」

 そこにぽつんと立っていたのは、見知らぬ男だった。戸惑いを露わに視線を巡らせるが、一緒に来ていたはずの侍女の姿が見当たらない。

 一体どこへ、とエメーリエの中で焦りが膨らめば、その男が静かにこちらへ踏み出す。

「エメル様、どうかお話を聞いていただけませんか」

「ぼ、僕に? 申し訳ありませんが、然るべき手続きが無ければ応じられないのです」

 こっそりと剣に手を掛けながら後退り、屋内に続く扉へ向かう。最中、エメーリエは男が身に纏っている衣服を確認し、不可解な面持ちになる。

(……この鎧、どこかで見覚えが──)

 そう思って目を眇めた直後、彼女の意識はぶつりと途絶えてしまった。

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