薔薇と骸

みなべ ゆうり

本編

第一章

第1話 黒夜の逃亡

 虫の声ひとつ聞こえない大樹の洞窟。しんと静まり返った闇の中を、二つの影が素早く、されど慎重に走り抜けた。

「──まだ来てるか?」

 入り乱れた木の根は太く、根を張った大地を枯らしてしまうほど逞しい。さらさらとした塵にも似た土とは裏腹に、立ち連ねた大樹からは妙に瑞々しい若葉がぽつぽつと芽吹く。

 それらを踏み荒らすことも厭わずに、二人は予め用意していた目印を頼りに帰途を急いでいた。

「当然。君も自分の娘が攫われたら怒り狂うに決まってるでしょ」

「生憎と妻子はいない」

「だとさ」

 渋い声の男は相も変わらず無愛想だった。対する若い男は腕の中にいる小さな赤子を見遣り、大袈裟に肩を竦めてみせる。かく言う若者も妻子はいなかったが、生まれて間もなく誘拐される赤子など不憫に思えてならない。

 何がどうして、このような危険な任務を請け負うことになったのか。今さら嘆いても後の祭り、今は全力でこの森を抜けなければ。

「最後の印だ。急ぐぞ」

「ああ……いや待った、今何か……」

 視界の端で何かがきらりと光った気がした。若者の意識がそちらに注がれたのと、腕に抱いた赤子がぐずり出したのはほぼ同時だった。ふぇ、と泣き喚く兆候を察した若者は、慌てて赤子を外套の内側に隠そうとしたのだが。

 背後に確かな気配が現れる。首筋に刃を押し当てられた時のような、重く冷たい殺気の塊が、そこにあった。

「い……っ」

 咄嗟に背を屈めたが、既に背中には大きな傷が走っているようだった。先導する男の忌々しげな舌打ちと共に、若者はぐるりと体の向きを旋回させて倒れ込んだ。背中をしたたかに打ち付ければ、焼けるような痛みが全身を突き抜け、意図せず呻き声が漏れる。

「ったた……無事かい」

 若者は苦悶を浮かべつつも、すぐに赤子の様子を確認した。辛うじて下敷きにはせずに済んだが、転倒の衝撃に驚いた赤子は大きな声で泣き喚く。こういうときはどうしたら良いのかなど、若者には見当もつかない。

 そもそも呑気に赤子をあやしている暇もないし──仰向けになった若者の視界には、黒い霧のようなぼんやりとした輪郭がいくつも佇み、こちらを覗き込んでいる。

 その赤子を返せと、無言の圧力をかけてくる。

「──悪く思うなよ、ルシアン」

 渋い声が聞こえた直後、視界が一瞬にして白く染まった。両手が塞がっている若者は、突然の閃光に目を瞑る他ない。

 しかしそのとき、体の上から小さな重みが消え失せる。若者はその時点で己の運命を悟り、瞼の裏で相棒の背を見送った。


「君を呪ってしまうかもね、クロヴィス」


 苦笑交じりに恨み言を呟き、瞳を開く。

 そこには怒りの形相で若者に圧し掛かり、耳を劈くような絶叫を上げる「妖精」の姿があった。

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