転生【獣化③】


「また出たんだってよ。誘拐魔」





「え~、今度はどこよ」





「金糸町のさ、私立学校の生徒らしいんだけど。また一人消えたんだって」





「この近くじゃん。シャレになんねぇな、それ」





「だよねぇ、私のママも心配してさ。早く帰ってこいってうるさいんだ。部活だってまともに出来ないよ、これじゃあ。大会近いってのに」





「気持ち悪いよな。変態の仕業だろ、どうせ。そんな奴、私の竹刀でボコボコにしてやるのによ。殺しても正当防衛だろ」





「ハハ、やりすぎ。……あっ」



 



一限のチャイムの音が、学校中に鳴り響く。すると生徒の声も次第に萎んでいき、担任が教室に入る頃には、皆自分達の席についていた。



進学校特有の緊張を帯びた空気が辺りに漂い始める。教室内の温度が一度下がった。



教師は、素早く生徒の出席確認をとると教科書を開き、授業を開始した。





「三角形の重心の座標については、前回話したよね。四九ページ、問二。復習はしたかな? えっと……座標は、外心と一致するわけだから、この三角形は正三角形だということが分かるよね。この問題は、ベクトルでも図形でも答えは出るんだけど、面倒でも図をなるべく描いたほうがいい」





教師は、淡々と授業を進めていく。来年、受験を控えている彼らに解答力をつけさせる。難関大学に挑むには、一問でも多くの問題を解いていくしかない。



この夏休みの期間が、勝負の分かれ道。かつて、彼もこの時期は死に物狂いで勉強した経験があった。彼は、無意識に自分の過去の姿を目の前にいる生徒に重ね合わせていた。





しばらくの間、黒板にチョークが当たるカッ、カッという小気味よい音と生徒のシャーペンが、紙を滑る音だけが教室内に響いていた。



…………………。



……………。



………。





今日の授業が全て終了し、僕は職員室で帰りの準備を始めていた。





「ねぇ、ねぇ、九重先生。昨日のニュース見たぁ? 金糸町の天林女子の誘拐事件。恐いよねぇ」





僕の右隣のデスクに座っている同僚の女教師、山中静(やまなかしずか)が、手鏡で顔のメイクをチェックしながら僕に話しかけてきた。





「そうですね。生徒には、一人で帰宅しないことと夜遅くに出歩かないように注意を促してはいるんですが。予備校とかもありますし、実際、徹底するのは難しいですね」





「予備校かぁ。やっぱり、特進クラスは違うなぁ。私の生徒なんかさ、普通にゲーセンで深夜まで遊んでるよ。アハハ」





「……笑い事じゃないですよ」





「でもさぁ、最初の誘拐事件からもう何年も経つのに全然犯人捕まらないね。警察、職務怠慢で訴えてやろうかしら。PTA煽ってさ」





山中先生は、アクセゴムでポニーテールを作っている。教師から一人の女に変わっていく瞬間だ。僕も男として少しドキリとしてしまう。



 



「早く犯人捕まってくれないと教師として寝付きも悪いですしね。いつ自分の生徒が標的にされるか分かりませんから」





「えっ? そうなんだ。私、メチャクチャ寝付きいいよ。最近」





本当に教師か? この人。



 



「何、その困った顔~。アッハッハ」





僕の微妙な顔が可笑しいらしく、チラチラこっちを見ながら笑っていた。





「九重先生って、面白いよね。う~ん、結婚さえしてなかったら、即立候補してたのに。ほんと、残っ念!」





嘘かホントか分からないことを平気な顔して言って、職員室を後にする山中先生。僕の心を乱して消えた。



暗くなる前に帰ろう。僕も職員室を後にした。



駐輪場にとめてあったマウンテンバイクに跨り、軽くペダルを漕いだ。すると、すぐに湿気を含んだ夏風が、僕の顔を優しく撫でていく。敏感になった鼻が、いち早く潮の香りを感じ取ると、すぐに僕の前に青い海が広がった。キラキラと夕日を浴びて輝く海面。海猫が数羽飛んでいた。





海岸沿いの道を十分も走ると、ポツポツとマッチ箱のような住宅が見え始め、その中に我が家もあった。玄関ドアの横にマウンテンバイクを置き、家のチャイムを鳴らす。もちろん、僕も家の鍵を持ってはいるが、昔からの癖でどうしてもチャイムを鳴らしてしまう。





「どちら様ですか?」





「サトルだけど」





「どのサトルですか?」





「アナタの夫のサトルだよ」





カチャッ! という音と共にドアが開いた。中から顔を出したのは、もちろん僕の妻である。少し眠そうな顔をしている。昼寝をしていたに違いない。





「おかえりなさい、ダーリン!」





「今まで一度もダーリンなんて呼んだことないでしょ? 急に呼び方変わるとビックリするからやめてよ」





「なによ、その言い方っ! いいじゃない、たまには。こういうラブラブ夫婦を演じたってさ」





拗ねたようだ。僕を親の仇だと言わんばかりに睨みつける。しばらくして、妻の様子を窺うと、部屋の奥で胡坐をかいてテレビを見ていた。



僕は、部屋着に素早く着替えるとソファーに腰を下ろした。妻は、こちらをチラッと見たが、すぐにテレビ画面に向き直る。まだかなり怒っている。





「ごめんね、ナツ。僕が悪かったよ」





こっちを見てくれない。





「ハニー、愛してる。世界中の誰よりも。だから、許してよ。ね?」





「ぅ……今回だけは、許す。先に夕飯食べるでしょ? すぐ準備するね」





そう言うと、キッチンの奥で夕食の準備を始める。背伸びをして戸棚から皿を取り出していた。ナツの身長は、僕よりもだいぶ低い。まぁ、僕が平均より高いだけだが。





「ナツ、それ手伝うよ」





「あっ、ありがとう。じゃあ、このお皿運んでくれない? 割らないでね」





「今夜は、ハンバーグか。美味しそうだね」





「ハンバーグ好きでしょ?」





「うん」





「子供が好きな食べ物は、サトルも好きだよね。フフ」



 



ナツは、嬉しそうに笑った。童顔なので一瞬、中学生のように見えた。こんな子供みたいなナツだが、実は僕よりも年上。しかも、昔は僕と同じく教師をしていたこともある。



さらに、ナツは僕の恩師でもある。先生とその教え子、それが僕達。そんな二人が結婚。





まるでドラマみたいな話。





「学校、どうだった? 可愛い子に『先生、素敵ですわ。付き合ってください!』とか言われなかった?」





「言われなかったよ。そんな漫画の中のお嬢様キャラの持ち主もいないしね、うちのクラスは。今は、受験一色って感じかなぁ」





「ふ~ん、みんな真面目なんだね。昔は、サトルみたいな悪ガキもいたのにね」





ナツは、遠い目をしていた。僕は、物思いに耽っている彼女の横顔を見るのが好きだった。



テレビでは、地元のニュースを放送していた。昨日に引き続き、誘拐事件の特集が組まれている。僕は、リモコンを手に取り、チャンネルを歌番組に変えた。露出度の高い女性シンガーが、バックダンサーを従えて腰をフリフリ踊っていた。



見えそうで見えない、最高のチラリズム。





「……チッ」





僕の様子を見ていたナツが舌打ちをした。



僕は、動揺を隠しながら箸を持つ。自分の食べかけの皿を見るとハンバーグが一つ増えていた。ナツが、自分の分のハンバーグを僕の皿に移したみたいだ。





「体の調子、悪いの?」





「今のところは大丈夫だよ。発作も起きてないし」





「そっか。ならいいんだ。発作が起きそうになったら、すぐ教えてね。用意するのに少し時間がかかるからさ」





「……大丈夫? 無理してるでしょ、私のために」





「僕は、大丈夫だよ。無理もしてない。つまらない証拠も残してないから、捕まる心配もないしね」





「ごめんね、ほんと。私のためにこんな危険なことさせて」





「何言ってるの? 夫婦は助け合うものでしょ。本当に大丈夫だからさ、心配しなくていいよ」





僕は、ハンバーグを一口サイズに箸で切ると口に放り込んだ。溢れ出た肉汁とソースの相性は抜群でご飯がすすむ。結局、三回もご飯のおかわりをした。



キッチンで、ナツが食器の洗い物をしている間、僕は地下室の様子を見に行った。ドライエリアを設け、湿気対策をした自慢の地下室だ。僕しか知らない暗証番号を入力し、鉄扉を開ける。四方をコンクリートの灰色の壁に囲まれた部屋。小さな羽虫のようなエアコン音。そのエアコンのおかげでカビの臭いもしない。温度、湿度ともに低く、快適に過ごせるように設定している。この部屋の設備は、ここに来る住人のために僕が用意したもの。







「た…す………て」







しかし、今僕の前で鎖に繋がれている少女は、とても快適そうには見えなかった。誘拐して、この部屋に監禁してからずっと少女は涙を流し続けている。



少女の前に置かれたスープとパンには、今日も口をつけていない。もう丸三日何も食べていないことになる。このままでは、死んでしまう。死んでしまったら、後は腐るだけ。使い物にならなくなる。それは、どんなことをしても避けなければならなかった。



僕は、落ち着いた声で少女に話しかけた。





「何か食べないと死んでしまうよ? リクエストがあれば、なんでも食べさせてあげるからね。フルーツとかどう?」





「どう……して。こんなこと……」





消え入りそうな涙声で、少女は言った。唇が乾燥し、ひび割れている。涙で濡れた髪が、ベットリと痩せこけた頬に張り付いていた。



三日前、僕はこの少女を誘拐した。少女には、出会い系サイトで一ヶ月前に知り合った。何度か町でデートの真似事をし、欲しい物を買い与え、ようやくこの家まで連れてきた。後は、簡単。



睡眠薬入りのジュースを飲ませ、眠った体を地下室まで運び、両手足をネットで購入した鎖で拘束した。鎖の端は、壁に頑丈に取り付けてあるので逃げることは出来ない。防音も完璧なので、叫び声をどんなにあげたところで誰にも聞こえず、ただこの部屋で虚しく響くだけだ。



鎖に繋がれたその姿は、一見すると奴隷のようだ。これがもし、普通の誘拐魔なら性的な行為に及ぶだろうが、僕にはその考えは一切なかった。



そもそも、目的が彼らとは大きく違うのだ。僕が、彼女を誘拐したのは霊華のため。霊華を助けるため。





「たすけ、て……おねがい……ます。なんでも……する……だからたすけて」





少女は、そう言うとシャツのボタンを一つずつ震える手で外していく。スカートも脱ぎ、下着姿になった。白いブラとショーツだけとなった少女は小刻みに震えており、それでも僕の顔を見て、女の色気をアピールした。





「そんなことはしなくていいよ。僕には、その気はないしさ。服を着なさい。風邪を引いたら大変だ。……もうすぐ解放してあげるよ。だからさ、少しでいいから何か食べなさい」





僕は、怯えている相手の顔を見て優しく諭した。



「ほんとう? 本当に解放してくれるの」





少女の目に光が宿った。この光は、彼女の生きたいという想いそのもの。





「あぁ。だから、食べなさい。新しい食べ物を今持ってきてあげるからね」





僕は、そう言い残し部屋を後にした。十分後、食べ物を持ってきた僕に対して、服を着た彼女は掠れた声でお礼を言った。





「ありがとうございます。ぁ……このことは誰にも、絶対に誰にも言いませんから」





これほど分かりやすい嘘があるだろうか。たとえ、人生経験のない小学生でも彼女の嘘を見破れただろう。





「食べたら、眠りなさい。それじゃあ、また明日」





彼女は嘘つき。





でも、それは僕も同じだ。





彼女を解放する、それは絶対にありえない。そもそも解放するぐらいなら誘拐などしない。彼女の崩壊しつつある精神では、僕の言葉が神の言葉のように聞こえたのだろう。この閉鎖された空間では、一分が一時間にも等しく感じられる。気が狂い、舌を噛んで死んでしまわないように、僕は一日に何度か彼女の様子を見に地下室に下りた。



ナツは、そんな僕の姿を見ても何も言わなかった。何も言わなかったが、気持ちは痛いほど僕に届いていた。



優しいから。だから、苦しむ。



僕には、地下室に行く以外にもやることがあった。それは、出会い系サイトで知り合った他の女子高生とのメールのやり取りだ。相手が喜びそうな話題を振り、よく相手の話を聞いた。僕自身、高校教師として生徒の流行や悩みを少なからず聞き知っていた。それが助けとなり、さほど苦労せずに相手の心に入り込むことに成功していた。



常に一人は、すぐに会えるようにしていた。緊急の場合に備えて、早めに準備を進めている。





「サトル。外、歩かない?」





お風呂から上がって、いつものようにメールを激しく打っていた。





「今から? 湯冷めしないかな。明日じゃダメ?」





「ダ~メ。今から行くの。早く準備しなさい」





ナツは、既に外出用の白いワンピースに着替えていた。僕も慌ててジーパンに着替える。



二人で海岸を散歩。静かな夜だった。





「なんか空気が澄んでて気持ちがいいね。星も綺麗だし」





ナツと同じように空を見上げる。確かに今夜は、大小さまざまな星が煌いていた。都会に住んでいた頃は、空を見上げるという行為すらしなかったので、空から感動を得ることもなかった。



僕の少し先を歩いていたナツが突然立ち止まり、蹲った。





「どうした?」





「ヤドカリが歩いてる。フフ、ちっこくて可愛い」





ナツの股の間をヤドカリが横断している。止まっては動き、またしばらく止まっては動く。その繰り返し。その姿を面白そうに見ている。屈んだナツの服の間から、雪のように白い肌が見えた。それを見た瞬間、ナツを抱きしめたい衝動に駆られた。





「サトルさぁ。どうして教師になったの?」





僕は、暗い海を見ながらナツの声を聞いていた。





「そんなの決まってるでしょ。ナツに近づくためだよ。僕バカだったからさ、教師になるために必死に勉強したんだ。本当に死に物狂いでさ。ナツと同じ教師になれば、付き合えるって本気で信じてて。まぁその妄想があったから頑張れたんだけど」





「妄想が現実になったじゃん。良かったね」



「ハハ、そうだね。でも、僕が教員免許を取得したときには既にナツは東京にはいなくて。しかもこんな田舎町に引っ越しててビックリしたよ。教師も辞めてるし」





「ごめんね、教えなくて。心配かけたくなかったから。でもサトルが教師になったってメールで知った時は、凄く嬉しかったよ。本当に頑張ったんだなぁ、コイツって感じでさ。教え子として誇らしくなったもんよ」





ナツは、背伸びをして僕の頭を撫でようとしている。が、背が低いのでそれでも届かない。僕は、腰を少し曲げた。小さな手が、僕のまだ湿っている髪を摩る。





「でも、あの学校一の不良生徒が先生になるんだから世の中分からないよね。あの頃のサトルは、金髪でピアスもしてたし。それに自分のこと『オレ』って言ってたよね。外見変わると中身も変わるのかなぁ、人間って」





確かに僕は、昔は自分のことを俺と言っていた。





いつからだっけ? 





自分のことを僕って言い始めたのは。





「そろそろ帰ろうか、寝るのが遅くなるし。明日も学校でしょ? 先生が寝坊したらカッコ悪いしね」





「そうだね。でもさ、今夜もエッチなことするから寝るのはどうせ遅くなるよ」





「……そういうこと、真顔で言わないで。恥ずかしいから」





照れてる。僕は、ナツの小さな体をそっと引き寄せると、その顔にキスをした。目を閉じて、頬を赤く染めている。この仕草は、付き合ってるときから変わらない。もう何年もナツは、変わらない。あの頃のままだ。





『覚醒者』は、あまり歳をとらないから。





僕は、ゆっくりと目を閉じた。昔の光景が蘇ってくる。






【 これは、僕の命より大切な記憶ーーーーー 】






「あっ! またそんなところでタバコ吸ってぇ。ダメだよ、一応まだ高校生なんだから」





「またかよ。アンタも懲りないね。もう俺なんか無視してればいいのに」





「無視は出来ないよ。一応、私の教え子だし」





俺は、この女が嫌いだ。何かと俺の邪魔をするから、めんどくさかった。





「タ・バ・コ。消しなさい」





そんなに見つめられると落ち着いてタバコすら吸えない。本当に邪魔な女。俺は、タバコを足元に捨てると靴底でタバコが粉々になるまで踏み続けた。





「そっ! それでいいのよ。授業には出ないの? このままじゃ、どんどんおバカさんになるよ。来年は、受験でしょ?」





この女、正気か? こんな俺が勉強したところで、どこの大学が入学を許可するって言うんだ。それに、今更何をしても手遅れ。学校の成績も学年最下位だしな。





「受験なんかしない。アンタ、今の俺の成績知ってんのか? つまらねぇ冗談言うな」





「冗談? 何が。九重はさ、やれば出来る子だって思うけどな。勉強だって、ちゃんと真面目に机に向かえばすぐに成績もアップするよ。絶対」





「はいはい。じゃあ、俺は帰るから」





俺は、振り返らずに歩き出した。アイツは、子供のように口を尖らせて拗ねていた。





「わたし」





今日は、何するかな。あぁ、つまんねぇ。毎日、毎日。同じことの繰り返し。本当、つまんねぇ町だ。ここは。





「九重のこと信じてるからね!!」





俺の足が、止まった。無意識に。止まったと言う事実に自分自身が一番驚いていた。





「なに?」





「私はさ、九重を信じてるよ。だから、私だけは裏切らないでね。ショックが大きいから」





「バカだな、お前。ほんと、バカだ。俺を信じるなんて」





「うるさいっ! そんなにバカバカ言うな。もう決めたの。私は、アンタを信じるって」





校門を出てアイツの姿が見えなくなってから、俺は一度だけ振り返った。巨大な校舎が、俺を押し潰そうとしているようだった。俺みたいな人間のゴミを排除しようとしている。



このバカでかい校舎には、生徒が八百人以上、それと五十人以上の先生がいる。でも、その中でアイツだけが俺を信じてくれている。



アイツは、嘘をつけるほど器用じゃないから。俺は、凄く動揺していた。アイツの「信じる」って言葉が、いつまでも俺の頭に鳴り響いていた。



……………………………。


……………………。


………………。




「朝だよ。起きて」





「……」





夢。懐かしい夢を見た。





「遅刻しちゃうよ?」





「起きてるから、そんなに激しく体を揺すらなくていいよ」





ナツは、僕の体をゴロゴロと布団の上で転がしていた。目が回る。





「おはよう」





「うん。おはよう、ナツ」





ナツは下着を着ていたが、僕は全裸だった。なんとかトランクスだけを発見し、身に着けた。



ナツは、僕の顔を嬉しそうに見上げていた。





「どうしたの?」





「ううん。サトルが、まだ私と一緒にいてくれたから嬉しくて」





「そりゃ、いるでしょ。夫婦なんだから」





「そうだよね。それは、分かってるんだけど」





ナツが、悲しそうに目を伏せた。僕は、どうしていいか分からなかった。でも何かしなくちゃいけないと思い。そっと、壊さないようにナツの顔を僕のほうに向かせるとオデコに優しくキスをした。





「くすぐっ…たいよぉ」





キスを繰り返す。ナツの白玉のように柔らかい頬やピンク色した唇にもキスをした。



 



「っもう! 本当に遅刻しちゃうよ」





僕の体を両手で突っぱねた。





「イテテ。少しやりすぎた。そろそろ準備して行こうかな」





「うん。それがいいよ。コーヒーだけでも飲んでいくでしょ? 準備するね」





ナツは、リボン付きのネグリジェを着ると一階に降りていく。僕は、そんなナツの後姿を名残惜しそうに見ていた。






今日の授業は、正直暇だった。



センター試験で出された過去十年間の問題の中から、間違えやすいものを僕が抜粋し、三枚のテスト用紙の中に収めた。





「……」





それを黙々と解いていく生徒。テストも終わり、授業時間が微妙に残った。



僕は、教室のドアを開けた。隣のクラスでは、まだ英語のリスニングのテストをしている。早めに生徒を帰宅させようと思ったが、これでは無理そうだ。仕方ないので、今更言う必要もないような受験対策で時間を潰すことにした。





「みんなは分かってると思うけど、センター試験のウエイトは大きい。先生の頃は、国公立大学を受験する人しかセンター試験は必要じゃなかったんだけど、今では私立大学でもかなりの大学がセンター試験も加味している。だから、今解いてもらったテストは、必ず家に帰って自己採点をしたほうがいいよ。センター試験は、解いた問題の量に比例して点数が上がるからさ」





「先生が高校生の頃は、頭は良かったんですか?」





このクラスで一番元気の良い剣道部所属の天海誠(あまみまこと)が、手をあげて質問してきた。





「頭は、良くなかったよ。だから、努力した。誰よりも勉強したと思うよ。一日の大半、勉強机の前にいたし、飯ですらそこで食べた。口に食べ物を入れながら、参考書を読んでたよ」





「うへぇ、マジかよ。凄いっすね」





天海は、心底驚いたように言った。彼女の小麦色の肌は、夏を感じさせる。





「受験するのは、親のためでも先生のためでもない。自分のためだよね。だからさ、しっかりと目標を持って、君たちには頑張ってほしい。偏差値の高い大学に行くのもいいと思うけど、そんな腕試しのようなことをするのはガキだとも思う。自分がさ、将来何になりたいのかをじっくりと考えて、そのために必要な知識、経験を身につけてほしい」





僕の話を静かに聞いていた天海が、突然立ち上がった。





「私……先生みたいな教師になりたいです!」





「えっ」





他の生徒が、天海と僕を交互に見ている。その目は、好奇に満ちていた。教室内が、ザワつく。





「憧れます。先生みたいな人」





天海の目は、純粋で濁りがなく、そんな目でいつまでも見られていることに僕は耐えられなかった。





「ハハ、なんだか照れるな。でもありがとう。天海も自分の夢を実現してね」






天海…………。





お前は知らないだろ? 





先生は、誘拐魔なんだ。世間を騒がしてる犯罪者。お前と同じ女子高生を誘拐して、家の地下室に今も監禁してる。お前は今、そんな人間に憧れてるって言ったんだ。





「はいっ! 必ず実現させます。先生が、誇れるような人間になります」





………お前の目には、僕はどう映っているんだ? 教えてくれよ、なぁ。





学校からの帰り道。自転車のペダルがいつもより重く感じた。僕の前から、墨汁を含んだ綿のような雲が迫ってきている。もうすぐ、どしゃ降りになるだろう。




早く、帰ろう。ナツの待つ家に。




家に着いた瞬間、シャワーのように雨が降ってきた。僕は、慌ててチャイムを鳴らす。



でも、応答がない。ナツは、出かけているのだろうか。僕は、仕方なく自分のスペアキーで家のドアを開けた。開けた瞬間、ムワッとむせるような熱気が顔にかかった。





「ただいま……?」





返事がない。



やはり、出かけてーーー。





音?





キッチンから人の気配がした。微かな息遣い。





「ナツ、いるのか?」





僕は、カバンを投げ捨て、キッチンに駆け寄った。そこで僕が見たのは。





「ナツっっ! しっかりしろ」





妻が、床に倒れている。まな板には、刻んだキャベツが半分だけ残されていた。右手には、包丁が握られている。また、起きたのだ。あの発作が。



僕は、ナツから包丁を奪うとそれをまな板の上に乗せ、その軽い体を抱きかかえ寝室まで運んだ。ナツの顔を玉のような汗が流れていく。体中の水分を吐き出すような大量の汗だった。



僕は、閉じられているナツの瞼を親指と人差し指で軽く押し広げた。





「くそっ!」





瞳が、琥珀色をしている。瞳孔も細長く、もはや人間の目ではなかった。





「……………」





発作が起きる間隔が短くなっている。



去年までは、半年に一度だった発作が、今では二ヶ月に一度のペース。このままじゃ、餌の確保が追いつかなくなる。



先ほどから唸るような音が、ナツの喉元からあふれ出ている。唇を両手で静かにめくると食肉目特有の裂肉歯が小さく見えた。



とにかく時間がなかった。



こうなってしまえば、もう残された道は一つしかない。僕は、ナツの体を再び抱きかかえると、地下室に下りた。素早く暗証番号を入力し、中に入る。



目の前の少女は口を開け、目を丸くして僕とナツを交互に見ていた。





「どっ、どうし、えっ?」





何から喋っていいのか分からないようだった。それもそうだ。きっと、彼女は僕のことを一人暮らしだと思っていたに違いない。メールのやり取りでも僕は、独身を装っていたし。





「この人は、僕の奥さんだよ。会うのは、初めてだよね」 





「奥……さん? 結婚されていたんですか。こ、こんな場面を見せて大丈夫なんですか?」





昨日よりも声に力がある。きっと、食事をとったおかげで少し元気になったのだろう。空になったスープのお椀が少女の足元に転がっていた。





「あぁ、大丈夫だよ。僕の奥さんも君のことは知っていたしね。別に隠してたわけじゃないんだ」





その言葉を聞いた瞬間、少女の目の奥がどす黒く濁った。僕は、その目から軽蔑と憤怒を感じた。





「…………鬼畜。あなた達夫婦は鬼畜です。こんな残酷なことをして。でも、もういいです。全て忘れますから。だから、早く解放してください! お願いしますっ」





少女は、頭を下げた。彼女の髪には、白い涙の結晶がポツポツと付着していた。





「僕達が、きちく? それは、違うよ。君は、勘違いしてる。僕は、確かに君の言うとおり鬼畜だよ。地獄に落ちるべき人間だ。でも妻は違う。僕とは違う。妻に鬼畜と言ったこと、謝ってくれないかな」





「だって、奥さんもこれを知ってて黙認していたんですよね? なら、おなじ」



 



「何が同じ?」





「え、あっ、その……。ごっ、ごめんなさい! 私、変なことを言いました。謝ります、ごめんなさい」





少女は、床に頭をつけて謝った。





「顔を上げていいよ」





この土下座に彼女の誠意などない。僕は、ナツの体を傷つけないようにそっと床に下ろした。ナツの伸びた凶暴な爪が僕の腕に食い込み、その傷からは、血がたらたらと流れていた。






トッ……。






床に落ちた血。僕は、ぼんやりとそれを見ていた。少女も異変に気付いたらしく、怯えながらその変化を見ていた。





「なっーーー、えっ、なに? いやっ!! なんなのっ、コイツ」





「約束どおり君を解放するよ」





僕は番号を入力し、内側から厚い鉄扉を開けた。振り返ると、少女に襲いかかる巨大なナツの背中が見えた。盛り上がった背筋で、白いシャツが引き裂かれている。





「助けてぇえぇ! だれかぁっ! この化け物をなんとかしてっ、いやぁあぁぁあぁ」





少女は、スープが入っていたお椀を拾うと、思い切りナツの頭に投げつけた。





カンッ! 





乾いた音が部屋に響く。が、それだけだった。少しもダメージを与えることが出来ず、ただただナツの怒りを買っただけ。



ナツの口からあふれ出たヨダレが、少女の顔にかかった。その瞬間、少女の体がぶるぶると震え、少女は失禁した。水溜りが出来るほど大量の小便だった。





「おね、がぃぃ……たすけてぇ……おねがいぃぃ……」





既に限界を超えた少女は、両目から血の涙を流しながら、僕に最後の助けを求めた。





『フルルルルッ』





低く重い唸り声。



 



次の瞬間、少女は人間とは思えない声で絶叫した。ボキリ、ボキリ、という音。



ナツは、少女の腕を噛み千切っていた。血液がほとばしる肉の断面を一度だけ大きな舌で舐めると嬉しそうに目を細め、凶暴な歯で骨ごと噛み砕いている。





「ごめんね。妻には君のような少女の肉がどうしても必要なんだ」





これは、本当だ。発作が起き、変貌したナツには生きた少女の肉が必要だった。人間以外の動物や加工した肉は、ナツは決して食べようとしない。男性や二十歳を過ぎた女性の肉も食べなかった。高校生ぐらいの年齢の少女が、一番適していた。ナツの餌として。覚醒した獣人は、人間を喰うようになる。この残酷な運命から逃れる事は出来ない。覚醒している時は、その時の記憶がない。それが唯一の救いだった。





階段を上り、リビングに戻る。まだ、雨は降っていた。



濡れた洗濯物をとりこみ、再び洗濯機の中に押し込んだ。キッチンに行き、出しっぱなしの野菜を冷蔵庫に戻し、ついでに麦茶を取り出す。冷えた麦茶で喉を潤すと胸がスゥーと爽やかになり、忘れていた空腹を思い出した。





「……………」





あと三十分で食事が終わり、ナツは元の姿に戻る。僕は、ソファーに寄りかかると耳を澄ました。雨音だけが、耳を優しく刺激する。車が、雨をはじき飛ばしながら家の前の通りを通過していく。



テレビ台の上には、ナツと行った沖縄旅行の写真があり、その中の僕は僕自身が恥ずかしくなるような満面の笑みだった。ナツは麦藁帽子を被っており、背が低いのと日に焼けたせいで地元の中学生のように見えた。





「また行きたいな。来年あたり」





ナツは、僕が出会った女性の中で一番純粋だ。その純粋さが彼女の雰囲気を良くしており、周りにいる人までも幸せにする。それは、彼女が持っている一番の才能であり、僕も尊敬しているところだ。



目を閉じると、より一層雨の世界に意識を持っていかれる。頭の先端を誰かにつままれているような気分。自分が誰なのか、どこにいるのか。とても曖昧になっていく。





【 僕は、また昔の夢を見た 】





「ごめんなさい。昨日は、迷惑かけちゃったね。本当にごめんなさい」





「あぁ。いいよ、別に」





俺は、俯いて答えた。昨日、初めて参考書を買おうと書店に立ち寄った。その帰り道、俺は見てしまった。先生が、同じクラスの佐々木と歩いているところを。



佐々木は、学校では特別な存在だった。学年での成績は常にトップであり、全国模試でも高順位を常にキープしていた。先生達からも厚い信頼を得ており、バカな不良生徒である俺とは真逆な人間だった。



二人は、人気のない場所まで無言で歩いていき、改装中のために立ち入り禁止となっている雑居ビルに入っていった。



俺は、周りに誰もいないことを確認するとその建物の中に体を滑り込ませた。 



佐々木は、先生に何かを要求していた。先生は、ショルダーバッグから茶封筒を取り出すと佐々木に手渡す。中身を見なくても、それが金だと分かった。





「もうこんなことは最後にしてちょうだい。佐々木君の将来にもこんなこと悪影響よ」





「よくもまぁ、そんなこと言えるな。偉そうにしやがってっ! この人殺しが。僕は、見たんだ。お前が、他校の女子生徒と一緒に廃ビルの中に入る所を。そこで、お前は。お前は……化け物になった! そして、そいつを襲ったんだ。食ってた。この! このっ、化け物。だから、今更まともなこと言っても全然説得力ないんだよ」





佐々木は、言い終わると憎らしげに地面に唾を吐いた。興奮しているせいか、呼吸が荒い。





「……………」





先生は俯き、何も言わなくなった。





「でもよ、僕はあんたの味方だ。こうやって、金さえ渡してくれたらこれからもずっと黙っててやるよ。まぁ金が尽きたら、その体で払ってくれればいいぜ。アンタは可愛いからな。その透き通るような肌もそそる」





下卑た笑い声が、二十坪ほどの部屋に響き渡る。床には、AVケーブルや電話回線ケーブルなどの配線が、蛇のようにとぐろを巻いていた。



今すぐ、この柱から出ていって佐々木の顔面を思い切り殴りたかった。なんでかは分からないが、先生がこんなザコにいいように扱われていることが我慢出来なかった。 



胸にこみ上げてくる怒りが、沸点に達しようとしていたその時。



先生に異変が起きた。





「……っ」





急に胸を押さえ、蹲った。苦しそうに喘いでいる。





「はな……れ、て。お……ねが……ぃ」





「な、なな、なんだよっ! お前」





ホースのような太い血管が浮かんだ腕、丸太のようにどっしりとした足。壁のような背筋は、汗が蒸発し、そこだけ白んでいた。



十秒ほどで、あんなに華奢だった先生の体が、見たこともない化け物に変異した。



腰を抜かして尻餅をつく佐々木。そんな佐々木と同様に俺もショックを受け、身動きがとれなかった。寒くもないのに全身に鳥肌が立っていた。



俺は震えながら、それでもこの光景から目を離せないでいた。



サメの歯のようなものが、口の奥までびっしりと生えており、口は常に半開き状態。ヨダレを周囲に撒き散らしている。自分でも認めたくない、先生の変わり果てた姿だった。



その目は、狩をするときのライオンのように大きく、緑色をしていた。人間のような白目がなかった。





「くるなっ、化け物! 来るなって言ってるだろ! 畜生がっ」





『フルルルルルッ』





「頼むからぁ、助けて。ぼ、僕が悪かったっ! もう金は要求しないし、アンタが化け物だってことは絶対にっ、誰にも言わない。約束する」





嘘だ。コイツは、絶対に喋る。俺には、佐々木の心が手に取るように分かった。



 



「やっ! て、がふぅびゅぶっ」





佐々木の喉元に噛み付いた先生が、思い切りその肉を剥ぎ取った。喉を抉られた佐々木は、首から大量の血を流しながら、ただ呆然と眼前の先生を見ている。



自分に何が起きたのか、理解できていないようだった。先生の巨大な手で、頭を鷲掴みみにされた佐々木は、声を失った口を動かした。





『ば、け、も、の』





バキュッ。






頭蓋骨が砕ける音がし、マネキンのように佐々木は動かなくなった。佐々木は、僕の目の前で死んだ。初めて見る死体だった。テレビや映画のような作り物じゃない。本物の死体。



佐々木を粉々にした先生は、満足そうに雄叫びを発し、そして倒れた。倒れた先生の体は、風船が萎んでいくように小さくなり、一分ほどで元の姿に戻った。先生がさっきまで着ていた衣服は、ただの布切れと化しており使い物にならなかった。俺は、シャツを脱ぎ、それをそっと先生にかけた。



先生は、まるで寝ているかのように静かだった。死んでいるんじゃないかと心配になったほどだ。尻ポケットから、震える指でタバコを一本取り出すと火をつける。紫煙を吸ったり、吐いたり繰り返すとさっきまで鼻にこびりついていた血生臭さが幾分緩和され、吐き気もおさまった。



信じたくない現実。笑顔をいつも絶やさない先生とさっき目の前で佐々木を殺害した先生。どちらが本当の先生なのか分からない。 





「タバコ・・・・・・ダメだよ」





虚ろな目をして、俺に注意をする先生。





「いいだろ、今ぐらい。これ吸ってないと気がおかしくなりそうなんだよ。今だけだ、許せ」





「いつから見てたの?」





「佐々木と先生が、このビルに入るところから」





「……そうなんだ。ごめんね、こんな残酷なものを見せて」





「いいよ。気にするな」





「気にするって。普通……。教え子殺すなんて教師失格だね。ってか、人間失格」





俺は、黙って先生の言葉を聞いていた。今、俺の前にいる先生は俺の知っている先生で。佐々木を殺した化け物とは似ても似つかなくて。これが、悪い夢ならどんなに良かったか。でも今起きたことは、紛れもなく現実だった。





「九重、私はどうしたらいい? 警察に自首してもいいけど、信じちゃくれないだろうし」





「とりあえず、この死体を片付けよう。このままじゃ、マズイ。俺は、叔父さんのワゴン借りてくるから。先生は飛び散った血を綺麗に拭いてろ。指紋も出来るだけふき取れよ」





「九重は、免許持ってないでしょ? ダメだよ、そんなことしちゃ。それに、九重まで巻き込みたくないし。私一人でなんとかするから。だから、もう。帰って」





「免許なくても運転ぐらい出来るんだよ。それに、アンタ一人残したら自殺しかねないからな。一日に二体も死体は見たくない。とにかく、今は俺の言うとおりにしろ。馬鹿なことするなよ! 絶対」





「……迷惑かけてごめんなさい」





俺は、走った。急いで家に帰り、叔父さんのワゴンを借りて、またこの雑居ビルに戻った。もしかしたら、首を吊っているんじゃないかと心配したが、それは杞憂に終わった。先生は、俺の指示通りに血を拭いていた。何故か半べそをかいており、時折鼻を啜っていた。 





「ちゃんと言うとおりにしてるな、偉いぞ」





「……うん。なんか、九重。先生みたいだね」



 



俺は、指紋を丁寧に拭き取った。車の荷台に死体を包んだブルーシートを乗せると、ただひたすら車を走らせた。



ダムに沈んだ村を通り過ぎ、舗装されていない道を強引に突き進んだ。とある山中で車を降り、先生が見つけた大きな沼に、重りをつけた死体を沈めた。



俺は、祈った。死体が浮かんでこないように。誰にも見つからないように。



十一時を過ぎ、ようやく俺たちは、自分達の町に戻ることが出来た。白バイに捕まるんじゃないかと常に緊張していたので、疲労がハンパじゃなかった。



 



「じゃあな、先生」





「今日のこと……」





「誰にも言わない。俺を信じろ」





車を降りた先生は、何か言おうと迷っているようだった。 



今は元気がないが、明日にはいつもの先生に戻っているだろう。再び車を発進させようとした俺に、





「どうしてこんなことするの? 九重には、将来があるのに。私のせいで人生がめちゃくちゃになってる。こんな危険なことさせてしまって。どうやって私、責任取ればいいの」





「先生が責任を感じる必要はないよ。だって、これは俺が勝手にやったことなんだから。アンタはアンタらしく、また明日から教師やってればいいんだ。俺みたいなバカな生徒の相手をしていればいいんだよ」





「私が、化け物で恐くないの? 九重は」





先ほどの映像がフラッシュバック。心臓が痛み出す。肉を裂く音。飛び散る鮮血。臭気。どれ一つとっても一生忘れることは出来ないだろう。





「恐い。正直、すげぇ恐いよ。でもな、先生だって好きで人間襲ってるわけじゃないだろ。なら、仕方ない。仕方ないって思うしかない。俺のことを信じてるって前に言ったよな、アンタ。なら俺も先生を信じるよ」





「九重……………」





「だから、今までと何も変わらない。アンタは先生だし、俺はその生徒だ」





いつの間にか、先生と目と目が合っていた。俺は、急に恥ずかしくなり視線を逸らした。先生も同じらしく、わざとらしく自分の足元を見ていた。





 



『 ありがとう。私を信じてくれて 』






 夢から覚めた僕は、ソファーから体を起こし、立ち上がった。壁時計で時刻を確認する。あれから、まだ二十分と経っていなかった。その割に随分長い間、夢を見ていた気がする。肩を回すとギシギシと痛んだ。 



僕は、地下室に下り鉄扉を開けた。その瞬間、生々しい血の臭いが鼻を刺した。部屋の中央。全裸で倒れているナツがいた。露出した肌は、相手の血で真っ赤に染まっていた。





「ナツ。そろそろ起きな」





「……? う~ん。おはよう」





「まだ夜だよ。立てそう?」





僕の両手を掴んで、ようやく立ったナツが部屋を見渡す。部屋中、血と肉片が飛び散り、足元もテラテラと赤黒く濡れていた。



灰色だった部屋が、今だけ赤い部屋へと変わっている。そして、以前ここにいた少女は跡形もなく消えていた。





「また……わたし…化け物になったんだね。フフ、そっか。そうなんだ。もう笑うしかないよ、ほんと」





「ナツ?」





「こんなこと、いつまで続くんだろうね。サトルがさ、なんの罪もない少女を誘拐してきて、この部屋で何日も監禁してさ。化け物になった私が、その少女達を生きたまま食べてる。なんなんだろうね、これって。地獄でもこんな酷いことしないよね、たぶん」





「……そんなに自分を責めないでくれ。ツラくなる。どんな難題も二人で乗り越えていくって決めただろ? そのために必要なことなら僕は何だってするよ。今更、天国に行きたいなんて図々しいこと思っちゃいない。僕はただ、生きている間は、ナツと一緒に、幸せに暮らしたいんだ」





「私だって同じ。いつまでもサトルと一緒にいたい。幸せだもん、今」





僕は、ナツと抱き合った。一緒にシャワーを浴び、僕は丁寧にナツの体をスポンジで洗った。赤い泡が、排水溝に吸い込まれていく。



しかし、僕たちの罪までは洗い流してはくれない。この罪は、死んでも体を離れない。





「くすぐったいよぉ…………ぅん」





体をねじりながら、僕の腕から逃げようとする。ナツの甘えた声は、僕の脳を興奮で麻痺させる。





「シャワー浴びながらするっていうのも興奮するよね。ナツも?」





「……………変態」





ナツを背中から抱きしめる。自分の体がドロリと溶け、ナツの体の一部になっていくようだった。ナツから漂う花の蜜のような香りに、眩暈がした。





「っ……好き」





甘い唇から、熱い吐息が漏れた。潤んだ瞳には、僕だけが映っている。彼女を愛おしいと想う。一生、守りぬく。だからこそ。



だからこそ、僕にはやるべきことがある。もう時間がない。あの少女がいなくなった今、地下室には誰もいない。つまり、餌がない。



今度の発作までに新しい少女を確保しなくてはならない。発作を止めるには、新鮮な生きた餌を与えるしかない。僕は、その晩一人の少女にメールを打った。次のターゲットとなる女だ。






日曜日。





僕は駅前で、ある少女と待ち合わせをしていた。県庁所在地であるこの場所は、僕が住んでいる地区とは違い、無数の雑居ビルが立ち並び、それなりに栄えている。新幹線が停車する駅でもあり、利用者も多く駅前は人で溢れていた。



これだけ人が多ければ、顔バレする危険も低くなる。一応、普段はしない帽子と眼鏡をかけてはいるが、それだけでは不安を拭い去ることは出来ない。なるべく、早く少女と接触したかった。



腕時計で待ち合わせ時間を確認する。すでに約束の時間から二十分も経過していた。あと、十分たって来なかったら帰ろう。そう決めていた。



 



「まつき……さん、ですよね? わたし」





「加奈ちゃんだよね。待ってたよ」





僕の前に、痩せた少女が姿を現した。ナツよりも背が高く、色が白かった。ただ、その白さは不健康という印象しか僕には与えなかった。



目の下には隈のようなものがあり、彼女の抱えている疲労を感じることが出来た。一瞬、本当に高校生なのかと疑ったほど、彼女からは大人の女性の色気を感じた。





「人が多いですね。日曜日だからかなぁ」





少女は、目を細め周囲を見渡した。彼女のボブヘアが揺れる度、強烈な香水の匂いがした。





「…………」





「無口なんですね。つまらないですか? 私といるの」





「そんなことないよ。喫茶でお茶でもしようか。ここは人が多すぎるし。ゆっくり、君と話をしたいから」





「はい。分かりました」 





違和感。





先ほどから何か違和感があり、それは僕に警鐘を鳴らしていた。しかし、その違和感が何であるのかまでは分からなかった。しばらく、様子を見ることにする。喫茶店に入ってからも違和感は消えることはなく、むしろ強くなっていった。



当たり障りのない会話で時間を消化していく。





「へぇ、松木さんって釣りが趣味なんですね。私もいつか釣りをしてみたいです」





偽名に嘘の趣味。他にも彼女には、たくさんの嘘をついている。僕は、完全に別の人間『松木』になりきっていた。





「今度一緒に行こうね。加奈ちゃんは、趣味とかそういったものは何かあるの?」



 



「趣味……ですか。特にないですね。これといって」





最近、この無趣味という子が結構多い。つまり、何に対してもさほど興味が湧かず、ただなんとなく毎日を過ごしている。時間は膨大にあっても充実した日など一日もないのだ。



僕も高校時代は、こういった類の人間だった。ナツに出会うまでは。





「このお店、雰囲気がいいですね。良く来るんですか?」





「いや、この店は初めて入ったよ。でも外見で判断して、この店は当たりだと思ったけどね。お店の前は、綺麗に掃除されててゴミ一つなかったし、お店の命である看板も綺麗に磨かれてた。裏路地にあるのに結構お客さんも多い。この辺に住んでる人たちの隠れ家的なお店なんだろうね、きっと」





僕は、ざっと店内を見渡した。



大学ノートに何かを記入している学生、寝ている赤ちゃんの横で携帯をいじっている母親。カバンからノートパソコンを取り出し、その画面を見てブツブツ何かを喋っているサラリーマンらしき男性。若者が少なく店内は静かで、ゆったりとした時間が店全体に流れていた。



 



「松木さんのご自宅ってどこなんですか?」





「神里駅から、徒歩二十分ってところかな。ここに比べたら、随分田舎だよ。海が近いってことぐらいかな、いいところは」





「……行ってもいいですか? ご迷惑でなければ」





加奈と名乗る少女は、遠慮がちに僕にそう言った。



「うん。大丈夫だよ。タクシーで行こうか、電車より速いし」





どうやら、この少女にかなり気に入られたようだ。あと数回デートもどきをしなければ、自宅まで連れてくることは無理だと思っていた。出会い系で知り合った少女と言っても焦りは禁物で、時間と金をそれなりに使わないと相手に嫌われ、逃げられる。今回のように、一回のデートで僕の家までついてくる少女は、過去にはいなかった。



思いの外、うまくいったことに内心かなり喜んでいた。これで、またナツも助かる。



タクシーの中で、ナツにメールを打った。新しい少女が手に入ったから、少しの間外出していてくれという内容。さすがに、家の中に奥さんがいたらこの少女も気分を害し、二度と僕には会ってくれないだろう。



家から少し離れた場所でタクシーを降りた。特に会話もなく家の前まで歩いた。





「ここだよ、僕の家は」





「一軒家なんですね。マンションかと思ってました」





「中古だけど二年前に購入したんだ。このまま何年も家賃を払い続けるより、経済的だしさ」





少女は、家を珍しそうに見上げていた。そして、なぜかクスクスと笑い出した。





「どうしたの?」





「い、いえ。なんでもないです」





僕は家の鍵を開け、少女を中に通した。メールで指示した通り、ナツの姿はなく、家の中は静まりかえっていた。





「綺麗なお部屋ですね。新築の匂いがします」





「買って、まだ二年だからね。ここに住む前は、借家にいたんだけど。職場に遠かったし、近所もうるさくて結構苦労したな」





僕は、キッチンで冷たい麦茶を用意していた。少女は、大人しくソファーに座っている。それを確認した僕は、少女が飲むコップに睡眠薬の少し青みがかった液体を入れた。スプーンで音を立てないようにかき混ぜる。





「足を伸ばして、ゆっくりしてていいからね。テレビ見ててもいいよ。今の時間は、つまらないドラマか、ニュースしかやっていないだろうけど」





「はい、分かりました。でも今は、テレビ見る気分じゃないので遠慮しときます」





僕は、麦茶とシュークリームが入った皿をテーブルに乗せた。





「こんなものしかないけど、食べて」





「いただきます」





一口だけ、シュークリームをかじると僕の方を見ながら麦茶を飲む少女。





「松木さんは、食べないんですか?」





「い、いやっ。食べるよ。シュークリームは大好物だからね」





僕もシュークリームにかぶりつく。甘ったるいクリームが、口全体に広がった。



横目で少女の様子を観察する。麦茶に入れた睡眠薬は即効性なので、十分もしないうちに効き始めるはず。





「松木さんって、教師なんですか?」





「えっ」





突然の少女の問いに上手く反応が出来なかった。少女には、僕が教師であることは隠している。バレるはずがない。





「僕は、ただの保険のセールスマンだよ。メールでもそう言ったでしょ? 教師なんかじゃないよ」





自分でも動揺しているのが分かった。心臓を落ち着かせ、演技を続ける。





「どうして、そう思ったの?」





「フフ、さぁ……どうしてかなぁ」





少女が、僕の顔を見てニヤリと笑った。薄気味悪い笑みだった。コッ、コッ、コッと壁時計の音だけが僕の耳に聞こえた。





「君は、」





会話を続けるとボロが出る。僕は、慌てて口を閉じた。





「……んぅ」





僕から視線を逸らした少女は、ダランと首を下げ、大きな欠伸をした。





「なんだか……眠くて。少し、横になっても……いいですか?」





「うん、いいよ。ゆっくり眠りなさい。今、毛布を持ってくるよ」 





それからすぐに少女は、静かに寝息を立て始めた。





「はぁ」





思わず、安堵の溜息が出る。



理由は分からないが、長時間この少女と一緒にいるのは危険だと僕は判断した。一刻も早くこの少女を地下室に監禁しなくてはいけない。



抱きかかえた少女の体は、見た目以上に重く、地下室に行くまで僕は何度も休憩を挟まなくてはいけなかった。やせ細ったこの少女のどこにこんな重さがあるのか、疑問だった。



二十分もかけて、やっと地下室に少女を入れると、その両手に鎖付きの手錠をし、両足を拘束具で固定した。完全に少女の自由を奪うとやっと心が落ち着いた。 



自分でもどうしてこんなに焦っているのか不思議だった。額から汗が流れる。少女に背を向け、歩き出した。





その時ーーーーー





「松木さんは、こんな変態な趣味を持っていたんですね。私、ショックです」





僕は、振り返った。少女は目を開け、上目遣いに僕を見ていた。その目からは、眠気を一切感じなかった。





「どうして……」



 



こんなことはありえない。ありえないんだ! 





あの睡眠薬は、通常二時間は効果が持続する。こんな数十分で効果が切れるはずがない。この少女は、確かに麦茶を飲んでいた。



薬の配分を間違えたのか? 





いやっ、そんなミスはしない。



適量だったはずだ。



なら、何故。





「『どうして』って、さっきも言ってましたよね。松木さんの口癖ですか? フフ。さっきの質問の答えですけど、アナタが教師だと分かったのは、匂いがしたからです」





「匂い?」





「はい、そうです。松木さんからは、いろんな若い男の子や女の子の匂いがします。しかも、ほとんどが処女、童貞の匂い。私が、好きな匂いなので良く分かります。こんな匂いを身につけている職業は、教師ぐらいしかありませんから」





「大人をからかうもんじゃないよ。そんな匂いが分かるわけないだろ」





僕の声は、震えていた。





「それが、分かるんですよ。だって、私はーーー」





少女は、視線を両手に下げると一気に手錠を引き千切った。





ギッーーーー。……シャリ。






ジャッリン!






今までに聞いたことのない金属の悲鳴が聞こえた。ジャラジャラと音を立てて落ちる手錠と鎖。自由になった両手でゆっくりと時間をかけて足枷を外す少女。



僕は、ただその異常な光景を黙って見ていることしか出来なかった。





「私、覚醒者なんです。覚醒者は、普通の人間より何倍も鼻が利くんです。犬や猫のように。驚きましたか?」





笑いを耐えながら、少女は告白した。それは、まるで悪戯のばれた子供のようだった。





『覚醒者』





その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏にナツの発作時の姿が浮かんだ。



この目の前の少女もナツと同じように体が変異するのか? 





「やっと今、分かったよ。君に抱いていた違和感の正体が。それは、『殺気』だ。僕だけじゃない。駅前にいた全ての人間を見るとき、君の目には尋常じゃない殺気を帯びた冷たい光が浮かんでいた。その目で物色していたんだろ? 餌となる人間を」





「凄いです! 私のことを観察していたんですね。それに、私が覚醒者だと知っても逃げることもしない。普通の人間なら腰を抜かしていますよ? フフ」





少女は、立ち上がるとコンクリートの壁をその白い指先で撫でていく。撫でるたび、その足元にパラパラと白い粉が落ちていく。少女の指先の爪は、すでに人間のものではなかった。軽く撫でるだけで、壁を深く抉り取っていく。五本の白線が、少女が歩いた分だけ伸びていく。





「アナタの奥さんも覚醒者なんですよね。前に一回、町で見かけたんです。アナタと奥さんが仲良く二人で買い物しているところを。血の臭いですぐに分かりましたよ。そして、嬉しくなったんです。私と同じ仲間が、こんなに近くにいたことに」





「僕と今日こうして会ったのは、君の計画だったの?」





「はい。そうです」





「目的は何?」





「さっき。アナタの奥さんを見て、私のような覚醒者がいて嬉しいって言いましたけど、あれは半分嘘です。まぁ、確かに最初見たときは感動すらしたんですけど。そのうち憎くなりました」





「憎い? どうして」





僕は、搾り出すように声を出した。それでも掠れた声しか出なかった。人間である僕に覚醒者は殺せない。たとえ今、拳銃のような殺傷武器を持っていたとしても結果は同じ。それほどの力の差が、人間と覚醒者との間にあることを僕はナツを見て知っていた。



少女の背筋は、ボコボコと盛り上がり、腕や足も太く凶暴に膨れていく。顔が縦長になり、一秒一秒経過するごとに人間の面影が失われていく。





「私には、恋人はおろか友達すらいない。それなのに、彼女には夫がいて幸せに暮らしている。そんなの不公平じゃないですか。同じ覚醒者なんだから、私と同じように彼女も不幸にならなくちゃダメなんです!」





理性を少し残した状態で、少女は僕に一歩一歩静かに近づいてきた。





「僕を殺すの?」





「はい。殺します。アナタを殺せば、奥さんもきっと不幸になります。そして、私のように孤独になります」





「ハハハハハハッ」





「何が可笑しいんですか?」





「君は、間違ってる。僕を殺したところで、妻は君のようにはならないよ。アイツはね、初めから幸せだったわけじゃないんだ。自分の運命を呪って、それでも歯を食いしばって頑張ってここまで生きてきたんだ。自分の力で幸せを勝ち取ったんだよ。君みたいに幸せになることを放棄した腰抜けじゃない。僕を殺しても、きっと立ち直る。君とは違い、必ず不幸を克服する。僕は、そう信じてるよ」





「だまれっ! ただの人間のくせに」





ナツ、ごめん。



もう少し、僕も頑張って生きたかったけど……ダメみたいだよ。最後に君の笑顔を見たかった。





あと少しだけ、一緒にいたかっ…………。





グチュ、グチュ。





ザァアァァー。





ザァァァ。





目の前が、霞んでいく。



自分の左胸からは、夥しい量の血が流れていた。自分が倒れている周りには、血の水溜りが出来ている。こんなに大量の血が体内に入っていたことに少し驚いた。僕は、こんな絶望的な状況なのに妙に落ち着いていた。



全身の力が抜けていくのが分かると『死』という存在が大きくなり、それが自分の上に覆いかぶさってくるようだった。それでも僕は、恐怖を感じていなかった。



目は見えなくなりつつあったが、そのぶん音には敏感になっていた。





誰かが、階段を下りてくる音が聞こえ、その足音が大きくなり、次に悲鳴のような声が聞こえた。そして、僕の体の前を大きな黒い影がザッと横切るとーーーー。





次にスイカが潰れるような音がして、パラパラと腹の上に何かが降り注いだ。床に何度も何度も何かを叩きつける音がして、その度に地震のように部屋が揺れた。泣き叫び、懇願する声が聞こえた気もしたが、すぐにそれも聞こえなくなった。





頭が、ボーとして。意識が曖昧で……。





体はダルくて、疲れていた。ゆっくりと目を閉じた。







【 木漏れ日ーーーー】






数十本の桜木に囲まれた学校。校歌が、第一体育館から聞こえてくる。



今日は、卒業式。俺は一人、教室に残っていた。ぼんやりと三階の窓から体育館を見下ろしていた。桜の花びらが、俺の前をひらひらと横切り、春の匂いだけを残していく。






「卒業おめでとう。九重君」





「気持ち悪いな、その呼び方。今まで通り、呼び捨てでいいよ」





「そう? じゃあ、九重。卒業おめでとう」





「あぁ。そんなことより、先生は出なくていいのか? みんな体育館に集まってる。早く行った方がいいよ」





「それは、九重も同じでしょ? こんなところにいたら卒業証書もらえないかもよ」





意地悪く笑う先生。背が低く童顔なので、相変わらず中学生のようだった。





「めんどくさいんだよ、あぁいう式。校長の話もバカみたいに長いしさ」





「アハハッ、確かに校長先生の話は長いよね。私も苦手だな。九重は、卒業したら鹿児島に行くんでしょ? 大学受かったんだよね。がんばったね。でも大学生活も大変だから気を抜いちゃダメよ」





背伸びして、頭を撫でようとする先生。反射的にその手から逃れた俺は、自分の席に腰を下ろした。





「鹿児島に親父の親戚がいるから、その人の空いてる部屋を貸してもらうんだ。大学行くには、金がかかるから少しでも節約しないとさ。バイトも探さないといけないし」





「フフ、変わったね。九重。なんかあの頃とは、別人みたい」





「そうか? 自分では良く分からないけど。先生は、このまま教師を続けるのか? そろそろアンタもいい年だろ。結婚とかしないのかよ」





「出来ないよ、結婚なんて。私みたいな化け物と結婚してくれる男なんていないよ。まぁ一人のほうが気楽でいいしね。土曜日とか、朝まで映画見てても誰も文句言わないし」





「いやっ、結婚してても映画は見れると思うけどな。そうか……。アンタも寂しい女だな」





「なによ、その目は。そんなに哀れむな! 九重だって、そんなにツンツンしてたら一生彼女も出来ないよ」 





怒って、教室を出て行こうとする先生。





「待っ」





ガシャンッ! 倒れるイス。





その時の俺は、どうかしていた。なんで、あんなことをしたのか分からない。気付いたら、俺は先生の左手を握っていた。先生の白く細い腕が、壊れてしまうんじゃないかと思うぐらい強く握っていた。



驚いて振り向く先生の目を見たら、俺の心臓がドクリと大きく跳ねた。



 



「先生……あの、俺。その」





「ダメだよ、九重。先生にこんなことしちゃ」





先生は、右手で俺の手を優しく掴み、自分の手から離した。俺は、どうしていいか分からず、ただその場に突っ立ってることしか出来なかった。



頭が、混乱して。とても恥ずかしく。言葉を考える余裕が、まるでなかった。





「今のことは、忘れます。だから、二度とこんなことしないでね。九重のためだから。大学に入ったらさ、可愛い子がいっぱいいるよ。さっき言ったのは、嘘。九重なら、すぐに彼女が出来る。だから、ね? 私は先生。ただの教師で、アナタは生徒。それ以上の関係になったら、ダメなんだよ」





先生は、優しく笑っていた。でも、俺にはその笑顔はとても悲しく感じられ、思わず涙が出そうになった。



先生は、こんな風に何度も異性を突き放してきたのだろう。どんなに自分が好きになっても、相手に嫌われることを恐れ、そして諦めてきた。先生の孤独は、俺なんかには想像も出来ない。先生の深い悲しみを理解することは、俺には出来ない。





それでも俺は。





先生の小さな体を後ろから抱きしめて、





「好きなんだ、先生のこと。大学卒業したら、必ず先生に会いに来る。それまで待っててくれ」





「はなして……おねがい」





「俺じゃ、ダメなのか?」





先生は、身を震わせて泣いていた。





「先生が、化け物になったって俺はかまわないんだ。先生一人だけ、悩む必要なんてないよ。二人でさ、幸せになろう。な?」





「…………」





バタンッ! 





先生は、強引に俺の手を振り解くと教室を出て行ってしまった。教室に一人残される俺。先生の涙の粒が、手の甲で光っていた。





「ハハ、フラれた」





冷たい机に頬をつける。






でも、これで諦めがつく。告白しないまま東京を離れたんじゃ、気になって夜も眠れなかった。今は、ショックだけど。いつか立ち直れる。だから、俺は今まで通り一人で好き勝手に生きよう。



良かったんだ、これで。少し期待していた自分が恥ずかしかった。





蛇皮模様の賞状筒に卒業証書を丸めて入れると、俺はそれだけを持って教室を後にした。



廊下では、浮かれた女子が写真を撮り合っていた。蹴り飛ばしたいほど邪魔だったが、なんとか我慢する。





「九重君、一緒に写真撮らない? 思い出にさ」





「ねぇ、いいでしょ? みんなも九重君と撮りたがってるしさ」





俺は、その言葉を無視して歩いた。背後で俺の悪口を囁く声が聞こえたが、今更気にもならなかった。



告白が失敗し、落ち込んでいる自分が何故か可笑しかった。下級生で賑わっている校門から出て行くのは、なんだか嫌だったので、校舎の裏からこっそりと出ることにした。





(最後まで、暗い高校生活だったな。まぁ、自分が悪いんだけど)





校舎裏は日当たりが悪く、しかも何年も手入れをしていないので、葉が細くて腐臭を発している雑草がそこらじゅうに生えていた。それらをガツガツ踏み潰しながら歩いていると、背後から声がした。



その声は、もう二度と聞くことのない声のはずで。忘れていた興奮が、また蘇ってきて思わず全身が震えた。





「正面から堂々と出ればいいじゃない。卒業のときぐらい胸張りなさい」 





「うるせぇな、俺の勝手だろ。アンタには、関係ない。でも、まぁ先生に会うのも今日で最後だからな。アンタの注意には、正直うんざりしてたから助かったよ」





自分でも、分かっていた。言いたいのは、こんなことじゃない。





「最後まで憎たらしい教え子ね。でも、なんでかな。こんなにも気になるのは………」





先生。俺、アンタに感謝してるんだ。俺を信じてくれた大人は、先生だけだから。





「私、待ってるよ。九重のこと。これ、私のアドレス。遅くなるかもしれないけど必ず返信するから」





先生は、アドレスの書かれたメモ用紙を投げた。腕力がないので、俺には届かずに手前でポトリと落ちた。雑草の中から、それを拾う。





「大学を卒業して、俺がまた東京に戻ってきたら」





俺は、先生の目を見つめた。先生も俺を見ている。二人の想いが初めて通じ合った、そんな数秒。





「その時は、俺と付き合ってください」





「……うん。でも、私そんなに若くないけど、それでもいいの?」





先生は、申し訳なさそうに口を尖らせて言った。とても可愛い仕草だと思った。





「先生は、若くて可愛いよ。制服着れば、高校生でもいけるんじゃないかな」





「少し嬉しいけど、後半は少しバカにされた気がするよ。童顔は気にしてるんだから、言わないで。お願いだから」





「分かった。なるべく、言わないようにするよ。そろそろ引越しの準備とかあるから、行くよ」





俺は、再び歩き出した。でも俺の足取りは、さっきよりも遥かに軽い。告白が成功し、宙に浮くような気分だった。





「本当に、私でいいの?」





その声は、悲しく草むらに響いた。





「生徒思いで、優しくて。信念を持って教師をしてる。今時、あんたみたいな馬鹿真面目な先生は珍しいと思うよ。俺は、そんな先生を好きになったんだ」





「……正直言うとね。すごく恐いの」





「恐い? なにが」



 



「いつか九重のこと、襲うんじゃないかって。殺してしまうんじゃないかって思うと恐くて仕方ないの。化け物になった時は、理性がなくなって自分でもコントロール出来ないから」





「俺なら大丈夫だよ。絶対に、先生は俺を襲わない。俺は、信じてる」 





…………そう言ったけど。





正直、確信はなかった。もし、先生が俺を襲ったとしてもそれなら仕方ないと思うし、好きな人だから許すことが出来る。



先生の罪は、俺の罪。二人で共有しよう。彼女は、絶対に俺が守る。どんなことをしても。どんな犠牲を払っても。





ッーーーー





雨? 





ここは、地下室なのに。





「ナツ……か。どうし……て?」





ここにいるんだ。外出していたはずなのに。





戻ってきたのか? 





しかも地下室にまで入ってきて。





約束しただろ? 





ここには、来るなって。





「……ごめんなさい。私のせいで、こんなに傷ついてしまって」





ポタポタとナツの涙が顔に落ちてきた。





「謝ること……ない…。僕が、た……こと」





あの少女は、どうなったんだ? ナツ以外の気配は感じない。



ナツが、殺したのか? 一瞬感じた黒い影は、覚醒したナツだったのか。見なくても分かるよ。完全に体を破壊されて、床で息絶えている少女の姿が。





「やっぱり、私は化け物なんだよ。サトルは、違うって言ってくれたけど。覚醒者は、ただの化け物。あの子ね、死ぬ間際私に言ったの。『私達は、絶対に幸せにはなれない』って。化け物は、人間ではないから。だから、人間のように幸せになることなんか出来ないんだよ。サトルと一緒にいる間だけは、忘れることが出来たけど。それでもやっぱり私は、化け物でしかない。人間を襲い、そして喰う、ただの獣でしかない」





「……………」 





それは違うよ。



僕は、高校で君に出会ってから、今までずっと幸せだった。僕たちは、立派に幸せを掴んだじゃないか。毎日笑って、喧嘩して。



ちゃんと人間してたろ?





「サトル。私はーーー」





「……ぃ」





声が、出ない。あと少し。



あと少しだけでいいから! 





息をさせてくれ。





震える左手を伸ばした。ナツは、その手を握って、自分の頬に当てた。柔らかい頬を涙が流れているのが分かった。





こんなに泣かせて、ごめん。





「サトルっ! 目を開けて。まだ、死んじゃダメだよ。ダメだよ。私と幸せに暮らすんでしょ? 約束したよね。……おねがいだから、目を開けて………」 





僕には、もう言葉を発する力はないけど、それでも僕のこの想いだけはナツに伝えなくちゃいけない。





「おねが……ぃ。目をあけてよ」





僕は、ナツに出会ったことを神に感謝してるし、こんな最期だけど後悔もしていない。高校の時、ナツに出会ったのは運命だと思ってる。死人も同然だった僕を暗い沼から引き上げてくれた。他の大人は、みんな僕を無視したけど、ナツだけは立ち止まって僕の話を聞いてくれた。





「うぅ……いゃ……」





だから、ナツは幸せにならないといけない。僕の死を引きずって、生きてほしくない。





僕を呼ぶ声が、だんだんと小さくなっていく。







ーーーーーーー。





ーーーー。









『ありがとう』








動かなくなった。死んでしまった。私は、サトルの頭を自分の膝の上に乗せ、何度も何度も頭を撫でた。





「きっと、サトルは天国に行けるよ。地獄に行くのは、私一人で十分だから。どうか、神様。サトルをお救い下さい」





私は、そっとサトルを床に寝かせると立ち上がった。自分の腕を見つめ、集中する。



すると、すぐに反応があった。違う生き物のように左腕が蠢き、日に焼けた男の腕のように太くなった。血管が皮膚を持ち上げ、更に腕に凶暴さが増していく。私の細かった腕は、数十秒で獣の腕と化した。



吐き気を堪えて、それを見つめる。この腕なら、簡単に自分の心臓をひねり潰すことが出来る。何も考えず即死できる。





「私も今からそっちに行くね」





自分の腕を胸に近づけた。目を閉じる。






先生ーーーー






「先生っ! やっと教師になったよ。自分で言うのもなんだけど死ぬほど頑張った」





「九重……わざわざ、私に会いに来たの? こんな田舎まで」





「だって、約束しただろ。戻ってくるって。ってかさ、なんで勝手に引っ越してるんだよ。探すのに苦労したよ。ほんと」





「ごめんなさい。急に会うのが恐くなって」





「まだ、そんな弱気なこと言ってるのか。少しは変わってると思ったけど、あの頃と同じだな。相変わらず、童顔だし」





「そのことは言わないで!」





「ハハ。もう一つの約束、覚えてる?」





「うん」





「先生………。いや、ナツさん。僕と付き合ってください。お願いします」





すごく嬉しかった。



サトルが、私に会いに来てくれたこと。私に告白してくれたこと。サトルの気持ちが変わっていなかったこと。そのことが、嬉しかった。





「ナツさん、泣いてるの?」





この人と一緒なら、私も幸せになれる。本気でそう思った。





「サトルと一緒にいたい。ずっと……ずっと」





トクン。





『ナツ。君は、死んだらダメだよ。君の体は、もう君だけのものではないんだから』





声が聞こえた。一瞬、サトルの声が。



私は、自分の胸を見つめた。





トクン……トクン……トクン。





いつの間にか、私の腕はひ弱な元の形に戻っていた。





「……っ」





再びあふれ出た涙を止めることは出来なかった。私は、泣いた。全身で泣いた。泣くこと以外何も出来なかった。



朝が来て、夜になって。また、朝が来て。ようやくこの涙が止まった。そして、私は生きることを決めた。





新しい命の存在に気付いたから。



私は、妊娠していた。サトルの子を。この子と一緒に生きていく。そして、幸せになる。





必ず!





一ヵ月後ーーーーー





私は、サトルとの家を売り払い、そして旅に出た。このお腹の子と幸せに暮らすことができる安全な場所を求めて。サトルは、私が幸せになることを望んでいる。だからもう、涙は流さない。天国にいる彼が心配するから。



山は、紅葉していた。もうすぐ冬が来る。その前に探さなくてはいけない。二人の安住の地を。





「わたし、幸せになるから。だから、天国で見守っててね」 





雲の隙間から見える夕日は、とても優しくて。照れたサトルのようだった。


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