転生【獣化②】

帰り道。





僕は、いつもの三倍以上もの時間をかけて家に帰った。歩いては、立ち止まり。また歩いては、立ち止まり。その繰り返し。





僕の後ろを歩いていた人が、追い抜く瞬間、変人でも見るような目で僕を見ていた。



 自分が、人間とは違う別の生物に変わったような錯覚。その気持ちの悪さは、家に帰っても全然消えなかった。





「ただいま……………」





「おっ! お帰り、サトルちゃん。随分遅いな、今日は。可愛い娘とデートでもしてたかな」





ちょうど、出勤前の父さんが靴を履いているところだった。父さんは、少し特殊な仕事をしている。ビシッとした黒のスーツとピカピカの革靴。サングラスをかけたその姿は、ヤ○ザのようだ。





「夕飯は、いつものように用意してあるから自分で温めて食べてくれ。寝る時は、部屋の電気を消したかチェックしてな」





「うん。分かってる。気をつけてね、父さん」





 父さんが、心配するかもしれない。僕は、平静を装った。それでも勘の良い父さんは、そんなわずかな僕の違和感を見逃さない。





「どうした? 何かあったのか」





 父さんは、僕の肩に手を触れようとした。





「っ!」





 僕は、その手から逃げるように家の中に入った。廊下で振り返る。





「なんでもないよ。そんなことより早くしないとお店の開店に間に合わなくなるよ。マミ姉さん待たせたら大変でしょ?」





「おう、そうだった。アイツは、時間にはうるせぇからな。行ってくる。何かあったら、メールなり電話をしろよ。店の方でもいいからさ」





「うん」





 父さんは、勢い良くドアを開けると颯爽と出て行った。僕とは違い、足も長く顔も日本人離れしており、映画スターのようにカッコ良い。父さんの良さは、僕に何一つ遺伝していない。悲しい現実だ。





 父さんは、駅ビルの四階でオカマバーをひっそりと経営している。もう店を開いてから五年になる。一部の熱狂的な客が毎日のように通ってくるらしい。僕も何度か店に行ったことがあるが、お店で働いている人は、皆良い人で僕を歓迎してくれる。ただ、テンションが高すぎるのとたまに出る男の部分に戸惑うこともある。





 父さんが作ってくれた甘過ぎるカレー(僕をまだ小さい子供だと思っているらしい)をお笑い番組を見ながらゆっくりと食べた。自分の好きな芸人がネタを演じている間、僕は全く別のことを考えていた。霊華が、去り際に放った一言。その言葉が、しこりのように僕の中で消えずに残っていた。





「くそっ……なんでだよ」





 カレーを半分以上残し、僕はふらふらと自分の部屋に戻った。







【僕は、獣。もう元の人間には戻れない】







 その夜は、朝まで浅い眠りが続いた。朝、起き上がると体のダルさと不快な頭痛が襲い、学校を休もうかと思った。でも今日は、どうしても学校に行き、確かめなければいけないことがある。もう一度、あの女の子に会って直接話を聞きたかった。思わず脳裏に昨日キスした光景が浮かぶ。いつもよりネクタイをきつく締め、気合を入れた。





 今朝は、霧のような雨が降っていた。傘を差そうかどうか躊躇するぐらいの微妙な天気。天気予報では、昼頃から晴れ間が覗くらしいが。



 登校途中でタケルに会わなかったのは幸運だった。タケルも父さんと同じく、僕の異変には気付きやすい。学校をサボり、またバイトでもしているんだろう。なんで、そんなにお金が必要なのかイマイチ分からないけど。



タケルには、いずれ自分が獣人だって正直に話そうと思ってる。でも今はその時じゃない。自分の中でまだ消化しきれていない問題が多々あるから。





「はぁ……」





 何度目かの重い溜息が、口から漏れた。もう必要のないマスクをいつも以上に重く感じた。





昼休み。屋上。



昨日と同じように購買で焼きそばパンを買ってきたが、今日はまだ一口も食べていない。食欲が湧かなかった。あの写真に写っていた人物が僕の背後に立っている気がして、僕は何度も後ろを振り返った。屋上に続く鉄の扉とまた目が合った。





「サトル。なんだ、その左手に持っている美味そうなものは?」





 足音が聞こえなかった。そのせいで、この女の子の接近に全く気付けなかった。まるで、忍者。ってか、今までどこにいたんだ。隠れられそうな場所もあまりない学校の屋上。



動揺したらこの女の子を長時間待っていた自分がカッコ悪く思えたので、僕は冷静に返答した。





「焼きそばパンだよ。見たことぐらいあるでしょ?」



「ない! 名前は聞いたことがあるが、実際に見るのはこれが初めてだ」 





そんな人間いるのか? 



信じられない。





僕なんか、パンと言えば焼きそばパンだけど。側に置いてあった未開封の焼きそばパンを女の子の前に差し出した。女の子は、僕とこの焼きそばパンを交互に見ている。その仕草が、小動物のようで可愛らしい。





「くれるのか? それ。でもそれは、サトルのだろ」



 遠慮してる。それが、可笑しかった。



「な、何笑ってる!」



そういえば、僕はまだこの女の子の名前を知らない。





「あげるよ、それ。僕の分はちゃんとあるからさ。これは、君の分だよ。遠慮しなくていいから。そんなことより、君の名前を教えてくれない? パンをあげる代わりにさ」





僕からパンを受け取った女の子は、封を綺麗に開け、その小さな口でシャクシャクと夢中で食べている。僕の話など聞いていない。



仕方ないので、女の子が食べ終わるまで待つことにした。



薄い雲の隙間から太陽が顔を出した。雨で濡れた屋上が、キラキラと光を反射して眩しい。



その光の粒が、女の子の後ろで弾けている。





「ふう……美味しかったぁ」





ピンク色した唇に青海苔を一つくっ付けて、満面の笑みで僕を見上げてくる女の子。





「そう? 良かった。また、買ってくるからさ」





僕は、カバンからティッシュを取り出すと女の子に差し出した。





「えっ……。こんなに食べてすぐトイレに行けと? サトルは、せっかちだな。さすがの私もまだ消化出来ていない。それにトイレには、トイレットペーパーと言うのがあってだな、これは水洗専用で」





「違うって! 口だよ、口。青海苔が付いてるんだよ」





「あぁ、なるほど。理解した。ちなみに私の名は、アンナ。だから、アンちゃんと気軽に呼んでくれ。呼び捨てでもいい」





さっき僕が言ったことは、しっかり聞いていたらしい。





『アンナ』





この名前は、一生忘れないだろう。なんせ、僕の初めてのキスの相手なんだから。





「どうした? 顔が赤いぞ」





「なんでもないよ。そんなことより、アンナに聞きたいことがあるんだ。獣人について」





獣人と言うキーワードを聞いた瞬間、アンナの顔色が変わった。その一瞬の変化に僕は戸惑う。唾を飲み込み、自分を落ち着かせてから、ゆっくりと話を続けた。





「昨日さ、アンナが言ってた獣人って言葉。僕の幼馴染からも同じことを言われたんだ。獣人って、黒い風に適応できる人間なんでしょ?」





「その通りだ。サトル、お前は獣人。もちろん、私も獣人だけどな」





やっぱり、そうか。数は少ないはずの獣人が、もう三人もこの学校にいる。他にもいるのかな、この学校に。僕は、核心に迫った。昨日からずっと確かめたかったこと。 





「その獣人がさ、あの…………。覚醒するとどうなるの?」





 ナツが、去り際に僕に放った一言。





『サトルは、勘違いしてる。獣人ってね、もう人間じゃないんだよ。だって私達は、覚醒したら人間を襲うようになるんだから』





おそらく、これは真実だろう。ナツは、嘘をつかないし。





「その話、ナツに聞いたんだな。彼女に私が話したんだ、それは」





僕よりも先に、ナツはアンナに会っていたのか。でも、これで納得。





「確かに、私達『獣人』は覚醒すると人間を襲うようになる。個体差はあるが、五年から十年程度で皆覚醒する」





「覚醒すると具体的にどうなるの? なんで人間を襲うの?」





「覚醒しても外見は人間のままだし、常に人間を襲うわけでもない。普段は、他の人間と何ら変わらない。しかし、体に発作が起きた時は、人間を襲うようになる。ちなみに発作時は、体が変異して獣のような醜い姿になるよ」





「嘘だろ……………」





「人間を襲うのは、その肉を喰う為。どうしようもなく人間の肉を喰いたくなるんだよ、覚醒者は。その衝動は誰にも止められない」





「嘘だ」





「さっきから、そればっかだな。まぁ獣人になったわけだし、これは運命。諦めな」







人間を喰う? 





僕が人間を。





父さんや大切な人をいずれ襲うかもしれないってことだろ、それは。嘘だと思いたい。これは、全部夢だと。でも現実に僕は、黒い風に適応出来る人間になった。アンナの言うとおり、これは運命なんだ。今は無理でも、いずれ受け入れなければいけない現実。とりあえず今は、覚醒しないことを祈ろう。それしか、今の僕には出来ない。







 ガッシャンッッ!







嫌な金属音が、屋上に鳴り響く。僕は、反射的に鉄扉に目を向けた。そこに立っていたのは、僕の悪友。





「おっ! 二人いる。サトル、お前も隅に置けねぇな。こんな可愛い子と学校の屋上で密会してさ」





タケル……どうしてここに。





いやっ、ここは学校なんだから誰が来てもおかしくないんだけど。タケルが、こんな昼間から学校に顔を出すなんて滅多になかったし。それにタケルには、僕が屋上にいることが分かっていたみたいだ。つけてきたのか、僕の跡を。





違和感。疑念。





なんだ、この感じ。空気が澱み、急に息苦しくなった。





「今日は、休みじゃなかったの? あ、アルバイトはどうしたんだよ」





緊張しているせいか、口が乾燥して上手く喋れない。その僕の緊張を見透かしたような細い目。その目から僕が感じたのは、僕の知らないタケルの深い闇。十メートル先にいる親友が、僕の知らない別人に思えた。





「あぁ………。お前には話してなかったな。今までやってた、あの深夜のバイト。昨日で辞めたんだ。もっと稼げるいいバイトが見つかってな。上手くいけば、一度に数十万貰えるんだ」





「へぇ、凄いね。ってか、ヤバイ仕事じゃないだろうね、それ」





今出来る精一杯の僕の冗談。



僕は、さっと二歩前に出てアンナを僕の後ろに隠すようにした。





「どうした? サトル」





タケルの登場以来、僕の中に眠っていた動物的な本能が危険を発している。





「ヤバイっちゃあ、ヤバイかな」





おもむろに濃紺のブレザーの内ポケットからタケルが取り出した物。





それはーーーー





「っ!」





折り畳み式のナイフだった。その刃が反射する光が、形を変えながらタケルの顔を不気味に照らしている。良く切れそうなナイフだ。僕は、そんな間抜けなことを考えていた。





「これさ、狩猟用のナイフなんだよ。ネットで注文して、やっと昨日家に届いたんだ。早く試したくてさ」





 試す? 何を。





 聞けなかった。それを聞いてしまったら、もう引き返せない気がして。





「コイツも奴らの手先か」





 アンナは、タケルの右手の中指を見ていた。中指には、黒い光沢のある高そうな指輪がしっかりと嵌められていた。その指輪は、お洒落と言うより何かの『誓い』のように僕には見えた。



 黒い指輪を食い入るように見ていた僕は、アンナが僕の前に出てきたことに気づかなかった。慌てて左手を掴んだ。細く白い腕。でも所々に古傷のようなものがある。





「大丈夫だ。心配するな」





 こっちが安心できる笑顔。大きな目。プックリとした可愛い唇。改めて、アンナの魅力に心が揺れた。





「知ってるの? 俺達のこと。じゃあ、今から俺が何するか分かるよな? 大人しくしてれば、傷つけないよ。俺の役目は、お前ら獣人を雇い主に引き渡すことだし」





僕は、もう友達じゃないのか? タケルは今、僕たち獣人を引き渡すと言った。獣人になったら、もう友達ですらなくなるのか。この現実を認めたくなかった。





「ちょっと待ってくれよ! 落ち着いて話し合おう」





「悪いな、サトル。これ以上、話すことは何もないんだ。お前のことは可哀想だと思うし、俺に躊躇がないわけじゃない。でも仕方ないんだ」





 もうやめてくれ! これ以上何も言わないでくれ。




 認めたくない。親友が、金の為に僕を売るなんてこと。でも、もう冗談で済ませられる域を超えている。これから、どうすればいいんだ。この状況を何とかして打開しないと。





「ちょっと調子に乗りすぎだよ。そもそもお前に私たちを捕らえることは無理だ。しかもそんなオモチャで」





「アンナっ!! 少し黙って」





これ以上、タケルの機嫌を損ねるのは危険だ。





「俺にはどうしても金がいるんだよ。妹の為にな。だから、ここで引き返すわけにはいかない。俺にナイフを使わせないでくれ。だからさ、大人しく捕まってくれよ。お前の血は………見たくない」





 妹? 確かタケルには、二つ下の妹がいる。名前は、確か……ミク。





「妹って。入院してるミクちゃんのことでしょ。ミクちゃんだって悲しむよ、こんな姿見たら。バカなことやめようよ」





「そんな、つまらない同情でこの場をやり過ごせるとでも思ってるのか? やっぱり、お前は甘ちゃんだ。でも……………まぁいい。サトル、お前は助けてやる。その代わり、そっちの女を俺に渡せ。それが取引条件だ。獣人でしかも覚醒者。二倍の値で売れるからな。お前の分は、それでチャラだ」





「かくせいしゃ? アンナが」





アンナは、何も言わずに微笑んでいる。覚醒したってことは、人間を喰うってことだろ。





アンナが人間を殺すのか? 



信じられない。



こんな細腕でどうやって人を殺すんだ? 



無理だ、どう考えても。





「獣人になっただけならまだしも覚醒までしたら、ソイツはただの化け物でしかない。さぁ、さっさとその化け物を渡せ。そして、お前は教室に戻れ」





『化け物』





その言葉を聞いた瞬間、頭がビリビリと痺れ、目の前が真っ白になった。体から恐怖が跡形もなく消え失せる。その代わり、怒りとか悲しみとか、そういう黒い感情がゴリゴリと僕の血管の中を流れ、全身を満たしていく。目頭が、異常に熱かった。





「いい加減にしろ」





僕は、一歩一歩タケルに近づいていく。もう我慢出来なかった。今のタケルは狂ってる。たとえナイフで刺されてもかまわない。このままアンナを渡すぐらいなら死んだ方がマシだ。





「サトルっ!」





僕の後ろでアンナが叫んだ。それでも僕の歩みは止まらない。



徐々に迫ってくる僕を見て、タケルは改めてナイフを握りなおした。もしかしたら、僕はここで死ぬかもしれない。それでも……アンナだけは助けたい。





「僕を止めてみろよ」





「死んでも知らねぇぞ。お前ら獣人を殺してもな、こっちはそれで罪に問われることはないんだ。組織が全部後片付けをするから。サトル、ここで死んだら無駄死にだぞ」





タケルの持つナイフが震えていた。明らかに動揺している。二人の距離はさらに縮まり、遂にお互い触れられる距離になった。タケルが、僕の影を踏んでいる。もし今、ナイフを僕の胸に突き刺せば、僕は確実に致命傷を負う。大量の血を流し、絶命するだろう。



絶え間なくこみ上げてくる吐き気を何とか耐える。





「タケルの雇い主は、僕たち獣人をゴミのように殺すんだ。僕は、もう人間じゃないのかもしれない。でも、まだ人間の誇りまで失っちゃいないよ。アンナを連れて行くって言うんなら、僕は死んでもお前をここで止める」





「ハハ、笑わせるな。素手で俺に勝つつもりかよ。ただでさえ、力のないお前が」





「そんなの関係ないっ! 止める、絶対に。タケルを止められるのは、僕だけだから」





 一歩も退かない。ここで下がったら、僕は人間として完全に終わる。そんな気がした。





「………バカだな、お前。死ぬのが恐くないのか?」





「恐いに決まってるだろっ!」





「………ハハ、ここは嘘ついてでも恐くないって言えよ。でも、お前らしいよ。なんか………面倒臭くなってきた。悔しいけど、俺にお前は殺せない。俺もお前に負けず劣らず甘ちゃんらしい。はぁ~~~~、このナイフさぁ、高かったのに無駄になりそうだ。リサイクルショップで売れるかな? これ」





僕の目の前には、さっきまで狂気に駆られた男ではなく、僕の知ってるタケルがそこにはいた。





「売れないよ。そんな悪趣味なナイフ」





「そっか………。お前といると、俺は一生貧乏から抜け出せねぇ気がする」





タケルは、右手に持っていたナイフの刃を静かに折り畳んだ。



 後ろを向いて、ゆっくりと僕たちから離れていく。そして、鉄扉に手をかけた。





「ごめんな………。サトル」





僕たちの前から姿を消した。再び閉まった鉄扉が、悲鳴のような不快な音を屋上に響かせた。タケルの後を追って何か言いたかったが、アンナのことも気になり、どうしようかしばらくその場で熟考していた。





「サトル。怪我はないか?」





「うん」





「こっちを見てくれ」





「……」





この顔を見られたくなかった。この泣き顔を。それなのに、アンナは僕の前に来て僕の顔を覗こうとする。仕方なく、僕は体の向きを変え、再び背を向けた。



すると、またアンナは前に来て顔を覗こうとする。僕は、体の向きを変える。



その繰り返しが、数分続いた。



クルクルと回転する僕とアンナ。傍から見たら、可笑しな光景だろう。



疲れた僕は、赤い目でアンナと向き合った。





「なんで私を避ける? 私が嫌いか?」





「嫌いじゃないよ。ただ、こんな泣いた顔を見られたくなくてさ。正直、凄く恐かったんだ」





僕の顔を見て、優しくクスッと笑うアンナ。





「可愛いな、サトルは」





そしてーーー





「むっ!!!」





キスされた。二度目のキス。今度も突然。でも今のキスは、一度目よりも長かった。



やっぱりキスっていいな。柔らかい唇、いい匂い。心が満たされていく。そんなことを痺れる脳で考えていた。





「カッコ良かったぞ、さっきは。やっぱり、私はお前が好きだ」




「なんだか、恥ずかしいな」



顔が真っ赤になる。足をプルプルさせ、背伸びをしているアンナが恥ずかしそうに僕の耳元でまた「好き」って呟いた。なんだか、ゾクゾクする。



キスは終わっていたが、一向に僕から離れようとしない。僕は、自然と後ろに後退した。このままの勢いに身をまかせていたら、きっと……あの。その、なんだ。色々と危険。





突然、背中が凍るように冷たくなり、思わず声を上げそうになった。閉められた鉄扉に背中が当たっていた。つまり、もう一歩も下がれない。





「サトルの全身から期待と興奮を感じる。逃げる振りをしているが、実際は期待しているんだな?」





そんなこと言わないでくれ! 心を読まれるのは死ぬほど恥ずかしい。





ガンガンガン! 



ガンガンガン!





背中から扉を叩く音がして、その音は脳にまで響いた。





なんだ? なんっ……。あっ!





鉄の扉が勢い良く開いたせいで、僕はアンナを抱きかかえる形で倒れてしまった。アンナは、潤んだ目で僕を見ていた。





「……急に積極的だな。うん、でも屋上でこんなことしたら風邪を引くかもしれんぞ。せめて、放課後の教室とか」





そんな具体的な設定を言わないでくれ! 想像してしまう。



 慌てふためいている僕の頭上から、この世のものとは思えない地の底から響くような低い声がした。





「昼休みが終わっても教室に戻ってこないから、心配して来てみたら……随分と楽しそうなことしてるね。サトル」





 ナツっ! なんで、ここに。



殺気がビンビンと伝わってきて、後ろを振り向けない。               



「ナツか。どうした? サトルに用事か。今は、忙しいからまた後にしてくれ」





 僕の下からアンナがそんなことを言うもんだから、僕はさらに動揺し、もう何がなんだか分からなくなった。





「アンナさん。ここは、学校なんですよ。こういう行為は、絶対にダメです」





 風紀委員みたいなことを言う。





「そうか。分かった。じゃあ、今から私の隠れ家に行こう。そこでなら、誰の目も気にしないでいいからな」





「へ?」





 マヌケな返事しか出来ない僕。僕の下からモソモソと這い出たアンナは、立ち上がるとまだ倒れている僕に手を差し伸べた。その手を握ろうとした僕に、シュッ、と素早く別の手が差し出された。その手の主は、ナツ。





どちらの手を握ろうか………。





「サトル。いつまで授業サボるつもり。さっさと教室に戻るよ。いいね!」





「サトル。私と行こう。な?」





どうしよう。どっちが正解なんだろう。こんな苦しい二択を迫られたのは、人生初めて。どうすれば、この場を上手く切り抜けることが出来るのか。





「行くよっ!」





「私が嫌いか?」





 う~ん。





ヴウゥーーーーーーーー、


ヴウゥーーーーーーーーーーー





町のサイレン。黒い風が来る。





「……………」





「……………………」





「……………………………」





 僕は、酷くマヌケな格好で黒い風がやってくる山を無言で見つめていた。きっと、その時の僕たちは、三人揃って同じ顔をしていたに違いない。





ーーーーーーーーーーーーーーーー



 



 夕方になり、学校をあとにした僕たち四人は、アンナの隠れ家に集まっていた。町外れの廃ビル。その六階部分をアンナは自分の生活エリアにしていた。一通りの家具、テレビやラジオなどの家電も揃っていた。それでも家と言うより秘密基地のような印象だった。フロアの中央には、緑色の巨大なテントが建てられており、そのテントからはアンナの制服が透けて見えた。ドキリとする。慌てて僕は、下を向いた。





「こんなところに隠れてたのか。どうりで見つからないわけだ」





「なんであんたがここにいるのよ」





「いいだろ、別に。俺の勝手だ」





「いいわけないでしょ、この裏切り者っ! サトルを殺そうとしたんでしょ。もう最低を通り越して、私があんたを殺してやりたい」





「もういいよ。タケルだって妹の手術費用を稼ごうとしてやったことだし。気持ちは、分かるし」





タケルの本音をここへ来る途中で聞いていた僕たちは、タケルの先ほどの行為を許していた。一人を除いて。





「絶対に許さないから」





「あっそ。うるせぇ女」





取っ組み合いの喧嘩になりそうな雰囲気。どうしようかと焦っていると甘い良い香りがどこからともなく漂ってきた。この匂いは、ココア。アンナが、僕たち三人にココアが入ったマグカップを手渡す。いつの間に湯を沸かしたんだろう。





「はい、どうぞ」





「どうも」





「あ、ありがとう」





「ありがとうございます」





三人揃って、ゆっくりとココアを飲む。喉から胃、さらに全身が温かくなるのを感じた。その後、僕は学校にあるようなパイプ椅子に座り、ボーと天井を見上げていた。





突然、ガタッと何かが倒れる音がして、僕は飛び跳ねるように音のした方を見た。





「タケルっ! どうした」





タケルが床に頭をつけて倒れていた。笑わせる為とかそんなんじゃない。僕は、タケルを抱きかかえ起こした。息はしているが、目が虚ろでぼんやりとしている。額の汗が、頬を伝っていた。





「これ絶対、医者に診せた方がいいよ。やばいって!」





「心配しなくても大丈夫だ。数時間もすれば元に戻る。色々とコイツには聞きたいことがあったからな。私特製の自白剤をココアに混ぜたんだ」





「自白剤……。タケルから何を聞くって言うんだよ」





「サトルだって、本当は気になっているんじゃないの? どうやってタケルが私たちの存在に気づいたのか。知りたいでしょ?」





「それは………………」





言葉に詰まる。確かに気になっていた。屋上でタケルは、僕たちを獣人だと簡単に見抜いていた。外見からじゃ、決して分からなかったはずなのに。





アンナは、僕の側に来るとタケルの両脇を支え、強引に椅子に座らせた。そしてタケルの前に自分の椅子を持ってきて、ピョンッと椅子の上に飛び乗った。





「いくつかお前に質問がある。まず、どうして私たちが獣人だと分かった?」





「声がした、声が」





バシッッ! 





アンナはタケルを思い切りビンタした。タケルの口の端から血の混じったヨダレが垂れる。ナツを見たが、唇を噛んでこれを凝視していた。止める気はないようだ。





「おいっ、やりすぎだろ」





僕の言葉を無視して、アンナは質問を続けた。





「もう一度だけ聞く。今度ふざけたことを言ったら、お前の爪を剥いでその爪を食わせるぞ。いいな。どうして私たちが獣人だと分かった?」





「…………ゆびわ。ゆびわの色でわかる。普通の人間は、白。獣人だと赤。覚醒者が側にいると黒くなる」





タケルの中指を見る。今も黒く輝いている指輪があった。この指輪で獣人かどうか識別していたのか。こんなものを所有している敵の脅威を改めて感じた。





「私たちが、獣人だと誰が知ってる。お前の他に」





「誰も知らない………。誰も。俺は、ただ学校の中にいる獣人や覚醒者を見つけるように頼まれただけ」





「誰に頼まれた?」





「…………………」





「答えろ」





「………………っ」





黙るタケル。ぎりぎりと歯を噛んで何かに耐えている。口からは白い泡をふいていた。自白剤でもこの抵抗。よっぽど、言うのが嫌なのだろう。もし僕たちにそれを話してしまったら、タケルの身が危ないのかもしれない。それに、妹さんにも危険が及ぶ可能性もある。平気で人殺しするような連中だし、どんな残忍な手段に出るか分からない。





「タケル、もういいよ」





「誰に頼まれた?」





「アンナっ! もういいって言ってるだろ。十分だ、もう。僕たちの正体は、タケルは絶対にばらさないよ。タケルが黙っていれば、僕たちは安全だ」





「どうして、そう言い切れる。仮にだ、コイツの妹が組織に拉致されたとする。そして、私たちのことを話さないと妹を殺すと脅したらどうなる。それでもコイツは、大事な可愛い妹の命より私たちをとるかな」





「それは……」





「それに、コイツが黙っていたとしても安全ではないよ。コイツを雇っている奴は、学校に獣人がいると疑っている。獣人や覚醒者を捕まえるまで、いつまでも探し続けるはず。金さえあれば、何人でも雇えるしさ。コイツの雇い主を知る必要があるんだよ、どうしても」





確かにそうだ。雇い主がいる限り、僕たちはいつ捕まってもおかしくない。考えが、甘かった。追われる身だと自覚しないといけない。これからは、死ぬまで奴らから逃げ続けないといけないんだ。警察ですら、捕らえることのできない危ない奴らから。





「こうちょう……………」





「校長? 嘘だろ。学校の校長が、僕たちを捕らえるようにタケルに命令したの?」





「でも納得はできる。校長は、私たちみたいな危険分子は排除したいのよ。学校としてもその方がいいに決まってるし」





「もう勘弁してよ。僕たちが、何をしたって言うんだ。悪いのは、一方的に奴らの方だろっ! 僕たちは、獣人になりたくてなったわけじゃないのに。頭がおかしくなりそうだ。なんだよ、これ。なんで、なんでだよ! くそっ」





思い切り壁を殴った。殴っても殴っても虚しさは変わらなかった。





なんでこうなった? 





数日前まで普通の高校生だったのに。日に日に酷くなる頭痛。





「サトル…………」





心配そうに僕を見つめているナツ。





「大丈夫。大丈夫だから」





アンナは、強引に僕の頭を自分の胸に寄せ、ゆっくりと僕の頭を撫でた。優しい匂い。幼い頃見た母さんの後ろ姿が一瞬頭をよぎった。アンナの純粋な愛に癒されていく。





「ごめん。辛いのは、僕だけじゃないのに。ありがとう。もう大丈夫だよ」





ゆっくりと深呼吸。僕は、覚悟を決めた。



「今夜、この町を出るよ。これ以上、ここに残るのはあまりにも危険だ。でも逃げてばかりもいられない。だから、いつか必ず。仲間を集めて奴らを一掃する。このままじゃ、ゴミのように殺されていった人たちがあまりにも可哀想だし、何より僕たちが安全に暮らすためには奴らを排除するのが一番いい」





「………私も。町を出る。私がいたら、パパやママにも迷惑かけちゃうし」





ナツは、涙を耐えた目でそう語った。でも最後まで泣かなかった。女って強いな。本当にそう思う。






僕たちは、しばらく帰れないであろう我が家に別れを告げた。




午後九時。




簡単な身支度をした後、僕とナツは、アンナの隠れ家に集合していた。僕の荷物は小さなリュック一つだけ。中身は着替えや歯ブラシ、携帯ラジオなど。父さんのへそくりからお金を借りた。必ずこのお金は返す。父さんに会って。





「遅いね、アンナさん。何してるのかな。約束の時間は過ぎてるのに」





 時計の針は、九時二十分を指している。悪い予感がした。予感だけで終わってくれればいいけど。





「学校に行ってみよう」





僕は、走った。





「ま、待ってよ。サトル!」





後ろからナツの声がしたが、僕は立ち止まることなく学校まで走り続けた。久しぶりに全力で走ったので学校に着く頃には汗だくで、しかも酸欠のせいか軽い目眩を起こしていた。





「待ってって言ったのに」





僕のすぐ後ろには、ナツがいた。息が全然乱れていない。さすが陸上部。僕たちは、職員用の玄関から学校の中に入ると暗い廊下を突き進んだ。外の体育館には電気が点いており、賑やかな声が時々聞こえてくる。ママさんバレーの練習だろうか。二階に上がり、角を曲がるとすぐに目的の場所を見つけた。





 【校長室】





外から中の様子は分からなかったが、物音は全くしなかった。中も真っ暗なようだ。





「誰もいないみたいだね」





良かった。悪い予感は、外れたみたいだ。





「中に誰かいる」





ナツは、扉を開けると中に入った。僕も慌てて後を追う。



悪い予感は、的中した。ソファーの奥。校長のデスク近くにアンナがいた。





「アンナ? 何してる」





返事がない。部屋の電気を点ける勇気はなかった。見てしまうのが怖かった。





「たすけ…て………くれ」





 アンナの左手に顔を鷲掴みにされている校長。か細い声が手の隙間から聞こえてきた。



雲の隙間から顔を出した三日月が、その青白い光で部屋を照らしていく。部屋の左右に広がる書架には、卒業アルバムや専門書籍が綺麗に並べられていて、賞状やトロフィーも棚にいくつも飾られていた。そんな校長室で今、一人の少女が人を殺めようとしていた。





「アンナ………」





名前を呼ぶことしか出来ない。



校長を苦しめているアンナの左腕は、筋肉が盛り上がり、まるで変成岩のような硬さを感じた。腕の太さは、男である僕の五倍以上はありそうだ。そんな凶暴な腕が華奢なアンナの体から生えており、体のバランスが異様だった。





その時、爆竹の何倍もの強烈な破裂音が部屋に響いた。その後すぐに鼻に焦げた臭いが飛び込んできた。





「なっ、」





校長の右手には、しっかりと拳銃が握られていた。その銃口から白い煙が出ている。アンナの口には大きな黒い穴が開いており、飛び散った肉片は壁を真っ赤に染めていた。





「いやぁあぁ!」





 ナツは両手で顔を覆い、床に崩れ落ちた。僕は、まだ映画を見ているような感覚でその場に立っていた。アンナは、血だらけの顔で花魁のような妖しい微笑を浮かべながら、落ちた自分の歯を拾っていた。その仕草から、知能の低下を感じた。





聞いたことのないミシリ、ミシリと言う音。アンナの体は、どんどんと大きくなっていく。左腕だけでなく、全身の筋肉が重曹のように膨れあがり、すぐに背筋で校長の姿が見えなくなった。



僕の目の前にいるのは、アンナではない。




人間を捕食する『覚醒者』そのものだった。今のアンナにとって、校長は敵ではなく、ただの餌。その後、何発も銃声は聞こえたが、アンナの前では水鉄砲のように無意味な攻撃だった。ダメージを与えることは出来ない。傷を負っても、すぐに回復し元の姿になる。先ほどの顔の傷も数秒で完治していた。





「これが、覚醒者………」





僕もいずれ、あのような姿になるのか。





ボキッ、ボキッ。



くちゃくちゃ。





校長は、呆気なく死んだ。声がしなくなるとアンナの咀嚼音だけがいつまでも部屋に響いた。僕は、気絶したナツを抱きかかえ、部屋を出た。



部屋を出て、すぐに廊下に吐いた。どんなに吐いても気分は良くならず、最後の方は、胃液しか出なくなった。



十分ほどしてナツが目を覚まし、僕とナツは校長室の前でアンナが出てくるのを無言で待っていた。三十分後、ようやく校長室の扉が静かに開いた。中から出てきたのは、僕が知っているアンナだった。





「私を待っててくれたのか?」





「うん」





「逃げたかと思った。あんな姿、サトルに見られたくなかったな」





「あれが、覚醒者。今は、大丈夫なの?」





「あぁ。今は、問題ない。ただ、覚醒時の発作はいつも突然だから、いつまた襲ってくるか自分でも分からないんだ」





「その発作を鎮める方法はないんですか? 抑制剤のようなものは」





今まで沈黙していたナツが口を開いた。





「今のところはない。ただ私の仲間が、薬を開発中だ。いずれ、完成する日が来るだろう」





いずれっていつだ? 





今日や明日ではないことは確か。




僕たちは、学校を人の目を気にしながら脱獄するように出ると、その足で駅に向かった。駅のホームで電車を待っていると僕たちを呼ぶ騒がしい声がした。





「俺に黙ってどこ行くんだよ! 友達だろ」





 走ってきたのか。タケルの頬は赤く(アンナにビンタされたから?)、白く蒸発した汗が頭から立ち上っていた。





「何しにきたのよ、この裏切り者」





「いつまで根に持ってんの? この性悪女が」





 ガミガミと言い争っている二人を見ると安心出来た。変わらない友情を信じたい。





「タケル、元気でね。妹さんに宜しく。手術受けるお金、何とか出来れば良かったんだけど………。ごめん」





「サトル、お前本当にいい奴だな。涙が出るよ、マジで。金のことなら心配するな。何とかする。それよりもお前は、自分の身の安全だけ考えていろよ。いつ襲ってくるか分からないからな。奴らは、諦めていないぞ」





タケルと握手をする。タケルは、もうあの指輪をしていなかった。電車に乗り込み、発車した後もタケルは大声で僕たちを励まし続けてくれた。友との別れ。父さんとの別れ。明日死ぬかもしれない運命。状況は最悪だが、それでも僕は絶対に諦めない。





「そういえば、ナツの夢って何?」





「私? 私の夢かぁ。一つだけあるよ」





「サトルは、渡さんぞ! 絶対に」





「ちっ、違います。そんなんじゃありません! 教師になるのが夢、かな」





少し照れくさそうにナツは言った。その目は、希望に満ちている。少し速度を速める電車。僕たちの前を過去が通り過ぎていく。







十年後。







 僕は、またこの町に戻ってきた。久しぶりに見る我が家は十年前のままで、懐かしさと安堵が心を満たした。





突然、家のドアが開き、出勤前の父さんが家から出てきた。相変わらず、映画俳優のようにカッコがいい。父さんは、僕たちを発見すると銅像のようにしばらくその場で固まっていた。そして、一言。





「おかえり」





「ただいま、父さん」





「随分長い家出だったね。父さん、こんなに老けてしまったよ」





確かに父さんの顔には、以前はなかった皺が何本もあった。何の罪もない父さんに、僕のことでこんなに苦労をかけてしまった。謝っても謝りきれない。





「ごめんなさい。ろくに連絡もせずに。本当にごめんなさい」





「たまぁにナオちゃんからの手紙で、大体の状況は把握してたよ。こんな状況なんだから、連絡出来ないのは仕方ない。今、元気ならそれでいいよ。さぁさぁ、中に入って」




懐かしの我が家。父さんは、忙しなく電話をかけたり、家中を動き回っていた。





「夕飯は、お寿司でいいかな。それとも肉? まぁ、どっちも食べればいいか!  今夜は、パーティ。店を貸し切るぞ」





僕たちを狙う組織の大半は、この十年でほぼ壊滅させた。世界中にいる獣人が協力、支援してくれたおかげで実現出来た。ただ、僕たちはまだまだ組織と戦わないといけない。僕たち『覚醒者』が、本当に笑って生活出来る未来を手に入れる為に。


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