転生【獣化①】


【黒い風は、人間を殺す】






昼休み。





屋上。





 僕は、フェンスに寄りかかりながら焼きそばパンを頬張っていた。購買で売っているパンは、人気が高く即売り切れてしまう。今日は、運が良かった。悪友タケルは、昼休みになるとどこかへフラっと行ってしまった。もしかしたら、今日はもう学校には来ないかもしれない。





タケルは、まるで猫のような感じ。





誰にも縛られず、自分勝手に行動し、自由を謳歌している。僕は、彼のそういう所を羨ましいとさえ思っている。僕にはないものをタケルはたくさん持っている。





ヴゥゥーーーーーーーー!!





ヴゥーーーーーーーーー!!





「!?」





空が震えるサイレンの音。町中に設置されている防災無線塔の巨大スピーカーから警報を知らせるサイレンが鳴り響いている。





「はぁ……今日は、来ないってニュースで言ってたのになぁ」





 僕は、カバンからテロ対策で軍も使用している防毒マスクを取り出した。それを素早く顔面に装着する。ベルトを頭の後ろに回して長さを調節し、締める。最後に、マスクの左右に設置されている吸収缶を手で塞いで、息が出来るかどうか確認する。息苦しさを感じたら、装着完了。





この一連の動作を一分以内に終わらせなければいけない。なぜなら、サイレンが鳴ってから『黒い風』がやってくるまで一分弱しかないから。僕たちは、このマスクを装着する動作を小さい頃から体に教え込まれている。今なら、目を瞑っていたとしても三十秒で装着出来る自信がある。





マスクをつけた状態でフェンスの外を眺める。田舎でもなく都会でもない。海はなく、山しかないこの町、神屋町(かみやちょう)。僕が、産まれてからずっと暮らしている町。





携帯を開き、時間を確認する。そろそろサイレンから一分が経過する。さっきまで穏やかに電線の上で鳴いていた鳥が、逃げるように飛び去った。すべての車が、青信号にも関わらず停車している。黒い風が吹いてきた場合のみ、即停車が法律で定められているから。





外を出歩いていた人々も既にマスクを装着済みで、かくれんぼをしているかのように息を潜めていた。僕も黒い風を何度となく体験してきたが、未だに慣れない。緊張で手先が震えている。





 来たっ!





山の向こうから、夜より深い闇がやってきた。その闇は、町を飲み込もうとまるで生き物のように左右に広がり、襲ってくる。音がないので、余計にその速さが分かる。僕がいる屋上にも闇が覆い被さってきた。



 一瞬、マスクをしていることを忘れ、息を止めてしまった。





「……………」





無音。





今、黒い風の中に僕はいる。



十月も後半だと言うのに、この風の中は妙に生暖かい。自分の足元を見るが、暗くて何も見えなかった。宇宙にいるような感覚。





 黒い風。





これは、一体何なのだろう。その答えは、専門家ですらまだ出ていない。僕は、無宗教だから本気で神様なんて信じているわけじゃないけどこれは、人間に対する罰じゃないかな。環境破壊の代償とか。地球温暖化を引き起こした悪人だから。実際、この黒い風の影響を受けるのは、人間だけで周りの動物たちには無害だし。神様が、僕たち人間を皆殺しにして地球を浄化しようとしているのかもしれない。





「まさか、ね」





 突然、光が目の前に溢れた。眩しくて、しばらく目を開けられなかった。黒い風が消えた。





現れる時も消える時も突然。悪夢を見ているかのようだ。毎回長さは違うが、平均して三十秒ほどで黒い風は、消える。





多いときは、一日に三回。少ない時は、月に数回程度黒い風はやってくる。



ベルトを緩め、マスクを外す。ひんやりとした空気が、顔に当たり気持ちが良かった。昼休みも残りわずか。僕は、マスクを持って屋上と四階とを繋ぐ鉄扉に手をかけた。





「お前、サトルだろ?」





「っ!?」





背後から声がした。反射的に振り返る。そこには、小さな女の子がいた。



今までどこに隠れていたんだろう。そんな僕の疑問の答えが出るよりも早く、また女の子は僕に話しかけた。





「日本語分かるよな、お前。サトルかって聞いてんだけど」





 随分、言葉遣いが悪い女だ。腰まである長い黒髪と小さな顔、背が低くてとても高校生には見えない。でも、お人形のように目が大きく二重で可愛い子。





「そうだけど。今までどこにいたの、君」





「そんなつまらない質問に答えるほど私は暇じゃない。そんなことより……」





 女の子は、僕にズンズンと近づいてくる。あまりにも近くまで来るので、僕は後ずさった。





なんなんだ? この子。





「どうして逃げる。私が嫌いか?」





 いや、嫌いとかそういう問題じゃないんだけど。



なんだ、なにする気だ?



 頭が混乱する。昼休み終了のチャイムが鳴った。





「ほ、ほら、昼休み終わっちゃったし。教室に戻ろうよ、ね?」





 僕は、女の子がこれ以上接近出来ないように人差し指で教室がある方向を指差した。瞬きする回数が、増える。動揺が、全身から漏れ出ているのが自分でも分かった。



しかし、それを無視して、さらに僕に近づく女の子。揺れる学校指定の大きな紫色のリボン。紫は、一年の女子と決められているので、僕と同学年だと分かった。





「あのさ、あの……えっ……と」





「黙って。悪いようにはしないから」





言葉がまとまらない。女性とここまで至近距離になったのは、小学生以来だ。お互いの息がかかるぐらいの距離。心臓の音を聞かれるのではないかと心配になった。



 彼女の綺麗な目に見つめられ、僕は自分でも分かるぐらいに顔に熱が集中しているのを感じていた。生唾を何度も飲み込む。





「前から、お前を確認したかった。よしっ! 確かにお前も『獣人』だな。でも、まだ覚醒はしていない」





獣人? 



覚醒? 



漫画の話かな。





「キスしろ。私と」





 キス? あれ、キスってなんだっけ。確か、そんな魚がいたような。食べたことないけど。



女の子は、必死に背伸びをして顔を僕に近づけた。目と口を両方閉じている。





えっ……と、キスってそのキス?



嘘だろ、嘘に決まってる。この子は、僕をからかっているんだ。もしかしたら、まだこの屋上には誰かが潜んでいて、僕のことを今も笑って見ているかもしれない。





いや、そうに決まってる!





「あのさ、僕だってそこまでバカじゃない。こんなのありえない。急に君みたいな可愛い子とそんな、キ、キ、キスなんて出来る状況、あるわけない」





 自分でも呆れるぐらいに動揺している。女の子は、目を開け、そっと呟いた。





「私が信じられないのか?」





 そんな涙目で見つめられてもダメだ。演技に決まってる。僕を試しているんだ、きっと。





「信じられるわけないだろ。今さっき会ったばっかりなのに。もう行くよ」





 僕は、百八十度回転し、再び扉に手をかけた。もう振り返るつもりはない。





「そうか……残念だ。えいっ!」





 女の子は、一歩後ろに下がり、そして思い切り僕の股間を蹴り上げた。直接見なくても、この激痛で何をしたのか分かった。



なんの躊躇もない急所攻撃。





「うっ……………」





それ以上声が出ない。両膝を地面についた。





なっ、なんで! なんでだよ、くそっ。突然やってきた強烈な痛みに頭が真っ白になった。





「くそぉ、僕が、何したっていうんだ。ぃててて」





この女、頭どうかしてる。僕は、その場に蹲り、必死に痛みに耐えた。





「素直にならないお前が悪い。私だってこんなことはしたくなかった。私は、背が低いからこうするしかないんだ。許せ」





女の子は、ゆっくり腰を折り、コンクリの床でまだジタバタしている僕の顔をその両手でそっと持ち上げ。





そしてーーーー





キスをした。





「っ……」





「!!!!!!?」





その瞬間だけ、痛みとかそういう余計なものを全て忘れることが出来た。柔らかくて、ほんのり甘い匂いがして。僕の初めてのキス。今まで空っぽだった心の壷に、ジャバジャバと何かが満たされていく感じがした。





「これが、キスか。初めてしたが、なかなかいいもんだ。今、はっきりと確認した。お前は、獣人で間違いない。唾液がそう語っている。今日から、お前は私達の仲間だ」





そう言うと女の子は、まだ床でどうしたもんかと悩んでいる僕を放置して、さっさと扉を開けて出て行ってしまった。



 女の子は消えても僕は、しばらくその場から動けなかった。痛みはもう消えていたが、気持ちの整理がなかなか出来なくて、立ち尽くしていた。                   



 結局、午後の授業を全てサボった僕は、放課後まで屋上で過ごし、あの女の子のことをずっと考えていた。





そういえば、名前聞いてなかったな。また、会えるだろうか。まぁ同じ学校、しかも同学年なら会える確率は高いだろう。今さっき自分の身に起きたことを考えると興奮して落ちつかない。



もしかして、これが一目惚れと言うやつか。屋上は寒かったが、心はいつまでもポカポカ温かかった。





キーンコーンカンコーン。





キンコーンカンコーン。





放課後になり、部活をしていない帰宅部の僕は、正面玄関で靴を履き替えていた。その時、親しみのある声が僕の名を呼んだ。幼馴染のナツだ。





「サトル。なんで午後の授業サボったの? やっぱり、アイツの悪影響ね」





「タケルは関係ないよ。ただ、ダルかったから休んでただけだし。ナツは、これから部活だろ? 僕は帰るけど頑張ってね」





僕は立ち上がり、カバンを持った。はぁ、重い。





「ちょ、ちょっと待って! 私も今日は部活ないの。一緒に帰ろ」





 そう言うと急いで階段を上がっていった。仕方ないので、しばらく玄関で待つことにする。知らない生徒にジロジロと見られた。ほどけていない靴紐を締めなおしたりして、この居心地の悪い時間を何とか消化した。





「お待たせ。じゃあ、行こっか」





「うん……」





 本当に部活ないのかな。雨ってわけでもないし。まぁ、休みたい時ぐらいあるだろうけど。





「どうしたの?」





「なんでもないよ。これから、どうする? クレープでも食べて帰ろうか」





「私、鯛焼きの方がいいなぁ。ダメ?」





 上目遣いで僕を見る。高校に入学してから、ナツは女の色気が出てきた。幼馴染の成長に正直僕は戸惑っている。





 学校からの帰り道。





地獄坂を下りると、僕たちの前に左右に分かれる道が現れた。左に行くと僕たちの家がある住宅街があり、右に行くと駅がある。僕たちは、迷わず右に曲がった。



 三年前、駅前に出来た巨大なデパート。その地下一階には、クレープや鯛焼き、たこ焼きなどの店舗が入っており、度々僕たちは学校の帰りにそこで自由なひと時を満喫していた。今も同じ学校の生徒が何人かいて、楽しそうに談笑している。



この人たちの目には、僕たちはどう映っているんだろう。






鯛焼きを二つ買い、ナツの座っている席まで運ぶ。僕は、餡子が食べれないのでクリームを選択した。





「美味しそうだね。二人だけで食べて、タケル悔しがるかなぁ。まぁでも仕方ないよね、学校に来ないアイツが悪いんだし。そういえば、この前の中間テスト。またクラス最下位だったよ、アイツ。バカよねぇ、ほんと」





ナツは、タケルの話をする時、本当に嬉しそうに笑う。僕にはあまり見せない笑顔だ。嫉妬とかではないけど、なんだか複雑な気持ちになる。





「そういえば、また吹いたね。昼休みの時。その時、屋上にいたんだけど久しぶりに風の中を体験したよ。まぁ、前と変わらずメチャクチャ気持ち悪かったけど」





「ふ~ん。私は、教室の中にいたからあまり気にならなかった」





建物の中にまで入ってくることはない黒い風。そこにいる限り、結界の中みたいな感じでマスクを装着しなくても安全だ。





あの風は、まるで目があるように周囲の景色を判断している。生き物のようで、本当に不気味な風だ。                    



「たまに食べると鯛焼きも美味しいね。最近調子はどうなの? もうすぐ大会でしょ」





 陸上の学年選手権が、もうすぐあるはずだ。掲示板にデカデカとその紙が貼ってあった。ナツは、二百メートル走を得意としている。まぁ成績は、中の下ぐらいだけど。





「うん。そうだね」





どうしたんだ?



なんだか元気がない。





「どうした? なんか悩んでるの」





「私、陸上辞めると思う。最近、タイムがなかなか伸びないしさ」





「えっ! タイムなんて気にすることないよ。今は無理でも続けてれば、絶対速くなるだろうし」





以前、ナツは「私、走るのが好きなの」って嬉しそうに僕に言った。走っている間は、嫌なこととか全部忘れられるらしい。それなのに……辞めるなんて。





「ありがとう……。私、走るのは好き。でも、今はそんなことよりも考えなきゃいけないことがあるの。凄く大事なこと」





「進路のこと?」





「私達、まだ一年だよ。さすがに将来のこと考えるのは早いって。そうじゃないの」





 じゃあ、なんだろう。僕は、あまり使っていない新品同様の脳みそを働かせて考えた。





「…………」





何も浮かばない。ダメだ、この脳。





「ふふ、サトルって面白い。悩んでる顔、なんだか変だし」





「変……かな。なんだかショックだ。はぁ、そろそろ帰ろうか。暗くなってきたし」





確か、今夜は六時半からお笑いスペシャルがあるはず。何気に楽しみにしてた。携帯で時間を確認する。もうすぐ始まる時間だ。





「サトル」





「うん?」





 二人の間に妙な間が生まれる。見つめ合う。ナツの少し潤んだ瞳。初めて見るその幼馴染みの表情に、僕は動揺した。周りの話し声や雑音が萎んでいく。





「獣人って知ってる?」





席を立ち上がった僕の動きが、金縛りにあったように強制的に止まった。一瞬、息をすることさえ忘れた。





 獣人。





あの髪の長い女の子も同じことを言っていた。漫画の中に出てくるような単語で、現実味のない言葉。もしかしたら、今この言葉は流行っているのかな。知らないのは、僕だけなのか。





「き、聞いたことはあるけど……それがどうかしたの?」





「そう。知ってるんだ、この言葉。じゃあ、もうあの人に会ったんだね。サトルも私と同じ獣人。フフ、そっか。なんとなくそんな気はしてたんだ。やっぱり、そうなんだ。サトルも」





ナツは、何を言っているんだ。僕の中で何かが警鐘を鳴らす。





これ以上足を踏み入れるな! って叫んでる。





それでも、僕は。





「あのさ、獣人って何? ナツと僕が同じって……。正直、まだなんにも分からないんだよ。ちゃんと説明してくれ。今日、屋上で変な女の子に会ってさ、獣人だとか言われたけど。正直何のことかさっぱりだし。他にも覚醒とか言ってた」





 少しイラついていた。自分だけ除け者にされている気分。





「屋上に行こうか。そこで全部話すよ」





デパートの屋上に行くまでの間、僕たちはお互い口を開かなかった。僕の少し前を歩いているナツ。肩まで伸びた茶髪が、無邪気に僕の前で踊っていた。





「……」





「……………」





 屋上までの道のりが、酷く苦痛で長く感じられた。「帰ろうよ」って言葉が、喉の奥に溜まっていく。



 ナツは今、何を考えているんだろう。





デパートの屋上。



夏には、ビアガーデンに人が群がるこの場所も今の季節は人も少なく、僕たち以外には誰もいなかった。冷たい夜風が、容赦なく吹きつける。完全に日の落ちた今の時間は、かなり寒い。





「寒いね。ごめんね、こんな場所まで連れてきて」





 申し訳なさそうに頭を下げた。その姿を見て、僕は少し安心した。ナツが変わってしまったと感じたのは、僕の勘違いかもしれない。





「いや、そんなことは別にいいんだけど。この場所じゃなきゃダメなの? 中の方が温かいしさ」





「ダメなのっ! この場所じゃないと」





 僕の言葉を完全に拒否する一言。





僕は諦めて、周囲を見渡した。小さな祠があるのを発見した。夜空には、一番星がキラキラと主張している。この寒さで、風邪を引くのも馬鹿らしい。自販機で何か温かいものを買ってこよう。地面には、人工芝のマットが敷き詰められており、歩く度にシャリシャリ音がした。





ヴゥーーーーーーー!!





ヴゥーーーーーーーーーー!!





大ボリュームの機械音が夜空に鳴り響く。空気が震えた。





「またか」





 僕は、ナツの元に駆け寄ると置いてあった自分のカバンから、教科書を押し潰していた防毒マスクを強引に取り出した。それを素早く装着する。学校の屋上にいた時は、まだ太陽が出ていたので黒い風の接近が良く分かった。しかし、今は夜。この状態だと黒い風が近づいてきても気付くのに時間がかかる。昼間に比べ、夜のほうがかなり危険だ。



 装着を完了した僕は、何気なくナツを見た。





「っ!?」





「…………………」







ナツは、マスクをしていなかった。




それなのに、一向に慌てる素振りを見せない。




なにしてんだよ、いったい!



もう時間がないって言うのに。





もしかして。





「マスク忘れたの? そうなんだろ。早く建物の中に非難しよう。さっ! 早く」





僕は、半ば強引にナツの左手を掴んだ。それなのに、一歩もその場から動こうとしない。僕の手を振り解き、逃げるように距離をとった。





なんで? 





ほんと、どうしたんだよ。





「……死ぬんだぞ。分かってるのか?」





「私は死なないよ」





 あと三歩前に出れば、その体に触れられる距離にいるのに。二人の距離が、果てしなく遠く感じた。





ヴウゥーーーーーーーーー、


ヴウゥーーーーーーーー





ヴウゥーーーーーーーーー、


ヴウゥーーーーーーーー





「どうして……」





左目から自然と涙が溢れてきた。



マスクが曇り、視界がぼやけた。    





もう、間に合わない。ナツが、死ぬ。





はじめてーーーーー




初めてナツに会ったのは、僕が幼稚園に入って半年が過ぎた頃だった。その当時、僕は体が小さくて、気も弱く、いつも誰かに虐められていた。ちょうど母さんが死んだばかりで、そのことをからかわれたりもした。



僕は、どこにいてもいつも一人だった。皆が、外で楽しそうに遊んでいるのをただただ園の中から黙って見ていた。



いつも泣いていたので、その時も目は赤く腫れていた。僕の赤い目には、この世界が地獄のように見えた。





目の前に果てのない闇が永遠と広がっているようだった。





「なんでキミは、おそとであそばないのぉ?」





 そんな時、僕に話しかけてくれたのがナツだった。その日、入園したばかりのナツは、すぐに園の人気者になっていた。元気がよく、いつも笑っていて、常に誰かと楽しそうに遊んだり話したりしていた。





「なんでキミは、ないているの?」





僕の顔を下から覗き込んでくる。わざと面白い顔を作って僕を笑わそうとしていた。顔を伏せ、じっと黙っている僕。





「これならどうだっ! ほれほれぇ」





 今度は、僕の脇をコチョコチョとくすぐってきた。最初は我慢していたが、すぐに限界を超え、堪え切れなくなり思わず笑ってしまった。





「やめて……アハハ、ハハ」





「ほれほれ~」





「ヒヒヒヒ、ほんと……アヒャヒャ」





「ねぇねぇ、なにしてるのぉ。わたしもいれてぇ」





 さっきまで絵本を読んでいた大きな眼鏡をかけた女の子が、僕たちの側に近づいてきた。





「ジャンケンでまけたひとが、くすぐられるゲームしてるの。アナタもやる?」





「うん!」





 しばらく三人でジャンケンをし、このゲームを楽しんだ。ナツは楽しそうに笑い、僕も自然と笑顔になっていた。久しぶりに自分の笑い声を聞いた。



そんな僕たち三人の間に体をねじ込ませてくる人間。ソイツは鼻息が荒く、その鼻から鼻水を垂らしていた。





「オレもやりたい。いいだろ、サトル。なっ!」





 いつも僕を虐めていた男の子だ。僕の笑っていた顔が、一瞬で凍りつく。それを見ていた霊華は、その男の子の前で仁王立ちになった。





「いいよ。でもやくそくしてね、ずるはしないって。もし、ずるしたらアナタをぶんなぐるよ。あとね、これもやくそくして。さっちゃんをもういじめないって。いじめたらアナタがなくまでぶんなぐるからねっ! いい?」





園内で一番背の高いナツが、その拳を天に突き上げるポーズをする。するとさっきまで威勢の良かった男の子も急に小声になり、壊れたオモチャのように何度も首を上下させた。



 ナツが入園したその日から、僕の見る世界は変わった。 



 僕の側にはいつもナツがいて、ナツがいると僕は緊張せずに周りの男の子や女の子と楽しく話すことが出来た。



そして、一週間もするともう誰も僕を虐めなくなっていた。





「……頼むから。僕の言うことを聞いてよ。お願いだから」                 



僕は、土下座をしていた。カッコ悪いとかそんな感情は微塵もなかった。ただただこの友達を失いたくなかった。





 大切な人間を失う恐怖の大きさ。母さんが死んだ時と同じ恐怖が僕を襲っていた。





「今に分かるよ。これが、」





もう、大切な人を失うのは嫌なんだ。





ナツがまだ何か喋っている。でも僕の耳には何も聞こえなかった。僕は、自分のマスクを取り外すと、ナツの元に走った。





そして、素早くナツの顔に僕のマスクを装着させる。柔らかい髪が、僕の指の間をスルスルと抜けていく。ナツは、驚いたように目を丸くして僕を見ていた。絶滅していたはずの動物が、実はまだ生きていた。そんな生き残りを目の当たりにしている人間のよう。





「サトル……」





これでいい。これでいいんだ。



僕をあの地獄から救ってくれたナツに恩返しが出来る。





「さようなら。今までありがとう」





風の気配がした。さっきまで屋上に吹いていた風ではない。生暖かい風が、僕の体を包み込んでいく。黒に侵食される体。でも、恐怖はあまり感じなかった。



音が消え、目の前が真っ暗になる。





今、僕の十六年の人生が終わった。





…………。





…………。




死。







あぁ……。



なんか首の辺りが柔らかくて温かい。もしかしたら、天国かな?





恐る恐る目を開けた。最初に見えたのは、キラキラ輝く光度の違う星々。次に大きな三日月。





ここって……。あれ? 





なんで、まだ僕は生きているんだ? 確かに僕は黒い風の中にいた。あの風の中をマスクなしで生きていられるはずがない。



さっきのは、幻?





いやっ、幻なんかじゃない!





あの凄く嫌な感じ。あれは、リアルな黒い風だった。なら、どうして僕はまだ生きているんだ。





「目覚ました? いきなり倒れて気絶しちゃうんだもん。心配しちゃった」





 聞き覚えのある声が、僕の背後……というか、すぐ近くから聞こえた。ようやく僕は、今の自分の状況を把握した。





「いい夜空だね。気持ちいい」





今、僕はナツに膝枕されている。



僕の体は、床に仰向けに横たわっていた。僕の頭だけが、ナツの太股の上に乗っている。今までに感じたことのない柔らかさと良い匂いが、首から脳へと伝播する。この状況に僕は軽く眩暈がした。





「あっ! えっと、その。ごめんね、すぐどくから」





 僕は、急いで体を動かそうと全身に力を籠めた。が、僕の両肩をナツがしっかりと掴んでおり、全然上体を動かせなかった。女子とは思えない力。それとも、ただ単に僕が非力なだけか。ジタバタと足だけが情けなく動いていた。





「……僕、まだ生きてるみたいなんだけど、どうしてかな」





 間抜けな質問。





動くことを諦め、最大の疑問を投げかけた。





「サトルが、獣人だからだよ」





 また、獣人か。この単語を聞くのは、もう何度目かな。獣人ってなんだ? いったい。



 


ようやくナツは、静かに語り出した。





「獣人って言うのはね、黒い風に体が適応できる人間を指す言葉なんだよ。簡単に言うとね、黒い風の中でも死なない人間ってこと。ちなみに私も獣人なんだよ。でもまぁ、私がそれを知ったのもついこの間なんだけどね……」





黒い風の中でも死なない? 



そんな人間がいるのか。





まさか……。





信じられない。でも、僕が今こうして生きているのが何よりの証拠。それにナツは、こんなつまらない嘘は言わない。さっきマスクを付けようとしなかったのもナツが、獣人だからか。



屋上に僕を連れ出したのは、黒い風の中でも生きられることを僕の目の前で証明する為だったに違いない。話だけじゃこんな、ぶっ飛んだ話。獣人の存在なんて到底信じることは出来なかった。





 ナツも僕も『獣人』





これからは、この床に転がっている防毒マスクも不要になるのか。それは、少し嬉しいけど。





「僕たちみたいな獣人ってまだいるの?」





「うん。まだいるよ。人数はかなり少ないけどね。みんな、自分が獣人だってことを隠して暮らしてる」





隠して暮らしてる?





なんで隠す必要があるんだ。まぁ、確かにマスコミとかには騒がれるかもしれないけど。でも、もしかしたら僕たちの体の中を調べれば、黒い風に耐える何か、秘密が暴けるかもしれない。それさえ分かれば近い将来、黒い風の特効薬が出来るかもしれない。もう黒い風に怯えて暮らすこともなくなる。世界が救われる。





「サトルの考えていることは分かるよ。私達の体を調べれば、特別な物を発見出来るかもしれない。それによって、多くの人が助かるかもしれない。でもね」





ナツは、僕の頭を優しく持って、起こした。さっきまで気絶していたせいか、立ち上がると少し吐き気がした。数回頭を振る。やっぱり気持ちが悪い。





「もし、獣人ってことが誰かにバレたら……私達は、殺されてしまうの。もう既に私の知っている人も五人以上殺されてる。マスコミや警察に協力を求めたこともあったみたいだけど、その人たちも皆殺された。獣人だけじゃなく、それに関わった全ての人が殺されたの。親やその友達もね」





「嘘だ」





映画じゃあるまいし。そんな簡単に人を殺すなんてありえない。





警察ですら、僕たちを守ることが出来ないなんて。そんなバカな話あるわけない。僕たちの存在は、この世界を救う希望のはず。



殺すメリットなんてない!





「誰が僕たちを殺すって言うんだよ! そんなことあるわけない。今から警察に行こう。そこで粘り強く話したら分かってくれる。僕たちを守ってくれるよ。そんなワケの分からない殺人者から僕たちを、」





「そんなことしても無駄なのっ! 分かってよ……。もう過去に何回もそんなことしてる。でもね、その度にその人は信じられない拷問を受けて、ゴミのように殺されたわ。警察関係者の中にも私たちを狙ってる組織のメンバーが何人もいるんだよ。もう私達を救える人はいない。殺された人の写真見る? どうやって殺されたか。この世の地獄よ」





 ナツは、胸ポケットから綺麗に四つ折りにされた写真を一枚取り出した。それを僕にスっと差し出す。僕は、その写真を震える左手で受け取った。写真は、手の中でカサカサと羽虫のような音を立てている。ゆっくりと写真を広げた。





牢屋のような場所……その中央で。





「っ!!!」





写真を投げ捨て、フェンスまで走った。どうしても、これが現実だと認めたくなかった。





「分かった? 私達のこれが末路よ。地獄でしょ?」 





嘘だ。



嘘だ。



嘘だ。



嘘だ……ろ?





こんなの現実じゃない! 





こんなのって……。





「もう私達に残された道は、獣人ってことを隠して、静かに暮らしていくしかないの」





写真の中の人間は、確かに拷問を受けて殺されていた。





両方の耳を削ぎ落とされ、目玉を卵の黄身のようにグチャグチャに潰された人間が写真中央で倒れて死んでいた。口からは、見たこともない夥しい量の血を吐いていた。コンクリの床には、その人間の血にまみれた爪が何枚も落ちている。合成ではないことは素人の僕でも分かった。





「……はぁ……はぁ」





震えが止まらない。今まで感じたことのない悪寒が、ナメクジのように全身を這い回っている。顔を上げていないと今にも吐きそうだった。



夜空を見上げ、この悪夢から早く覚めるように必死に願った。





眼前の景色が、歪んで見える。ビルも家も商店街も学校も……ドロドロと溶けていく。どうして、こんなことに。獣人だと誰かにばれたら、僕も写真の中の男のように殺されるかもしれない。





はぁ………はぁ……はぁ…。





「ごめんね。やっぱり見せるべきじゃなかった。ごめんなさい」





 いつの間にか、僕の隣には同じようにこの町を眺めているナツの姿があった。





……恐いよ。恐くて恐くて堪らない。





助けて。





「背高くなったね、サトル。昔は、あんなにチビだったのに」





 背伸びをして僕の頭を撫でるナツ。何度も僕の頭を往復する温かい手。次第に気持ちが落ち着いてきた。僕の首を締め上げていた黒い死神が、逃げていくようだった。





「もう大丈夫……。ありがとう」





「ほんと? まだ震えてるけど。雨に濡れた子犬みたいだよ」





 意地悪い笑顔で僕の顔を見ている。その顔を見て、僕は正気を取り戻していた。ナツにまた助けられた。





「大丈夫。そんなにガキじゃないし。はぁ……正直、驚きの連続だよ。でもさ、獣人ってことを隠していれば問題ないわけだしね。まぁ黒い風が吹いた時には、不必要でもマスクはしたほうがいいと思うけど。誰に見られているか分からないしさ」





 そうだ。そのことにさえ注意していれば、今まで通りの生活が出来る。マスクを装着する動作は、もう体に染み付いているし忘れることもないだろう。



 僕は、大きく息を吸った。冷気が肺を満たす。濁った空気を思い切り夜空に吐き出した。





「サトル……。もう一つ言っておかなくちゃいけないことがあるの」





すごく嫌な予感がした。



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