荀伯子2 潁川荀氏の矜持 

荀伯子じゅんはくし劉義符りゅうぎふ周りの任務に就いた後、

國子博士となった。


妻の弟は、陳郡ちんぐんしゃ氏。謝晦しゃかいである。

謝晦も荀伯子を高く買っており、

中央に推薦、結果、尚書左丞となった。

更にはいちど外任に移る。

臨川りんせん内史である。


一方で、車騎將軍の、王弘おうこう

荀伯子は、彼からも讃えられていた。


「どっしりと構え、

 浮ついたところが無い。


 現代に曹参そうしん様が生きておれば、

 そなたのようであったのだろう」


荀伯子自身、

自らの出しゃばらずにいる所を

誇りに思っていたので、

王弘には、このように返答している。


「この世の真の貴人は、

 貴方さまと私程度のものでしょう。


 謝宣明なぞ、

 ものの数でもございません」


うわっ自分で言っちゃったら

一気に陳腐に

なっちゃうやつじゃないですか……


438 年に死亡。61 歳だった。

かれの著した文章類は

後世にも伝えられている。




伯子為世子征虜功曹,國子博士。妻弟謝晦薦達之,入為尚書左丞,出補臨川內史。車騎將軍王弘稱之曰:「沈重不華,有平陽侯之風。」伯子常自矜廕籍之美,謂弘曰:「天下膏粱,唯使君與下官耳。宣明之徒,不足數也。」元嘉十五年,卒,時年六十一。文集傳於世。


伯子は世子征虜功曹、國子博士と為る。妻の弟の謝晦は之を薦達し、入りて尚書左丞と為り、出でて臨川內史に補せらる。車騎將軍の王弘は之を稱えて曰く:「沈重にして華ならざるは、平陽侯の風有り」と。伯子は常に自ら廕籍の美を矜りたらば、弘に謂いて曰く:「天下の膏粱、唯だ使君と下官なるのみ。宣明の徒は數うるに足らざるなり」と。元嘉十五年に卒す、時に年六十一。文集は世に傳わる。


(宋書60-16_仇隟)




この感じだと、潁川荀氏、もうちょい晋宋期に規模大きかったんだろうなあ。今残ってる史書じゃその実態が全く分からないけど。やっぱりどんなに規模が大きくても、枢要に関われなかったのは扱いの差として大きな要素なんでしょう。あるいは王弘も「家柄だけでえらそーに(笑)」とか内心思ってたのかもしれない。


本文中でも書いたけど、荀伯子さん、さすがにそのセリフは小者過ぎませんかね……。



曹参

漢帝国二代目相国、つまりちょう大物。史記にある司馬遷の評価によると


參為漢相國 清靜極言合道然百姓離秦之酷後參與休息無為故天下俱稱其美矣

漢の相國になるも静かで穏やか、その発言は道理をよく弁えていた。そして人々は秦の酷政の後、曹参の施政で休息を得た。このため天下より称賛されている。


とのこと。蕭何と同じ文官の極み、かと思えば、前線に立って怪我を負いながらも大武功を立てていたりもする。つまり文武両道の大功臣と言うわけだ。えっ荀伯子さん別に武功は立ててないですよね……?

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