臧燾2  劉裕の相談役  

臧燾ぞうとうは通直郎になったあと、

ずっと劉裕りゅうゆうの相談役としてそばにあった。


ただし後秦こうしん討伐の折には

司馬徳文しばとくぶんが北伐軍に同行したため、

主不在の大司馬府における諸政務を、

臧燾に委任した。


417 年に侍中に任ぜられたが、

419 年には足の病を理由に辞任。


劉裕が皇帝となると、太常となった。

臧燾は外戚にしてセレブとなったが、

常に謙虚で控えめ、

あばら家にて粗食の日々。

宮廷からの給料は

すべて親族に分け与えていた。


422 年に宮廷に出仕。

光祿大夫とされ、また金章紫綬を授与。

同年に死亡、70 歳だった。

劉義符りゅうぎふにより左光祿大夫、加散騎常侍を

追贈された。



遷通直郎,高祖鎮軍、車騎、中軍、太尉諮議參軍。高祖北伐關、洛,大司馬琅邪王同行,除大司馬從事中郎,總留府事。義熙十四年,除侍中。元熙元年,以脚疾去職。高祖受命,徵拜太常,雖外戚貴顯,而彌自沖約,茅屋蔬飡,不改其舊,所得奉祿,與親戚共之。永初三年,致仕,拜光祿大夫,加金章紫綬。其年卒,時年七十。少帝追贈左光祿大夫,加散騎常侍。


通直郎に遷り、高祖鎮軍、車騎、中軍、太尉諮議參軍となる。高祖の北に關、洛を伐てるに、大司馬琅邪王は同行せば、大司馬從事中郎に除せられ、留府の事を總ず。義熙十四年、侍中に除せらる。元熙元年、脚の疾を以て職を去る。高祖の受命せるに、徵ぜられ太常を拜す。外戚貴顯なると雖も、彌自沖約にして茅屋蔬飡、其の舊を改めず、所得奉祿は親戚に與え之を共とす。永初三年、致仕し、光祿大夫を拜し、金章紫綬を加う。其の年に卒す、時は年七十。少帝は左光祿大夫、加散騎常侍を追贈す。


(宋書55-2_為人)




ここにも省略されてるものがあります。晋の代々皇帝の廟のうち四つが焼け落ち、その修復に際して徐広じょこう(次に紹介する人です)が「もうその四名については祀らなくていいんじゃね?」って提案したのに対し、臧燾は反対しました。結果として徐広案が採用されたんですが、その議論が超むつかしい。読み解けたら面白そうなんですが、今はスルーしておくのです。


また、傅僧祐ふそうゆうなる人物の伝がここに一緒についていました。それによると祖父の傅弘仁ふこうじんが劉裕の外弟(劉裕の妹を娶ったようだ)で、父の傅邵ふしょうが臧燾の娘を嫁にもらった、とのこと。


で、このひと。梁書に傅岐ふきという子孫にいて、かれが北地ほくち霊州れいしゅう県人。なので、どうも傅亮ふりょうの親戚のようです。ご本人の伝ではなんとなく参画した感じだった傅亮さんでしたが、やっぱり劉裕周りの姻戚グループの一員だったんですねえ。

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