庾炳之  謝晦は知らない子

庾炳之ゆへいし



庾登之ゆとうしの弟、庾炳之。字は仲文ちゅうぶん

劉粋りゅうすいが征虜将軍となった頃、

その副官として働いていた。


庾登之が謝晦しゃかいの副官になったとき、

庾炳之は兄のもとにあいさつに出向いた。


この頃の謝晦と言えば

セレブもセレブなわけだが、

兄が兄なら、弟も弟である。

特に挨拶らしい挨拶もしなかった。


おいおい、できるなアイツ……。

周りの人はそう囁き合ったそうな。


尚書省に招聘を受けたが蹴り、

会稽かいけい錢唐せんとう県の長官に。

そこでの治績に成果を上げたため、

再び中央より召喚、

今度は劉義康りゅうぎこうの書記官はどうだ、

と言うことになったが、

これも蹴った。

その代り丹陽丞たんようじょう、要は建康けんこうの副知事に。


450 年に 63 歳で死んだ。




炳之字仲文,初為祕書、太子舍人,劉粹征北長史、廣平太守。兄登之為謝晦長史,炳之往省之。晦時位高權重,朝士莫不加敬,炳之獨與抗禮,時論健之。為尚書度支郎,不拜。出補錢唐令,治民有績。轉彭城王義康驃騎主簿,未就,徙為丹陽丞。元嘉二十七年,卒於家。時年六十三。


炳之は字を仲文、初に祕書、太子舍人、劉粹が征北長史、廣平太守と為る。兄の登之の謝晦が長史と為りたるに、炳之は往きて之に省ず。晦の時に位高權重にして朝士に敬を加えざる莫かれど、炳之は獨り禮を抗ずに與り、時論は之を健とす。尚書度支郎と為るも拜さず。出でて錢唐令に補され、民を治むに績有り。彭城王義康の驃騎主簿に轉ぜるも就かず、徙りて丹陽丞と為る。元嘉二十七年、家にて卒す。時に年六十三なり。


(宋書53-5_直剛)




えっちょっと待ってもしかしてこの兄弟相当かっこよくない……処世が凄まじい。もともと潁川えいせん庾氏って言う抜群の家柄ってのには当然大いに助けられてるでしょうけれど、敢えて中央に寄り過ぎないようにしてるのとか、ほんにすごい。まぁ弟にしてみりゃ兄貴のタイトロープ渡りを目の当たりにしてるだろうしなあ。


原文だと劉粋の官位が征北将軍となっていますが、劉粋は追贈官位ですら安北将軍であり、到底事実とは思えません。これについて考えていたところ、謝晦討伐の詔勅において檀道済を征北、劉粋を征虜とする記述があり、この錯誤があったのではないかと推測、改めました。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888050025/episodes/1177354054890526226


いや、たしかに征北将軍、つまり北部地方軍の最高指揮官にまで登れてたら面白いんですがね……。

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