褚裕之2 大都督     

劉裕りゅうゆう劉毅りゅうき征討にあたって、褚裕之ちょゆうし

約三千の兵を援護として派遣。

江陵こうりょう陥落後には撤収させた。


褚裕之の広州こうしゅう在任期間は四年。

その間賄賂などによる蓄財に大いに励み、

家財を溜め込んだ。

その罪を問われて免官。

終身禁錮くらいの処罰が言い渡される。


のだが、いざ建康けんこうに帰ってみれば、

旧交の仲、一見さんが次々に

褚裕之に贈り物を送り届けてくる。


「そうしたら劉裕の参謀になった」。

更には副官に。

えーと、これは要するに、

劉裕さんのもとにわいr……

いえなんでもありません。


劉裕が即位すると、宮廷守備の任に。

劉裕、褚裕之が

「名家なのに劉裕のために力を尽くした」

ため、その働きを大いに讃えた。

なので番禺ばんう県の男爵に封爵された。


422 年、外部に出向。

雍、梁、南北秦の四州、および

荊州の南陽なんよう竟陵きょうりょう順陽じゅんよう

義陽ぎよう新野しんやずいの六郡の軍事統括に。

雍州刺史として、襄陽じょうよう義成ぎせいの太守に。

つまり武関ぶかん伝いにそうを攻めてこようとする

長安ちょうあん勢力に対する守り手役だ。


任期の間の褚裕之は、

清廉にして簡素な統治を旨とし、

大いに讃えられたという。


424 年に死亡。44歳だった。




高祖征劉毅,叔度遣三千人過嶠,荊州平乃還。在任四年,廣營賄貨,家財豐積,坐免官,禁錮終身。還至都,凡諸舊及有一面之款,無不厚加贈遺。尋除太尉諮議參軍、相國右司馬。高祖受命,為右衞將軍。高祖以其名家,而能竭盡心力,甚嘉之,封番禺縣男,食邑四百戶。尋加散騎常侍。永初三年,出為使持節、監雍梁南北秦四州荊州之南陽竟陵順陽義陽新野隨六郡諸軍事、征虜將軍、雍州刺史,領寧蠻校尉、襄陽義成太守。在任每以清簡致稱。景平二年,卒,時年四十四。


高祖の劉毅を征せるに、叔度は三千人を遣りて嶠を過らしめ、荊州の平らぐに乃ち還ぜしむ。在任四年、廣く賄貨を營み、家財豐積なれば坐して免官し、禁錮終身とさる。還じ都に至らば、凡そ諸舊、及び一面の款有りて、厚く贈遺を加わらざる無し。尋いで太尉諮議參軍、相國右司馬に除せらる。高祖の受命せるに、右衞將軍と為る。高祖は其の名家なれど能く心力を盡くし竭せるを以て甚だ之を嘉し、番禺縣男、食邑四百戶に封ず。尋いで散騎常侍を加わる。永初三年、出でて使持節、監雍梁南北秦四州荊州之南陽竟陵順陽義陽新野隨六郡諸軍事、征虜將軍、雍州刺史と為り、寧蠻校尉、襄陽義成太守と領す。在任の每、清簡を以て稱うらるを致す。景平二年に卒す、時に年四十四。


(宋書52-23_政事)




ああ、これお察し案件か……広州でまいないに励んで免官食らって、「人々から贈り物をたくさんもらって」「いきなり劉裕の参謀に取り立てられた」。はて、財貨はどこに吸収されたんでしょうねええええええ?


劉裕の逸話に、広州からの献上品を見て「こんな贅沢なもん作ってんじゃねえええええよ!」ってブチ切れた、というのがある。ところでその贅沢品はその後どうなったんでしょうねえええええええ?


劉裕さん、ガンガン各地から財貨を吸い上げて、そいつをバンバン軍資金や部下あての財貨に回してたんじゃないかって気がします。本人はそう言うのに興味を示さなかったけど、そいつが持つ威力そのものは熟知してた、みたいな。


で、この褚氏兄弟のうち伝名が褚裕之になってるのは、それだけ「褚裕之の貢献が大きかった」。いい感じに北府しぐさの見え隠れする人物でありました。

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