劉鍾1  同郷の武将   

劉鍾りゅうしょうは字を世之せいしといい、

彭城ほうじょう郡彭城県出身、つまり

劉交りゅうこうの子孫」とも呼ばれうる人だ。


幼い頃に父をなくし、同郷人である

劉回りゅうかいという人の世話になっていた。


その頃からすでに確固たる意志を秘め、

自らの貧賎にあえぐ環境を嘆いていた。


404年、劉裕りゅうゆうが決起すると

そこについていき、一緒に戦いたい、

と願い出る。


それが受け入れられ、

句章くしょう海鹽かいえん婁縣るいけんで大活躍。

その功績から鎮北ちんほく參軍の督護とくご

つまり劉裕の護衛役として抜擢を受けた。


以後、劉裕の戦場には

常に劉鐘の存在があった。

あらゆるピンチにも、

我が身を顧みず、身を投じる。

そんな人間であるから、

劉裕よりの信頼待ったなしであった。


その信頼が、どのくらいであったか。


桓玄かんげん打倒のクーデターが起こる前、

劉裕は、集まった義勇軍に対し、

言っている。


「彭城、沛国はいこくに属する同志らよ!

 志を全うしたくば、

 劉鐘の元につくのだ!」


こうして別軍を率い、連戦連勝。


建康けんこう付近にまで到達すると、

桓謙かんけん東陵とうりょうに駐屯、

卞範之べんはんし覆舟山ふくしゅうざんの西に駐屯している。


この陣容に、劉裕の直感が働く。

この間に、伏兵がいるに違いない。

攻め寄せてきたクーデター軍のうち、

劉裕がいる方の軍を

挟撃する腹積もりなのだろう。


そこで部下たちを見回した後、

劉鍾を見出して、言う。


「山の下に、おそらく伏兵がいる。

 お前は別動隊を率い、奴らを叩け」


劉鍾は雄たけびを上げながら

山のふもとに攻め寄せてみれば、

劉裕の予想通り、数百の伏兵がいた。

彼らはたちまちのうちに散り散りに。


建康から桓玄が脱出、荊州けいしゅうに逃れると、

劉裕は桓謙が築いていた陣地に留まり、

劉鍾にはその先にある建康城南の出城、

東府とうふ城を占拠させ、そこで宿営させた。

ここで鎮軍參軍督護に。

これは鎮軍将軍(劉裕)の幹部兼護衛、

と言う感じだろうか。


桓歆かんいん歷陽れきようを攻めてくると、

劉鍾は歴陽に出向き、魏詠之ぎえいしに加勢。

力を併せ撃退すると、桓歆は逃走。

南齊國みなみせいこく內史、安丘あんきゅう縣五等侯となった。


戦いがひと段落した劉鍾、まず申し出たのは

これまで満足に弔ってやれなかった

父や祖父、また親族の改葬であった。

この行いに、劉裕も出資。


次いで劉裕の軍府の取締役となる。


後日、司馬叔璠しばしゅくはんと彭城の劉謐りゅうひつ劉懷玉りゅうかいぎょくらが

蕃城はんじょうから鄒山すうざんに進攻。

鄒山を守る徐邕じょようが守り切れなかったため、

劉鍾は軍を率いて司馬叔璠らを平らげた。




劉鍾字世之,彭城彭城人也。少孤,依鄉人中山太守劉回共居。幼有志力,常慷慨於貧賤。隆安四年,高祖伐孫恩,鍾願從餘姚、浹口攻句章、海鹽、婁縣,皆摧堅陷陣,每有戰功。為劉牢之鎮北參軍督護。高祖每有戎事,鍾不辭艱劇,專心盡力,甚見愛信。義旗將建,高祖版鍾為郡主簿。明日,從入京城。將向京邑,高祖命曰:「預是彭沛鄉人赴義者,並可依劉主簿。」於是立為義隊,恒在左右,連戰皆捷。明日,桓謙屯于東陵,卞範之屯覆舟山西,高祖疑賊有伏兵,顧視左右,正見鍾,謂之曰:「此山下當有伏兵,卿可率部下稍往撲之。」鍾應聲馳進,果有伏兵數百,一時奔走。桓玄西奔,其夕,高祖止桓謙故營,遣鍾宿據東府,轉鎮軍參軍督護。桓歆寇歷陽,遣鍾助豫州刺史魏詠之討之,歆即奔迸。除南齊國內史,封安丘縣五等侯。自陳情事,改葬父祖及親屬十喪,高祖厚加資給。轉車騎長史,兼行參軍。司馬叔璠與彭城劉謐、劉懷玉等自蕃城攻鄒山,魯郡太守徐邕失守,鍾率軍討平之。


劉鍾は字を世之、彭城の彭城の人なり。少きに孤となり、鄉人の中山太守の劉回に依りて共に居す。幼きより志力有り、常に貧賤を慷慨す。隆安四年、高祖の孫恩を伐てるに、鍾は餘姚、浹口にて從せるを願いて句章、海鹽、婁縣を攻め、皆な堅を摧き陣を陷とさば、每に戰功有り。劉牢之の鎮北參軍の督護と為る。高祖に戎事の有りたる每、鍾は艱劇を辭さず、專心盡力し、甚だ愛信さるを見る。義旗の將に建たんとせるに、高祖は鍾を版じ郡主簿と為す。明くる日、從いて京城に入る。將に京邑に向かわんとせるに、高祖は命じて曰く:「是れ彭沛鄉の人の義に赴けるに預からんと為さば、並べて劉主簿に依るべし」と。是に於いて義隊を立つるを為し、恒に左右に在りて、連戰にて皆な捷す。明くる日、桓謙の東陵に屯じ、卞範之の覆舟山が西に屯ぜるに、高祖は賊に伏兵の有りたるを疑い、顧て左右を視、正に鍾を見て之に謂いて曰く:「此の山の下に當に伏兵有らん、卿は部下を率い稍往し之を撲ちたるべし」と。鍾は應聲馳進し、果して伏兵數百有らば、一時にして奔走す。桓玄の西奔せるに、其の夕、高祖は桓謙が故營に止まり、鍾を遣りて東府に宿據せしめ、鎮軍參軍督護に轉ず。桓歆の歷陽を寇せるに、鍾を遣りて豫州刺史の魏詠之を助け之を討たしむらば、歆は即ち奔迸す。南齊國內史に除せられ、安丘縣五等侯に封ぜらる。自ら情事を陳べ、父祖、及び親屬十喪を改葬す,高祖は厚く資給を加う。車騎長史に轉じ、行參軍を兼ねる。司馬叔璠と彭城の劉謐、劉懷玉らの蕃城より鄒山を攻むるに、魯郡太守の徐邕は失守せば、鍾は軍を率い之を討平す。


(宋書49-7_暁壮)




この、ザ・副官! 的な働き方ときたらどうですか。蒯恩と同じく、普通の史書になら絶対に残らないような働きをした人物の話が載っているのは、まぁ、なんだかんだでうれしいのです。いや情勢を見たい人的にはふざけんななんですけどね。

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