5-5 カイニン

ゆっくりと誰かが、私の髪を撫でる。

それが酷く気持ちよくて、ゆっくりと目を開けた。


「朔哉……」


面越しに目のあった朔哉は、唇を真一文字に結んでぶるぶると震わせていた。


「おはよう、眠り姫」


朔哉の手が背中に差し入れられ、抱き上げられた。


「……よかった、目が覚めて……」


それって、どういう意味なんだろう。

長く眠っていた気はするけれど。


「どのくらい、眠っていたの?」


「……ひと月」


「嘘っ!?」


感覚的には徹夜明けで翌日、丸一日眠っていたくらいなのに、一ヶ月もたっているなんて。


「もう、目が覚めないかと思った……」


震えている、朔哉の声。

震えている、朔哉の身体。


それだけ私は朔哉を、心配させた。


「……ごめんな、さい……」


「本当にそうだよ。

考え無しにひとりで、黄泉になんか行って。

心桜の身体はもう、ひとりのものじゃないんだからね。

大事にしないと」


「えっと……」


それは、朔哉と結婚したからってことでいいんでしょうか。


「気づいてないの?

心桜は……カイニン、しているよ」


「カイニン……?」


ちょっと字が、よく思い浮かばない。

解任じゃないだろうし。


「……妊娠、してるってこと」


ぼそっと耳元で呟かれ、ぼふっと顔から火を噴いた。


「今回の私の熱は、そのせい」


「なんで私が……妊娠、したら朔哉が熱出すの?」


妊娠、なんて改めて口に出すのは恥ずかしい。

そもそもなんで、そんなことになるんだろう。


「心桜が懐妊したからね。

代替わりがはじまったんだ」


「なんで私が妊娠したら、代替わりがはじまるの……?」


不勉強な自分が憎い。

知っていればこんなことにならず、なにかもっといい方法が取れたかもしれないのに。


「我々はね、人間に子を産ませて代替わりするんだ。

生まれた子が、次代の神になる。

……それで」


私の顔を真っ直ぐに見て、なぜか朔哉は嬉しそうにふふっと笑った。


「代替わりした神は、人間になる。

私は……心桜と一緒に老いて、死ぬことができる」


朔哉の手がうっとりと私の頬を撫でる。

それはとても、――とても幸せそうだった。


「朔哉……。

じゃあ私は、何十年も何百年も、朔哉をひとりにしないでいいの?」


「そうだね。

一緒になんて無理だろうけど、せいぜい数年違いだろうし」


自分から手を伸ばし、朔哉に抱きつく。


「……よかった。

あ、でも、神様じゃなくなっちゃうんだから、よかったとか言っちゃいけないのかな」


だからあのとき、うか様は朔哉が代替わりするつもりだと言って、あんなに怒っていた。

朔哉が、いなくなってしまうから。


「ううん。

これは私が、望んだことだから。

心桜と一緒に老いて、一緒に死にたい。

結婚を決めたときから、考えていた」


胸の中が温かいもので満たされていく。

それは身体の中に収まりきれなくなって、涙になって溢れていった。


「……ありがとう」


私はこんなに、朔哉から愛されている。

それだけでもう、朔哉と結婚してよかった。


「でもそれで、なんで熱が出るの?」


そこまで聞いてもやっぱり、理屈がわからない。

理由がわかっていれば、防ぎようだってあったのだ。


「心桜の懐妊と同時に、私も徐々に人間化がはじまるんだ。

それで……風邪を、ひいた」


「風邪!?」


思わず身体から力が抜ける。

あんなに心配して損した、っていうか。

いやいや、風邪だって放っておけば死ぬ可能性だってあるっていうし。


「初めて風邪なんてひいただろう?

だから身体が対応しきれなくて高熱が出たというか……」


だから、手厚い看護で寝ていたら治ったんだ。

いやちょっと待って、それだと私が、命がけで黄泉に行った意味は?


「目が覚めて、心桜が黄泉に行ったなんて聞いて生きた心地がしなかったよ。

なんで勝手に決めてしまうかな、そういう大事なこと」


「勝手にって!

……いやまあ、勝手になんだけど。

だけど、朔哉は熱でうんうん唸ってて、意識なかったじゃない!」


「うっ」


そうだそうだ。

だいたい、私が行ってきますって言っても、やっぱり熱でうなされていただけだし。

いや、だから相談しようにもできなかったって責めるのは、お門違いな気もするけど。


「でも無理はしないって約束しただろ。

どういう事情があるにしろ、黄泉に行くのは完全に無理だ」


「うっ」


びしっ、と朔哉の人差し指が鼻先に突きつけられる。

これって約束違反になるのかな……?

そうすると私は、檻に閉じ込められちゃうわけで。


「もう少しで死ぬところだったんだよ?

お腹の子に感謝しなさい」


「……なんで?」


お腹の子に詫びなさい、ならわかるのだ。

こんな危険なことをして、私どころか赤ちゃんの方が命の危機にさらされていたんだし。


「……はぁーっ」


朔哉の口から、重たいため息が落ちる。

そんなに呆れられることですか?


「お腹の子は小さいとはいえ、もうすでに神だ。

この子が神の力で心桜を守ってくれたんだ」


「……そうなんだ」


そっと、お腹を撫でてみる。

この子が、私を守ってくれた。

まだお腹は膨らんでいないけれど、すでに愛おしくてたまらない。


「あとは、言の葉だね」


隣に座った朔哉は、私の腰を抱くようにしてお腹を撫でる手に自分の手を重ねた。


「心桜が命がけで持ってきた、言の葉があったから。

心桜は元気になるって言霊をかけた」


「ありがとう、朔哉」


朔哉が面の奥から、じっと私を見つめる。


「……目、閉じてて」


「……うん」


ぎゅっと目を閉じ、そして――。


「心桜はそろそろ、お目覚めー!?」


バン!と勢いよくドアが開き、つい開けそうになった目を朔哉の手が覆う。


「……じゃま、しないでくださいよ」


朔哉の声は酷く低くて冷たかったけど、仕方ないよね。


うか様がお見舞いに持ってきてくれたシュークリームでお茶にする。

といっても、まだ無理はしちゃダメだって、ベッドの上で。


「朔哉。

……食べて、いい?」


「どうぞ?」


くっくっくっと、おかしそうに朔哉は笑っているけど……だって、食べてまた血を吐くとか嫌だし。


「なんで朔哉の許可がいるの?」


大変可愛らしく小首を傾げてうか様が訊いてくるけれど……まあ、そうなりますよね。


「だって朔哉が……」


「心桜には私が許したもの以外、口にできない呪いをかけているのですよ」


「なにそれ、こわっ」


うか様は完全に引いている。

まあでも、そうですよねー。

伊弉冉様にまでヤンデレ呼ばわりされていたし。


「こちらの食べ物は人間には合わないものもありますからね。

迂闊に変なものを食べてしまわないように、です」


しれっとそんなことを言って朔哉はお茶を飲んでいるけど、本当にそうなのかな……?


「朔哉ってもしかしてヤンデレ……?

こわっ、私はそんなふうに育てたつもりはないんだけど」


うか様は肩を抱いて、身体をぶるぶると震わせた。


「それにしても、心桜の懐妊にも朔哉の人間化にも気づけなくてごめんなさい……」


らしくなく、うか様がしゅんと肩を落として項垂れる。


「えっ、いや、顔を上げてください!

私も自分のことなのに、気づけなくて……」


言われてみれば、生理が遅れていた……気がする。

なにしろこちらには節目節目の行事はあるものの、それ以外のカレンダーがない。

だからあまり、気にしていなかった。


「ううん。

こんなことに気づけないなんて、神様失格。

さらに心桜を危ない目に遭わせちゃったし……」


きつく、うか様は唇を噛みしめている。

そこまで心配してくれたなんて、なんか意外だった。


「よかった、心桜が目覚めてくれて」


私の左手をうか様が両手でぎゅっと握る。

さらには面の奥の瞳は涙で潤んでいた。


「こちらこそ、心配してくださってありがとうございます」


「当たり前でしょ、心桜は私の大事な……友達、なんだから」


うか様の耳はほんのり赤い。

そういうのは本当に嬉しい。


「ありがとうございます、うか様」


「……うん」


目を伏せて頷き、うか様はとうとう黙ってしまった。

いくら千歳を超えていようと、女の子はいつまでたっても乙女なのだ。


また来るし、元気になったら蔵の片付けをしに来てちょうだいと、うか様は帰っていった。


「うか様、私のこと、友達だって」


「よかったね」


頼れる人は朔哉しかいなかった世界だけど、少しずつ変わっていく。

それにさっきから、ドアの隙間からちらちらと中をうかがっている子狐たちがいる。


「なにをやっているんだい?」


「うわっ」


朔哉がドアを開けると同時に、五匹の子狐が崩れた。


「その、心桜様」


「心桜様」


「お目覚めになったって」


「だから、お見舞い」


「お見舞い!」


朔哉の手に摘んできたであろう花を押しつけ、きゃーっと逃げていく。


「……なんなんだろうね、あれ」


「ふふっ、可愛いな」


手渡されたのは、導き草の花束だった。


「前は私の姿見ただけで逃げ惑ってったのに」


いまは、こんなふうに気遣ってくれる。

頑張ってたすき、縫った甲斐があったな。


「そういえば黄泉にも、導き草が咲いていたんだよ」


あれの手助けもあったから、出口まで進めた。

そうじゃなければとっくに伊弉冉様に捕まって連れ戻されていただろう。


「言っただろ?

これは迷う人を導く花だった。

迷っている人がいれば、どこにでも咲く。

それに……」


言葉を切った朔哉は、私の髪を一房取って口付けを落とした。


「これが心桜を導いてくれたから、私は心桜を迎えに行けた」


「そういえば黄泉には入れないって言ってたよね?」


でも朔哉は黄泉比良平坂を降りていた。

よかったんだろうか。


「あそこはね。

ギリギリセーフ」


「セーフ?」


なにが、セーフなんだろう。

千引の岩から向こうは黄泉だって聞いているけど。


「すぐ傍に桃の木があっただろう?」


「桃の木?」


あった、桃の木。

暗闇の中で、きれいだった。


「あの桃はね、伊弉諾様をお助けした木で、名前もいただいた立派な神様なんだ」


「そうなんだ」


知らなかった。

なんでこんなところに桃の木なんてあるんだろうとは思ったけど。


「だから、入口からあそこまではセーフなの。

あと」


ちゅっと私の額に口付けし、朔哉は面の奥でにっこりと笑った。


「心桜が、呼んだだろう?」


私が呼べば、どこへでも朔哉が駆けつける術。

あそこでも効いたんだ。


「朔哉。

……ありがとう」


「お礼を言うのは私の方だよ。

うか様から全部聞いてる。

私を救うために心桜は命をかけてくれたって。

私は心桜にこんなに愛されて、幸せだよ」

面の奥で、朔哉の目が泣きだしそうに歪む。


「私だって。

私と一緒に生きるために、人間になることを選んでくれてありがとう。

こんなに朔哉から愛されて、私も幸せだよ」


「……目、閉じて」


そっと朔哉の手が、私の瞼を閉じさせる。

手が離れると、唇が重なった。


……ありがとう、朔哉。

こんな私と結婚して、愛してくれて。

これからもずっと、私も朔哉を愛していくから――。

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