5-3 黄泉へ

きつく目隠しをし、寝室へ入れてもらう。


「朔哉」


私をベッドの傍に座らせ、環生さんは朔哉の手を握らせてくれた。


「私が絶対に、助けるから。

だからもうちょっとだけ、頑張って。

絶対に絶対に助けるから。

だから」


朔哉からの返事はない。

ただ、苦しそうな荒い呼吸が聞こえるばかり。

手探りでそっと、朔哉の頬に触れる。

想いを込めるように唇を重ねた。


「……待っててね」


私は――黄泉へ、降りる。




「……気持ち悪い」


黄泉比良平坂の入り口は、塞いである岩の隙間からすでに、鋭い腐臭のする空気が漏れていた。

入りたくない、けれど黄泉に行かなければ朔哉の病気は治らない。

小さく深呼吸し、岩を押す。

千引ちびきの岩といわれるだけあって重いが、必死に力込めて押した。


「開いた……」


僅かに人ひとり滑り込める穴が開いた途端に、肺を刺す空気が私を包んだ。

目を開けていられなほど、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

まさに毒ガスだ。


「でも、行かなきゃ……」


一歩踏み込んだ先は鼻を摘ままれてもわからないほどの闇だった。

うか様我持たせてくれた狐火の提灯を掲げると、辺りがぼぅと蒼白く照らされる。

ぴちょん、ぴちょんと水滴が落ちる音が響く。

なにかがかさかさと這いずり回り視界の隅を通り過ぎるが、気づかないフリで前へと進んだ。

目指すはうか様の母親、伊弉冉様のいるところ。


うか様から聞いた朔哉を救う方法。

それは伊弉冉様から言の葉を譲り受けるというものだった。


「伊弉冉様って……」


「私の母親。

それで、黄泉の国の女王」


自分の母親のことなのにうか様は、忌ま忌ましそうに吐き捨てた。


「伊弉冉の元にある言の葉は、文字通り言霊が宿った木の葉。

これがあれば絶対に、心桜の願いは叶うから、朔哉もよくなる」


「そんなものがあるなら……!」


どうしてすぐに、教えてくれなかったの!?


「でもそれは、伊弉冉の元へ行って、譲り受けなければならない。

私たちは天照大御神様に禁じられているから黄泉には入れないし、人間の心桜は入った途端……それどころか漏れている空気に触れるだけでも死ぬ。

それに仮にたどり着けたとしても、伊弉冉が出す無理難題をクリアしないといけない」


「そんな……」


唯一の手段は、絶望的だった。

伊弉冉様の試練はいい、どんなものでもクリアしてみせる。

けれどそこまでたどり着けない。


「どうにかして、黄泉に入れないんですか」


「入ったら死ぬのよ!?

それでもいいの!?」


うか様がヒステリックに叫ぶ。

でも私はそれを、妙に冷静に見ていた。


「かまわない、です。

だって朔哉のためなら命を捨ててもいいって言いましたよね?」


「心桜……」


ぎゅっとうか様に抱きしめられた。

私の身体に触れる彼女の手は……震えていた。


「手段がないわけじゃないの。

あれがあれば……」


「あれってなんですか?」


なにかいるなら、探すし作る。

それくらい、平気。


「んーっと、こういう感じの、薄い着物で……」


うか様が説明してくれたものには見覚えがあった。

今日、崩れてきた物の中に入っていた奴。


「それたぶん、倉庫にあったあれだと思います」


「ほんとに!?

すぐに取りに行こう!」


大急ぎでうか様の屋敷へ向かい、倉庫からそれを出す。


「これ、ですか……?」


「これこれ!

これがあれば黄泉には入れるから!」


その着物は防護服的な役割があるらしく、それを羽織っていれば黄泉に入っても無事でいられるようだ。


「本当に心桜、行くの?」


「はい」


鳥居の前でうか様は盛んに手を揉んでいた。


「朔哉のためですから」


「気をつけていくのよ」


「はい」


中は暗いからと、狐火の提灯を彼女は持たせてくれた。

それを手に鳥居をくぐる。

こうして私は、黄泉比良平坂を下っている。




坂を下ったところに、なぜか桃の木があった。

なっている桃が暗闇の中で、まるで電飾のように輝いている。


「目印になるよね……」


桃の木を尻目にさらに歩みを進める。

もうどれくらい歩いたのか、わからない。

見えるのは僅かに、提灯の照らす範囲だけ。


「あとどれくらいなんだろう……?」


伊弉冉様は最奥にいるのだと聞いている。

けれどその最奥が、入り口からどのくらい先にあるのかわからない、とも。

うか様たち神様にとって、黄泉は忌むべき場所。

入った人などいないし、いても帰ってきた人はいない。


「……人の子、かえ」


唐突に、声が響いてくる。

それはチューナーの微妙に合っていないラジオのようで、酷く落ち着かない。

しかもそれを聞いた途端、叫びだしそうなほどの恐怖に駆られた。

身体の内側をぞわぞわと蛇が這いずり回っている気がする。

必死に歯を食いしばり、悲鳴を飲み込む。

全身は粟立ち、髪の毛までも逆立ちそうだった。


「……人の子がこんなのところへ、なんのようかえ」


あたまの中へ直接響いてくるその声が、おかしそうにころころと笑った。


「……言の葉を、もらいに」


震えそうになる声を必死に押さえ、極めて冷静に言葉にする。


「……ほぅ」


ぽっと、目の前に白い炎が灯る。

それは二列になって私の前を、ぽぽぽぽっと照らした。


「言の葉が、欲しいのかえ」


一段高くなった前方に脇息に寄りかかる、若い女の人がいた。

髪は優に身丈を超えて地面に広がっている。

白い裸体は所々朽ちており、そこから巻き付く蛇が這い出したりしていた。


「そうか。

……ほれ」


後ろの木から一枚の葉がちぎれる。

目の前にすっと飛んできたそれに飛びついた。

が、それはするっと私から逃げてその女の元へ戻ってしまう。


「そんなに簡単に、やるわけなかろうて」


ころころと女が笑う。

彼女が伊弉冉様、なんだろうか。

それにしても黄泉の女王はすでに死んでいるからか、人間から素顔を見られようと消えることはないらしい。


「我はずっとこんなところにひとりであろう?

だから、暇で暇で」


彼女が脇息から身体を起こすと瞬く間に、目の前へお膳にのった料理が並んでいく。


「しばし我に、付き合ってくれないかえ?」


にっこりとそこだけ赤い唇が、口角をつり上げた。


「ほれ、一献」


杯を持つ手が震える。


――黄泉のものを口にしてはならない。

たとえ、水の一滴でも。


神話を読んで知ってはいたし、ここに来る前に何度も、うか様から言い聞かされた。

口にすれば二度と、黄泉からは出られない。


「ほれ、早く飲まぬか。

ほれ、ほれ」


いつまでも口をつけない私を、彼女はじっと見ていた。

ニヤニヤと笑っているところからして、わかっていて勧めている。

彼女の言うことを聞かなければ、言の葉はもらえない。

けれど飲めば私は黄泉から出られなくなり、言の葉は朔哉の元に届かない。

どうしたらいいのかわからず、ただただ杯に注がれた酒を見つめる。


「早う飲め、早う。

それとも我の酒は飲めないのかえ?」


彼女の目が、すーっと細くなった。

飲まねばどのみち、殺される。

半ばやけくそでくーっと一気にそれを口に含んだ。


「……!

ごほっ、ごほっ!」


それはのども通していないのに私の全身を焼き、吐き出したのは真っ赤な血だった。


「もっと飲め。

食べよ」


ぼたぼたと血を吐いている私にかまわず、彼女はさらに杯へ酒を注いだ。

少しだけ落ち着き、膳の前へ座り直す。

尾頭付きの鯛に赤飯、それに吸い物と祝いの膳だが、どれも腐りウジが涌いていた。


「……伊弉冉様。

言の葉をいただきたいです」


彼女の前で平身低頭する。

瞬間、飛んできた杯が私のあたまを直撃した。


「まだ我は満足しておらぬ。

満足するまで帰さぬぞ」


「お願いでございます。

朔哉が、朔哉が待っているのです」


ひたすら地面に額を擦りつけ、伏して願う。

それしか私には、できないから。


「……朔哉、とは誰ぞ?」


彼女の声色が、僅かに変わる。

まるでいいおもちゃでも見つけたかのように。


「私の夫でございます」


返事はない。

ただごくりとのどの鳴る音がしたので、酒でも飲んでいるのかもしれない。


「夫は妻を裏切るもの。

……我も、裏切られた」


ふっと、彼女が皮肉るように笑う。

黄泉に伊弉冉様を迎えに来た夫である伊弉諾様は、見るなという約束を破って伊弉冉様の姿を見た。

あんなに愛し合っていたのに、夫の仕打ちに伊弉冉様が怒り狂っても仕方がない。


「朔哉は絶対に、伊弉諾様のようなことはしません」


するわけがない。

私がしないでって言ったら、絶対に聞いてくれる。

それにたとえ、伊弉諾様のように妻の朽ちた醜い姿を見たとしても、朔哉は私を愛してくれる。

根拠のない、確証だけど。


「なら、試してみるかえ」


蛇が私の身体に巻き付き、例の着物を剥がした。


「かはっ」


血液が沸騰する。

肺からせり上がってきた血を吐いた。


「かはっ、かはっ」


意識が、朦朧とする。

目の前が徐々に霞んでいく。


「さて。

その男はお主をちゃんと、迎えに来るかのう」


ころころと彼女の笑う声が、いつまでも響いていた。

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