第7話 賭け
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儀式は順調に進み、残りも十個という所まで来た。
だが、問題が起きたのは五月下旬のとある木曜日のことだった。
「ただいま」
学校での一日を終え、気だるく帰りを告げて、僕はいつも通り二階に上って日記の返事を書こうとしていたのだが、それはままならなかった。「朝日、ちょっとこっちに来てちょうだい」と、いきなり母さんに呼び止められたからだった。
「そこ、座って」
母さんは洗い物をタイミングよく終えたようで、食器乾燥機のタイマーを回し、付けていたエプロンを外して自分もリビングの席に着いた。その横には、仕事を終えて帰ってきたばかりの父さんも、ワイシャツ姿で座っている。その面持ちはとても重い。
「ちょっと話があるの」
「……成績ならそんなに前と変わりないはずなんだけど」
僕はぼやきながら通学鞄を近くの床に置いて、父さんと母さんの正面に座る。
母さんはいつにない低めの声で、僕を責めるように告げた。
「成績は変わりないけど、授業態度は変わってるはずよね? 最近寝てるばかりだって先生から電話を頂いたの。そりゃ夜中にあれだけ家を抜け出していたら寝不足にもなるわ」
「……それは」
「夜中トイレに起きる時に足音がして、確認したら玄関のドアの鍵がかかってなくてあんたの靴が無かったの。その後寝室で耳を澄ましたら、あんた明け方ぐらいに帰って来てたでしょ」
僕の部屋が二階にあるのに対して、両親の寝室は一階にある。家を出るときにばれないように、出来る限りの注意は払ったつもりだったのだが……。困ったことになった。今度からは二階から抜け出す方が良いのかもしれない。
余分な考えばかりが浮かんで、言い訳の言葉は何も出てこない。
「黙ってないで、何か言ってちょうだい! 言ってくれないと何も分からないでしょ!」
母さんの高圧的な怒声が、リビングの空気を通じて僕の鼓膜をぶわりと振るわせる。僕はおもわず目を閉じて身を引いてしまう。
母さんの横に座っていた父さんが、腕を組んだままゆっくりと口を開いた。
「――朝日、本当に大丈夫なのか」
イライラを募らせる母さんをなだめつつ、白髪交じりの頭をくしゃくしゃとかく父さんは落ち着いた様子で僕の目を見る。ずっと目を合わせていると、心が全て見透かされてしまいそうな、こちらが縮こまってしまうような目だった。僕はその圧力に耐え切れなくて、視線をつい下にやってしまう。
机を見つめながら、僕は考える。どこまで言って良いんだ? でも、そもそも儀式のことを言ってどこまで信じてくれるか分かったもんじゃない、というか多分信じてくれない。でも、乗り切るためにはここに何かが必要だ。でも、言葉が出ない。
「朝日、父さんたちはお前を責めたいわけじゃない。いじめられたりしてるなら止めて見せるし、ただ危ない目に遭ってないかを知りたい」
「分かってる。父さんの気遣いも、母さんの心配も、十分に分かってるんだ。でも……」
父さんの放つ一言一言が、心にしっかりと絡みついてくるのが分かる。
父さんと母さんの気持ちはひしひしと伝わる。しかも今は受験期だし息子が変な方向に生きようとしてるなら止めようとするのは当たり前だ。
――けど、やっぱり駄目だ。
「言えない」
綿雪さんのことを簡単には説明なんて出来ない。今の父さんと母さんには言っても火に油だ。
僕の言葉を聞いた母さんは、当然激昂する。
「朝日!」
だが、父さんは何も変わらない様子だ。
「それは――本当にお前の決めたことなのか、朝日?」
父さんの問いかけに、僕は思いついた言葉を返す。
「母さん、父さん、お願いがある」
「何よ、急に」
「絶対に成績は下げない。なんなら、今度六月半ばにある期末テストで点数と順位を上げてみせる。だから、今後の僕の夜の抜け出しを許して欲しい」
「認められるわけ無いでしょそんなもの!」
母さんが机を思いっきり叩いて吠える。机の叩かれた部分は大きな音と揺れを伴って、母さんの言葉に攻撃力を加える。僕はまたそれにびっくりして体をびくりと震わせた。
「テストの点が上がったからって子供の夜遊びを許す親が何処にいるのよ!」
「遊んでないよ! 友達との約束なんだ!」
「別の友達まで連れまわして遊んでるの!? 大体あんたは今年受験――」
と、声を荒げる母さんを止めたのは、父さんの手だった。それぞれの頭を冷やすように、僕と母さんが火花を散らしていた目線の間にすうっと手を差し入れた。
「落ち着け、
声に重みを加えて、母さんをなだめた父さんは、続けて僕に言う。
「――分かった、朝日。そのお前の言うに賭けに乗ろう」
「あなた! 正気なの!?」
「子供は自立するためにもがく。その時期が、朝日にとっては今なんだろう」
父さんはまた腕を組み直し、目を閉じて、自分に言い聞かせるように言った。
「朝日、一つだけ教えて欲しい。それは誰のためにやってる?」
「――え?」
誰のためってそれは――。
ふと、言われるままに考えを向けてみるが、答えがスッと浮かばない。
「……その質問の答えはテストの後で良い。自分の行動にどういう意味があるのか、じっくり考えてみろ。――ところで和菜、結果はいつ頃分かるかとかは、日程表に書いてあるか?」
「いいえ。でもテスト全部の点数をまとめた表がテスト一週間後くらいにいつも来るかしら」
その言葉を受けて、僕たちの視線はリビングの片隅に引っ掛けてあるカレンダーに集まる。
「ということは、少なくとも七月七日辺りには全部分かるだろう。ボーダーはどのくらいだ?」
「学年十五番以内、くらいならどう? 朝日の普段の順位が、百八十人中の五十番前後だから」
「……三位以内だ」
順位を聞いてぎょっとしたのは、僕と母さん両方だ。
「和菜の言った条件だとまだ甘い。三位なら、夜中の抜け出しを認めてやっても良い」
「そんな順位取れっこないって父さん!」
「無理ならこの話は無しだ。お前の自立を、まだ認めるわけにはいかない」
父さんはきっぱり言い放って、リビングを出て行ってしまった。残された僕と母さんは、お互いにため息を吐いた。
「……ですって朝日。後は父さんとあんたに任せるわ」
母さんもこれ以上手をつけられないと判断して、エプロンを付けて台所の方に帰っていく。
僕も頭の中にごちゃごちゃを抱えたまま、通学鞄を背負う。とりあえず二階の自分の部屋に戻ることにした。
帰ってきてから返事を書く予定だった日記は通学鞄の中に放置されている。僕はベッドの上に着替えもせず横になっていた。この前換えたばかりの電灯が、陰りも無く僕の部屋を明るく照らしている。
僕はぐずぐずの煮えきらない思いを抱いたままだ。
「だれのため……」
父さんが言ったキーワードの部分を、同じ言葉でなぞる。そもそも僕はなぜここまでして、綿雪さんの事を知りたいと思うのだろうか。人の感情というものが言葉で表しきれないのは、当然のことだ。人間はそんなに単純じゃない。でも、似た言葉くらいはあるはずなんだ。
綿雪さんと初めて話した時を思い出す。すると頭の中に浮かんできたのが、綿雪さんが流していた涙だった。
最初は恥ずかしいからだと思っていたけれど、よく考えればその後僕は恥ずかしがった綿雪さんから鳩尾に掌底をくらっている。あの掌底は彼女が恥ずかしいから僕に放ったもので、リアクションを考えれば綿雪さんが涙を流したのは恥ずかしさを認識する前のことだ。
綿雪さんはたまに悲しそうな顔をする。僕が馬乗りになってしまった時も、池で彼女の手を握ったときも、そのたびに僕は心に引っかかりを感じてきた。
もしかしたら、そこに僕の知りたい何かがあるのかもしれない。
不意に、心の中で衝動が湧く。
ベッドに転がっていた僕は飛び起きドアを勢いよく開けて、落ちるように階段を駆け下りる。
「朝日、もう少し静かに下りなさい!」と、怒った母さんの声が台所から飛び出す。
「ごめん!」
逃げるものでもないけれど、早く僕の答えを示したかった。父さんの部屋の前に来て、扉をノックする。
「入って良いぞ」
薄暗い中、机に備え付けられたオレンジの電灯を頼りに、父さんは本を読んでいた。読書用の老眼鏡を外して、背もたれのついた椅子に座ったまま僕の方を向く。
「どうした朝日?」
「――なんとなく分かったんだ。テストの後でも良いって言ってたけど、今言いに来た」
「……さっきの答えか。いいだろう、聞こう」
切り出そうとして一瞬息が詰まったから、一度息を吐ききって、また吸って、言った。
「多分、僕は僕と、さっき言った友達のためにこんなことをしてるんだ。その友達は何よりも大切だから、僕が支えなきゃいけない」
綿雪さんが辛そうな顔をすると、息が詰まる。
綿雪さんが悲しそうな顔をすると、心臓が止まってしまいそうになる。
僕は綿雪さんの事を知りたいし、綿雪さんに悲しそうな顔をして欲しくない。出来ることなら、その原因を取り除いてあげたい。
僕のためにも、綿雪さんのためにも。二人のために。
「……それがお前の意思だとするなら、それを成す為には言葉だけじゃなく、それを貫き通し、実行に移すための力が要る。お前の場合今必要なのは、この賭けに勝つための学力だ。――その言葉を実行したいなら、お前自身の実力で貫き通そうとしてみろ、朝日」
父さんのその言葉には、確かな重みがあった。
*
五月二十二日(木)
今日、親に夜中の抜け出しがバレちゃいました。(笑) いや、笑い事じゃないのか……。
親に深夜抜け出すためには、期末テストで学年三位以内をとるだなんて結構滅茶苦茶な条件を出されてしまいました。というわけでしばらく超がんばって勉強します。綿雪さんもぜひ僕に得意科目の勉強を教えてください。切実に。
朝日
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