第111話 薄れゆく境界線

 起きれば氷兎がいる。寝れば、氷兎はいなくなる。日に日に氷兎の身のまわりの物が、少しずつなくなっていく。でも、どうしてだろう。氷兎は物が消えていくというのに特に何も気にしていないようだった。なくなったら、また買えばいい。そんなことばかり言っている気がする。


 寝ても醒めても同じ光景が広がってくると、時折自分がどっちにいるのか分からなくなる。だから、右手の手のひらに『現実』と黒のマーカーで力強く書いておいた。寝れば、その文字は消えている。これで夢との判別も容易だろう。


 今日は氷兎と菜沙ちゃんは実家に帰って掃除をするらしい。部屋には俺と西条の二人だけだった。


「……明らかに、外部の力が働いているな」


「徹夜しようとしても、いつの間にか意識がなくなってるんだもんなぁ……」


 初日は西条が見張っていたけど、気がついたら眠っていた。本人も、何か変だと思ったのか次の日も見張りを引き受け、眠気覚ましの栄養剤なんてものも買い込んできた。


 だけど、それらには何の効果もなく、ゴミと化した空き瓶が増えるだけ。これは異常だ。何かしらの力が働いているとしか思えない。西条はペットボトルの紅茶を飲みながら、忌々しそうに顔を歪めていた。


「何か手立てはないのか。やられたまま、というのは癪に障る」


「手に何か書いとけよ。俺は現実って書き込んで、夢と区別してる」


「それも手なのかもしれんが、根本的な解決にはならん。一応俺も前に言ったが……元素記号のNhはなんだ?」


「えっと……日本変人連合」


「それでいい」


 西条も夢との区別対策に、このやり取りをするようにした。元素記号のNh……俺にはわからないから、適当にNhの含まれる言葉を言えっていわれたっけ。夢の中の西条はそれこそ本人の記憶が強く根付いているから、例え俺が馬鹿でも夢の中の俺は答えられる……らしい。逆に夢の中で西条にNhはって聞いたけど、西条は答えられなかった。まぁ、俺が知らない話を夢の中の西条が知ってるわけないって、そういう話なんだろう。


「本当に夢の中の俺って正解を答えてるの?」


「そうだな。何度も言うが、調べるなよ。お前が答えを知ったら全部がパーだ」


「なんか納得いかねぇ……」


 あまり深く考えるな、と西条は言うが……本当に、こんな感じでいいんだろうか。夢との区別化は確かに重要だけど、もっと何か他にやれることはないのか。


 試しに腕をつねってみたけど、普通に痛かった。飯の味もちゃんとあるし、空腹感も、満足感も確かにある。間違いなく、こっちが現実のはずだ。


「監視カメラは設置しても次の日にはなくなるし、起き続けられねぇし、どうすればいいんだよ……」


「何か、尻尾でも掴めればいいんだがな」


 結局、それらしい話は出てこず、その日は俺が見張りをすることになった。そういえば、氷兎はこんな状況なのによくまぁ呑気に寝られるもんだ……。





~・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 起きて、最初に右手を見る。そこには何も書かれていない。どうやら夢のようだ。相変わらず現実と変わりない部屋で、見分けがつかない。氷兎はベッドにいないどころか、小物一つ置かれていない。今回は何がなくなっているんだか。


 部屋中を見てみたところ、どうやら氷兎のゲーム類がなくなっているらしい。俺からすれば発狂ものなんだが。まぁ、本人が気にしていないってことは……アイツ、夢の中でナイアって奴と会ってるのかな。そこで何か話聞いてたりとか。


『コンコンッ』


 いつものように、西条は部屋にやってくる。毎度毎度、飯の当番がどうのこうのとやるのも面倒になってきた。しかも、毎回交代でやってるみたいで、今回の夢は俺が当番のはず。部屋に招き入れて、さっさと俺は朝食作りを開始した。西条も何も言うことがないのか、それか飯を作っている俺に文句がないのか、何も喋ることはない。


 夢は夢で、質素だ。でも料理の腕は少しずつ上達している気がする。まだまだ氷兎には及ばないけど……今回の事件が終わったら、少しだけ楽をさせてあげようか。





〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 起きて、手を見る。何も無い。


 起きて、手を見る。現実。


 起きて、手を見る。何も無い。


 起きて、寝て、起きて、寝て、見て、見て、見て。まるで同じような日々が嫌でも続いていく。日付は確かに、二日で一日進む。二度寝れば、先に進む。


「Nhはなんだ?」


 ───この問答に、意味はあるのか。


「日本……」


 現実。現実。現実。そう、変わらない。物は消えていくけど、それでも何も変わらない。進展は、ない。


 ───何も、ない。





~・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





「西条、飯できたぞ」


「あぁ」


 お互い、口数は少ない。なんだろう、そこまで険悪な仲ではなかったはずなのに。どうにも居心地が悪い。最近ロクな飯を食っていない気がするのは、気のせいだろうか。


『コンコンッココンッ』


 小刻みなノックが聞こえる。誰が来たのかも丸わかりだ。入っていいと伝えると、予想通り藪雨が眠たそうな顔で部屋に入ってきた。瞼を擦っているが、寝不足だろうか。それに寝巻きだし、髪の毛もピョコンっと一部跳ねている。


「おはよぅござぃます……」


「寝癖と服くらいはちゃんとしろ、藍」


「だってめんどくさいんですー」


 二度手間ですよ、二度手間。心底面倒くさそうにそう言った藪雨は、椅子に座ると机にうつ伏せになって溶けるように身体から力を抜いていく。


「ひーまーでーすー」


「やかましい。こっちだって同じものだ」


「そうだぞー藪雨ー。なんかもう俺もやる気が起きねぇんだよー」


「この部屋から暇つぶし要素をなくしたら、私薊さんに甘えるくらいしかやることがなーい」


 気の抜けたような声を出しながら、スッと起き上がり、藪雨は西条に向かって身体をダイブさせていった。なんでこいつらのイチャつきをこんな所で見なくちゃいけないんだか。外行け、外。


「……なんか、寂しいなぁ」


 あぁ、俺っていつもどうしてたっけ。合いの手を打ってくれたり、同調してくれたり。そんな人がいたんだよ。今はいないけど。でも、それって本当に俺にとって大事なことだったんだなぁ。


 どうしよう。本当に、つまらない。


 手を見る。何も無い。


 もうすっかり癖になった。手を見て、何も無い。一体何が、何も無い?


 何も無い。現実。何も無い。現実。何も無い、現実。何も無い、現実。何も無い現実。何も無い現実。


「……何も、ない」


 何も変わらない。それって、日常? それって、現実?


 あまりに空虚な気持ちになって、虚空に手を伸ばし、掴んでみた。右の手のひらには、何も無い現実があった。





〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 相変わらず変わらない日々が続く。何だか日付の感覚も変になってきた。飯を作って、西条と食って、適当に訓練して……ゲームやって、テレビ見て、寝る。俺の生活はいつもこんな感じだったっけ。味気ない、なぁ。


 あぁ、飯を作るのも億劫だ。朝飯に食パンの上に目玉焼きを乗せて出したら、流石に鋭い目で西条に睨まれたけど、それなりに美味かった。飯を食ったら珈琲が飲みたくなってきた。残念なことに、部屋には電気ケトルはない。だから片手鍋に水を入れて、そのまま加熱して沸騰させる。市販の珈琲だが、不味くはない。なんだか物足りない感じだ。


「鈴華、紅茶を頼む」


「はいよー」


 西条の分の紅茶も淹れて、椅子に座って気長にティータイム。携帯をいじっていると、SNSの書き込みが目に入ってきた。どうやら今人気の男性俳優が酒に酔って人を刺殺したらしく、炎上しているようだ。


 ……くだらない。今度は記者会見が開かれるらしいが、見る価値もない。どうせ、へこへこと頭を下げて、その場しのぎの謝罪を繰り返すだけだ。それを面白おかしく写真を撮り、記事を仕上げ、マスコミはあることないことを市民に提供していくんだろう。


「人気な男性俳優が人殺して、記者会見だってさ」


「俳優なんてどうでもいいが……個人的には実写よりアニメ派だからな」


 新聞を広げ、適当に記事を読んでいる西条も興味はなさそうだ。実写化か……確かに俺もアニメ派だ。アニメには、アニメにしかないものがある。それが好きで、アニメを見ているんだから。


「謝罪会見で親も同伴だとさ」


「息子が世間を騒がせてすみません、と言うんだろう。まったく馬鹿馬鹿しい。自立して自分で選んだ道だろう。責任を取れないくらいなら、自立なんてするもんじゃない。第一、何故親が謝る必要がある?」


「そりゃ、息子だし? 世間は、育てた親にも責任があるって追及するんだろ。こんなことをするなんて、どういう教育をしたんですかって」


「人殺しの親は人殺しか? いや違うだろう。虐待を受けた子供は、自分の子供に虐待するのか? いいや、絶対とは言いきれない。親と子の因果なんぞ、そこまで強固ではない。自立するとは……大人になるというのと同じ。自分で責任を取り、自分で選択できる力があるということだ」


 意思、責任感、そして先を見据える力。それらが大人になるのに必要なのだと、西条は言った。世の中には大人になれないガキが沢山いる、と。また大人になったつもりのガキも沢山いると言っていた。


「子供はかわいらしいかもしれんが、ガキは手に負えん。特に年齢だけが取り柄の上司や、自己中心的なクソガキだな」


「俺たちの上司も、年齢だけが……いや、なんだかんだ言って、指示は出すんだよな」


「当たり前だ。奴は奴で即時判断して部下を動かすことができる。問題は奴の判断を決定づける論理感と道徳観、優先順位だ」


「バケモノがいたら、人の姿であろうと即殺せ。疑わしきは殺せ。バケモノの中に人間が混じっていようが、被害が拡大する前に処理しろ。当事者からすれば、たまったもんじゃない。処理班の連中も、どうかしてるぜ……」


 記憶の中にあるのは、山奥村で起きた沼男事件。住人の誰が沼男なのか判別できず、結局皆殺しにしてしまった。処理班を止めることもできず、紫暮さんを助けることもできず。あの時ほど、自分の無力を嘆いたことはない。


 銃が撃てる。戦う力がある。バケモノを殺せる。人を救える。なんて、生易しい考え。犠牲なしでやり遂げた任務なんてなかった。俺は、このまま戦っていけるのか?


「……なぁ、西条。俺って何の為にここにいて、何の為に戦ってんのかな。人の為だなんだと言っちゃいるものの、いまいち自分の中でそうだと断定できないんだ」


 右手を伸ばし、空想の中で銃を握る。人差し指をゆっくりと動かして、引き金を引く。弾丸は神話生物を屠り、そしていつか人間すらも撃ち抜く。仕事の際につけている手袋は、指先だけが摩耗して磨り減っている。こうやって少しずつ、何かがなくなっていくんだ。綺麗だと思っていた手のひらも、汚れて赤く染っていく。


 今の自分の手のひらには何も無いが、そのうち血に塗れて、傷ができて、人と手を繋ぐことも躊躇するようになるのかもしれない。


「あのな……俺はお前じゃない。お前がそこに立ち続ける理由は、自分で決めろ。なまじお前は場の雰囲気に流されやすい。何か決定的な心の支えや指針がなければ、お前も処理班の連中同様に、人の心を失い、虚ろな目で引き金を引く人形のようになるぞ」


 人形。誰かに動かされるまま、自分の意志なく行動するもの。処理班には、組織に入ったばかりの頃に一緒に任務に行っていた隼斗がいる。アイツも、今となっては虚ろな目のまま淡々と処理を実行するだけの存在になってしまっているんだろうか。


「ちなみに、処理班は死亡率がかなり高い。そのくせ人員だけはそこまで減らんというのが、なかなかきな臭い。お前の友人も、まだ生きているのかわからんな」


 ……なんか、怖いなぁ。俺ってこんなに、弱かったっけ。





〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 ───いや、これはまずいね。あの爺、他の神とも協力してきたみたいだ。


 暗い部屋の中で珍しくその真っ赤な口を苛立たしげに歪めている女がいた。彼女は腕を組み、しばしの間悩み続ける。


 ───この姿の私じゃ、あの爺には勝てない。かといって何か送り込んでも無意味だ。いや、困った困った。ここまで来て彼を失うのは痛いんだけどなぁ。


 その顔は暗がりのせいでよくわからないが、言っていることとは正反対な表情をしているような気がする。その顔には憤怒や侮蔑はなく、やはり愉悦と好奇心だけが滲み出ていた。


 ───そうだ、彼女に発破をかけてみようか。言葉でなくとも、彼女の強い記憶さえ呼び起こせば事態を好転させることができるかもしれないね。


 彼女はその場から振り向くと、また口元をニヤリと歪めて嘲笑わらった。


 ───安心しなよ。流石に傷つけたりしないから。それやったら今後の楽しみが台無しだもんね。


 手を出すことはできない。歯がゆい気持ちのまま、傍観者に徹するしかない。まったく……忌々しい。





To be continued……

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