第51話 『恋』と『愛』

 昼にファミレスで起きた事が、どうにも頭から離れないまま夜を迎えた。見たくはなかった。彼女の幸せそうな顔を。


「……何を、馬鹿なことを」


 一瞬よぎったその想いを捨てるように頭を軽く振った。彼女の幸せそうな顔が見たくない? それは、馬鹿げている。彼女が幸せなのは、とても素晴らしいことではないか。なら何故、僕は彼女の幸せそうな顔を見たくないと思った? 僕は、彼女の幸せを望んでいないということなのだろうか。そんなにも、僕は他人を思いやれない畜生だったのだろうか。


「………」


 悩むばかりで、事態は進展しなかった。少しだけ頭でも冷やそうか。もうそろそろ満月だろう。綺麗な月が見えるはずだ。そう思ってベランダに向かっていくと、そこには一人の男の子が立っていた。癖のない髪の毛で、優しげな表情を浮かべながら彼は空を見上げていた。


 邪魔をしては悪いだろうか。僕は部屋に戻ろうか。なにぶん、人と話したい気分ではない。そう考え踵を返そうとしたところ、ちょうど彼が振り返って目が合ってしまった。彼は軽く頭を下げて、僕のことを見てくる。流石に戻ろうにも戻れない。僕も軽く頭を下げてから、ベランダに出た。


「どうも、林田さん。こんな夜更けにどうしたんですか?」


「……それは、僕も聞きたいな。どうしてここにいるんだい?」


「湯涼みがてらに、月を見ていました。なんとなく、満月が近くなると惹かれるような気分になるんですよ」


「月には人を惹きつける魔力がある、だなんて言われているからね」


「引きつける、とも言えますけどね。人の身体って水分が多いじゃないですか。それが、月に引っ張られるらしいんですよ」


「そういった話もあるね」


 一人でゆっくりと考えたかったが、不思議と口が回る。誰とも話したくなかったのが嘘のようだった。月のせいだろうか。それとも、彼特有の雰囲気のせいだろうか。初めて会った時もそうだった。彼と話していると、どうにも話が湧き出てくる。


 さながら、地の文だ。会話に情景描写なんてものはいらない。目的とか、理由とか。そういったものが伝えられればいい。けど彼と話していると、だんだんその時の想いとか、そういったものも話したくなってくる。不思議な男の子だった。


「……僕は、なんとなく考え事をしたい時には空を見上げたりしていたんだ」


「いいじゃないですか。空をよく見る人って、優しい人が多いらしいですよ」


「……優しくなんてないよ。僕は、自分が思っているよりも優しくない」


「自分で自分を決めつけるのは、中々難しいことではないですかね。人の価値は、残念なことに他人からでしかつけられないので。自分で自分の価値は付与できませんよ」


 ……確かに。彼の言うことには一理ある。人の価値は他人からしか得られない。相手の必要とするものがあれば、その人の価値は上がるだろう。逆ならば下がるだろう。けど、自分で自分の価値を決めつけることはできない。それは性格にも言えることなのかもしれない。自分の性格を自分で分析するのは難しいことだ。ただ、第三者の客観的事実ならば、印象や風貌も含めその人の性格なんてものを表せるのだろう。


 そうして会話を交わしていると、ふつふつと心の奥で湧き上がってくるものがあった。会話下手な僕が、自分から話したいと思うことは早々ない。けど、目の前の彼は僕の話を黙って聞いてくれるだろう。そう思えた。だから、僕は自分の想いを吐露してしまおうと思った。それがきっと、僕が楽になれる手段だったから。


「……僕の話を聞いてくれるかい?」


「もちろんです。現役小説家の話なんて、早々聞けない貴重な体験ですしね」


 彼は少しだけ微笑んでそう答えた。困ったな、そんなに良い話ではないのに。けれど、話を辞めようとは思えなかった。互いに外の風景を見ながら、僕はポツポツと自分の話を切り出していく。


「僕の両親は、幼い頃に僕を置いて消えてしまった。蒸発したのか、どこかで心中でもしたのか、そんなことはわからなかった。家に帰ったら、誰もいなかったんだ」


「………」


「昔は外で遊ぶのが好きでね、家にいる時間というのはほとんどなかったようなものだった。それで、その時一緒に遊んでいた子がいた。それが昼間に会った彼女……紗奈だった。彼女は身寄りがなくなった僕のことを案じて、一緒にいてくれた。彼女の両親も、僕のことを可愛がってくれた。きっと、四六時中一緒にいたよ。本当は、彼女は男勝りな性格でね……。だから、僕や男友達ともよく遊んでいたんだ」


 話していると、懐かしい記憶が蘇ってくる。小さかったあの頃、鬼ごっこをして僕は彼女によく捕まった。彼女の運動能力は目を見張るものがあって、当時の子供の中では一番速かった。木登りも得意で、スカートを履くよりもズボンを履いているような女の子だった。


「中学が終わり、高校も卒業出来た。けど、僕にはもうお金がなかった。大学に行く余裕なんてない。だから働かなくちゃいけなかった。地元で働きながら生活していた。その歳になっても彼女は地元にいて、僕と一緒にお酒を飲んだりもした。気がつけば……彼女が隣にいるのが、当たり前のようになっていたんだ」


「けれど、その当たり前は崩れてしまった。ですよね?」


「……そうだね。用事があると呼び出されて、僕が会いに行くと……そこには彼がいた。狩浦さんだ。どこでどう知り合ったのかは知らない。僕は……逃げたんだ。どうしても、その現実を認めたくなくて。その場から離れたら、彼女が追ってきてくれるかなって、心のどこかで思いながら」


「……好きだったんですね、月見さんのことが」


 尋ねてくる唯野さんの言葉に、僕は首を横に振って答えた。好きであったのかよくわからない。独占欲のようなものを感じ、それを汚いと思った。当たり前ではなかったのだ。それが普通であるはずだった。


 荒んでいく心、それを実感した僕は、ただただ汚い心を見せつけまいと彼女から離れた。こんな汚いものが、恋であっていい訳が無い。まして、愛であってたまるものか。そう吐き捨てた。けど彼は、それは違いますと否定してきた。


「貴方は、月見さんに恋をしていたんですよ。男女間に友情は成立しない。何故ならば、育んだ友情が好意へと変わってしまうから。貴方は気が付かないうちに、気持ちが変化してしまっていた。そしてそれを気がつかないふりをしたんですよ。気がついてしまったら、きっと今までのような生活を送れなくなってしまうから」


 彼の言葉に、僕は何も言えなかった。そうである、と答えられない。それは違う、と否定できることでもない。ただ僕は黙って、彼の言葉の先を待った。


「……貴方が欲していたのは、きっと月見さんとの日常だった。しかしそれは崩れ去ってしまった。月見さんに、彼氏という存在ができてしまったから。貴方が守ろうとしたものを、別の誰かによって破壊されてしまったんです」


「……けど、僕は……もうどうだっていいんだ。彼女のことも、諦めがつくよ。きっとそのうち、消えてくれるはずだ。この想いも、何もかも。僕は彼女が幸せであるのなら、それでいいんだ」


「いいえ。消えません。そして、貴方は一欠片たりとも、月見さんに幸せであれと願ってなどいません」


 明確な否定の言葉が僕に突き刺さった。荒々しく、棘のように鋭い。彼は月を見るのをやめて僕の目を真っ直ぐ見据えて、口を開いた。


「貴方は、月見さんのことを最早好きではないんです。貴方はもう、月見さんに『恋』をしていない」


 ……なぜ、そう言えるのだろうか。彼の言葉や雰囲気に圧倒されたまま、僕は彼の言葉の続きを待つ。彼ならば、きっと答えをくれる。そうでなくとも、答えのきっかけをくれる。不思議とそう思えてしまったから。


「貴方が恋をしていたのならば、月見さんを好いていたのならば……えぇ、きっと貴方は彼女の幸せを願えたでしょう。けど、今の貴方は違う。自分自身では気がつかないでしょうけど、貴方がさっき幸せであることを願うと言った時……苦しそうに顔が歪んでいましたよ」


 言われて、自分の頬を触った。しかし今は無表情。頬が動いているような形跡はない。そんなに顔に出やすいタイプではなかったはずだ。


 ……なら、なんで顔に出てしまったんだ?


「それは、貴方が本当に彼女の事を想っているからです」


 口にしていないのに、彼は僕に回答をくれた。本当に彼女のことを想っている?


 ……そんなわけが無い。ならば、この汚い感情はなんだ。泥のように汚れ、ドブ水よりも酷い匂いを発するこの感情は何故存在する。彼女を想っているのならば、こんな感情があるはずがない!!


 心の中で自分自身を叱責し、僕は頭を悩ませた。そんな僕のことなんて知らないかのように、彼は話を続けていく。


「……恋とは、一方通行が可能な感情なんです」


 ……恋が、一方通行。訳が分からない。彼の言いたいことが、よく理解できない。


「しかし、愛はそうではない。愛は……一方通行が可能ではない。しかし、存在することは出来ます」


 わからない。わからないわからないわからない。恋ってなんだ。愛ってなんだ。それらはどう違うのだ。好きってなんだ。愛してるってなんだ。それらは、一体何が違うのだ。


「恋をしている時、相手を何かと重ね合わせて夢を見ることが出来ます。しかし、愛ではそれはできません。愛とは……互いに贈りあわなければ成立しないんです。愛を与えたなら、愛を貰わなければならない。そうした等価交換のような応報こそが、『愛』なんです。それが破綻した場合……愛というのは砕けてしまう。それ故に、愛とは一方通行になりえないのです」


 ……愛は、相互に贈りあわなければならない。ならば、それは恋でも同じではないのか。例えば、僕が仮に彼女を好きであったならば、僕が彼女に告白をして……


 ……彼女は、僕を振る、のか? そうだ。好きではないのなら断るはずだ。そう考えれば、確かに……恋は一方通行で存在している。


「愛の反対は無関心である。エリ・ヴィーゼルの言葉ですね。これ、確かにそうだと思えるんですよ。そして、昔は似たような言葉がもうひとつあったんです。愛の反対は、憎しみだと」


 あぁ、聞いたことがある。確かにそんな話をどこかで聞いた。愛しているの反対は、愛していない。つまり、無関心であり、決して憎しみではないのだと。


「愛の反対は憎しみではないです。しかし、愛があるからこそ、憎しみというのは存在します。例えば、こんな話はどうでしょうか」


 彼はある物語を語り出した。


 あるところに、一人の人間がいました。彼は旅をしていて、行く先々で色々な人間を見ていくのです。あぁ、しかし人間は汚く醜いものでした。他人に責任を擦り付け、自分だけがいい思いをしようとする。そんな人間達を見た彼は、世界を脅かす魔王になってしまったのです。魔王は魔物を使って、世界を征服して魔物の世界を作ろうとしました。


 彼が無関心であったのならば、そうはならなかったはず。醜い人々を見ても、あぁそうか、と流してしまえたはず。しかし彼は人間というものを理解し、愛していたのです。だから醜いものが見えてしまった。それ故に、彼は憎しみを抱いてしまった。愛故に、憎しみが生まれてしまった。


「人が悪か。魔王が悪か。それはさほど関係がありません。大事なのは、そこには確かに人々を見て回るという愛があり、憎しみに変わってしまったこと。愛と憎しみとは、非常に近しい存在なのです。それはきっと、今貴方が感じているものではないでしょうか」


「……僕は、彼女に憎しみを?」


「そも、愛しているのならば相手の幸せを願えるわけがないのです。だって、愛した人が、自分以外の人と幸せになるのを、本当に愛しているのなら許容できるわけがない。許容できてしまったのならば、それは愛ではなく、恋だった。なら、貴方のはどうですか?」


「……僕は……僕の、想いは……」


 答えられない。彼女が幸せであれと願っている。しかし、この心に燻る想いは……きっと微塵もそんなことを思っていない。この汚い感情は、彼女に不幸であれと願っている気がしてならない。


「恋では現実には勝てません。一方通行の感情など、現実という壁に阻まれて終わってしまいます。ですが……愛ではどうなのでしょうか。現実をものともしない、強い愛があるのならば。ドラマとか、よくあるでしょう。許嫁の女の子を助けに行く、勇敢な男の子のお話が」


「……僕には、きっとそんなものは………」


「貴方はもう十分逃げたでしょう。貴方の恋は、彼氏という現実に阻まれて終わってしまった。それでも貴方は夢を見続けた。それが貴方の小説であったはず……もう、バッドエンドは懲り懲りではないですか?」


 彼の目が、スッと細められる。緊迫した雰囲気が柔らかなものへと変わり、彼の優しげな声がこの夜の空間に響いていた。


「十分小説は見たでしょう。もう『恋』ではどうにもならないのです。必要なのは、貴方の『愛』です。恋を愛へと変える時が来たのですよ。もう、一方通行では無理なんです。恋は現実に敗れ、現実は愛に敗れる。貴方の抱いた彼女への想いは……どうなんですか?」


 ……逃げた僕は、ただ書き連ねた。彼女との幸せそうな夢を、小説として書き連ねた。だがそれは悲劇として終わる。彼女に唐突にできた彼氏によって。


 夢見た少年の、儚い恋の物語。


 あぁ、もう十分だ。夢は見た。現実も味わった。ならばもう、残された道はひとつではないのか。


 この想いを伝えよう。この汚れた恋を、僕は愛と呼ぶんだ。この憎しみも、愛故に生まれたものであったのか。


 心の中で燻っていたものが、すっと消えていった。その代わり、新たに生まれてきたのは……忘れてしまっていた、彼女への想い。胸の高鳴り。脈が早くなって、心臓がうるさいくらいに活発になる。あの時とはまた別の気持ち悪さだ。でも……少しだけ、気分がいい。


「……決意は、固まりましたか?」


 尋ねてくる彼に、僕は首を縦に振って答えた。その答えに満足したのか、彼は慎ましくニッコリと笑ったのだ。


「……最後に覚えておいてください。愛とは、恋に敗れるものなんです。残念ながら、人間というのは愛している人がいるにも関わらず、恋をしてしまう生き物なのです。浮気や不倫が絶えないのは、そういうことです。もし仮に、彼女が貴方に恋をしたのならば……結果は、わかりませんね」


 彼はそう言ってベランダから中に戻っていった。一人残った僕は、空を見上げて月を見た。綺麗な月が浮かんでいる。


 恋は愛へと変わるものだ。現実から逃げた僕は、捨てきれない恋を、育ててしまった。


 あの小説は、最早恋の塊ではない。僕自身の愛になってしまったのだ。あぁ、叶うのならば……悲劇ではなく、喜劇で終われますように。




To be continued……

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