第50話 好意を示す行為

 心地よい風が吹く、暖かな良い日だった。鳥の鳴き声が響く中、過ぎ行く人達の話し声が聞こえ、車のエンジン音が遠くから迫ってくる。


 何か良い事がありそうだ。そう思えるような天気の中、僕は彼女に呼び出された場所に向かって歩いている。そして、ふと気がついた。あぁ、これは夢だ。何度目かの同じ夢だ。


 引き返そうか。いや、引き返したところで意味もないだろう。現実では過ぎた日だ。引き返すことは出来ない。そう、記憶の通りに。あの忌まわしき日を、もう一度。


『扶持っ、こっちこっち!!』


 彼女の声が聞こえてくる。そうだ、あの日は出来なかった。けど今なら笑って会うことが出来る。頑張って、普段あまり使われない頬の筋肉を動かして笑顔を作る。けど……例え夢でも、その笑顔は剥がれるように崩れていった。彼女の隣にいる、一人の男性によって。


『扶持、紹介するね。私の彼氏の──』


 彼氏。その言葉が聞こえた途端、何も聞こえなくなった。ただ紹介されたであろう彼は、にこやかに笑って僕に頭を下げてきた。髪の毛をワックスで整え、爽やかな笑みを浮かべる好青年だった。


 ピキッ、ピキッ、と地面に亀裂が入っていく。例えようのない不安と、嫉妬。それらが混ざってドロドロとした気持ちの悪い物質を作り出していく。胃の中から、喉を通ってそれは声となった。


おめでとうさようなら、そしてどうか幸せにどうか忘れてください


 地面が割れる。笑っている彼女がだんだんと遠ざかっていく。落ちる。堕ちる。墜ちる。故郷が遠ざかっていく。そして、やがて地面が見えてくる。それは僕が住んでいた町。僕の仕事をする町。


 現実から逃れた避難場所。仕事という名目の元、僕は逃げ出したのだ。その言い知れぬ不安を零さぬために。この醜い嫉妬を隠すために。




~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~




 お昼ご飯を外に食べに行くことにした。彼らが滞在してからもう四日目となる。流石に買ってきていた食材も切れてしまい、買い物ついでにファミレスに寄ることにした。行き帰りの車は鈴華さんが運転している。中々に上手な運転で、乗っていても不安にならない。僕が自分の車を運転する時は、終始不安でたまらないのに。彼のその表情は不安なんてものを感じていないようだった。


「お昼時だから客が多いっすね」


 身体を伸ばしながら店の中に入ってきた鈴華さんが言った。確かにファミレスの中はごった返している。店員達が忙しなく動いていたが、幸いにも僕達の座れる席は残っているようだった。男女で別れて席に座り、それぞれ食べたい物を選んで注文していく。


「唯野せんぱぁい、ここのご飯奢ってくださいよぉ」


「自腹で払え。どうせ金使わねぇだろ」


「失礼な。これでも色々と使うんですよ? それに、女の子に払わせるとか甲斐性がなーい」


「俺はそうやって男に金を払ってもらうのが当たり前って考えてる女が大っ嫌いなんだ」


「同じく」


 腕を組んで唯野さんの言葉に頷いている鈴華さん。その二人を、こいつらマジで使えねぇみたいな表情で見ている藪雨さん。この三人はなんとなく仲が悪いように見える。一方、七草さんは大人しい。時折唯野さんと話しては、その可愛らしい容姿を更に際立たせる笑顔で周りの人を魅了している。アレは天然物だろう。彼女の将来が恐ろしいものだ。あれでまだ成人していないのだから。


「世の中には彼氏からのクリスマスプレゼントを次の日にネットで売る女がいるらしいですよ」


「えっ、何それは。こういうのがあるから女は怖ぇんだよなぁ……。もっと好意を大切にしてるということを行為で示して、どうぞ」


「わ、私はそういうことしないよ! 氷兎君がくれたヘアゴム、ちゃんと大切に持ってるもん!」


「七草さんはそのままでいてくれ……」


「現代にあるまじきナイスバディ&清らかな心。崇めて差し上げろ」


 唯野さんは懇願するように彼女を見上げ、鈴華さんは両手を合わせて拝んでいた。それを恥ずかしそうに手を振って辞めるように言う七草さんと、それらをシラーっとした目で見つめている藪雨さん。最初に見た時は、藪雨さんは猫を被っている気がしていたが、今の彼女の態度は素の物なのだろうか。やはり人の心というのはわかりかねる。


「林田さんもコイツ見て何も思いませんか? 絶対コイツ貰ったプレゼント即売り捌く奴ですよ」


「天パせんぱい、本人を目の前にして言って良いことと悪いことがあることを知ってますか?」


「お前にゃ話しとらん」


 猫の威嚇みたいに怒っている藪雨さんをスルーする鈴華さん。流石にソレをスルーするのは僕にはできない。というか、彼女と一緒にいることは僕にはキツい事だ。大人は皆、仮面を被って生活する。それは僕にも当てはまることだ。彼女はきっと、その仮面を早い段階で身につけてしまったんだろう。外せなくなってしまったのかもしれない。今は剥がれかけているが……。まぁ、僕が気にすることではないか。


「そうだね……。そういった人が居るということを、信じたくはないものだよ。人の好意を踏み躙ることじゃないのかな、それって」


 もっとも、好意もなにも、好きということすらよく分からない僕には大きな事を言えたものでは無い。クリスマスプレゼントを送った男は、確かに女を好いていたんだろう。でなければプレゼントを贈らない。だが、女は? 彼女は男を好いているから一緒にいるはずなのだ。なら何故? 何故プレゼントを売り払ってしまうのだ。そこにはちゃんと、『愛』が込められているはずなのに。


 それとも、女性にとって『愛』とはくだらないものなのか? もしくは、女性はただその一瞬を寂しく思わないために男を隣に連れるのだろうか。好きでも愛してもいない相手を。その日彼氏と一緒に過ごしたという実績の為に。


「……女の子にとって、男というのは飾りでしかないのか?」


 呆然と呟かれたその言葉に答えたのは、藪雨さんだった。彼女は少しだけ眉をひそめながら、いつもよりも心做しか低い声で言ってくる。


「そういうものと考える人もいます。だって、男にだってそれは言えるでしょ? 身体目当ての男なんてそこら辺に沢山いる。女だから、男だから。そんなもの関係ないんですよ」


 彼女には似つかわしくない声が聞こえてくる。歪んだ表情だった彼女は、ゆっくりとその表情を戻していき、やがて満面の笑みのまま口を開いた。




「人間総じて、皆クズですから」




 軽快な明るい声で言われたその言葉は、しかしズッシリと重くのしかかってきた。しばしの間、沈黙の間が流れるが、それを断ち切るようにして唯野さんが口を開いた。


「確かにな。どうしようもないくらい、クズな人間がいる。本心を隠して、人を欺く輩がいる。道理も道徳観も捨て去ったクソ野郎がいる。けどよ……誰も彼もが、そういった人じゃねぇよ。そんな環境にいても、足掻いていた人を、俺は知ってる。周りに誰も味方がいなくても、それでも他人の為に何かをできる人になりたいと願った人がいる。その人を見て、人間って捨てたもんじゃないって俺は思ったよ」


「……馬鹿みたい」


 藪雨さんが鼻で笑ってからそっぽを向いた。鈴華さんはその言葉に軽く頷き、七草さんは少しだけオロオロとしていた。


 彼らには彼らの生きてきた道がある。その途中で得た経験を、そう簡単には捨て去ることが出来ない。裏切られた人は、今後も誰かが裏切るのだと不安に思うだろう。人の綺麗な部分を垣間見た人は、人の善性を信じる心を捨てきれないだろう。全てが悪い人間ではない。言い換えれば、全てが良い人間な訳が無い。折り合いをつけなければならないのが僕達の世界なんだろう。


「……はぁ。藪雨、デザートくらいは奢ってやる」


「しょっぱいですね」


「デザートは甘ぇよバカタレ」


 唯野さんがデザートを奢ると言うと、藪雨さんは少しだけ機嫌を戻したようだ。僕から見て彼は渋々といった様子だった。おそらく、仕事仲間と劣悪な関係になりたくないからだろう。お金でどうとでもなるのなら、それでどうにかしてしまうのが楽なのかもしれない。


「……あれ、扶持?」


 ふと、聞き慣れた声が背後から聞こえてきた。いきなりのその声に驚き、しかしそれを悟られないようにゆっくりと背後を向くと……そこには、紗奈が立っていた。その隣には、彼がいる。柔らかな笑みを浮かべた彼が。返事をしなくては。しかし話そうとしても、中々喉から声が出なかった。


「……や、やぁ紗奈。こっちの人達は……」


「ども、友人の鈴華です」


「同じく唯野です。こっちは七草で、こっちは黒猫のジジィです」


「ジジィじゃなくて藪雨ですっ。私そろそろ怒りますよ!」


「は、初めまして……」


 どう説明したものかと一瞬悩んだが、鈴華さんが率先して自己紹介をしてくれた。友人……という括りでいいのか、迷ったのだ。仕事仲間という訳でもない。本当に、不思議な縁で繋がった人達なのだ。それらを見た紗奈も、温和な笑みを浮かべて挨拶してきた。


「どうも、扶持の幼馴染の月見つきみ 紗奈です。こっちは、今お付き合いしている彼……」


狩浦かりうら せんです。お久しぶりですね、林田さん」


「……お久しぶりです。お変わりないようで」


 当たり障りのない言葉で僕は彼に返事を返した。狩浦さん。それが、紗奈の彼氏。彼女が好きになった人。確かに、人受けの良さそうな顔つきだし、仕草もガサツでない。優しそうな男性だ。それは前に見た時から何一つ変わりない。


 紗奈も、隣ではにかむ様に笑っていた。その笑顔が、どうにも僕の心を締め付ける。また気持ちの悪い感情が湧き上がり、中で暴れ回っていた。その醜いモノを押さえつけるように、僕はお冷を一気に飲み干した。少しだけ落ち着いた気がする。


「お友達、増えたんだね。外でも仲良くやれてるみたいで、私安心したよ」


「ハハハ、まぁ、ね……」


「林田さんのご友人は皆綺麗だったり格好良かったりと凄いです……ね」


 少しだけ、狩浦さんの目が止まった。その目線の先にいるのは……唯野さんだろうか。彼を見た時、狩浦さんの顔が少しだけ強ばった。知り合いだったんだろうか。彼は少しだけ急かすようにして紗奈の腕を引いた。


「紗奈、邪魔しちゃ悪いし席に着こう」


「そ、そうだね……。またね、扶持」


 昔のような男勝りな性格なんて見せず、彼女は慎ましい女性のまま狩浦さんに着いていく。僕は引き止めることも何もせず、ただ二人が手を繋いで歩いていく姿を見つめていた。それらを見ていた藪雨さんが口元をニヤリと歪めて茶化してくる。


「ひぇー、格好いいですね……。あれが林田さんの好きな幼馴染さんですか。あの人もなんだか可愛いですねぇ。けど彼氏がいるし……略奪愛……?」


「……そんなことはしないよ。彼女は幸せそうだし、第一僕は彼女を好きじゃない」


「え、でもこの前は恋をしてるって……」


「恋なんかじゃないよ。これは、きっと……恋なんかじゃない」


 藪雨さんの言葉を、僕は否定した。こんなに汚いものが恋であってはならない。恋とはきっと、もっと綺麗なもののはずだ。もっと甘酸っぱく、そして苦い。こんな泥のように汚いものが恋であってはならないのだ。


 わからない。『好き』とは、『恋』とは、『愛』とは。


 それらはどういったものだ。どこから生まれてくるのだ。どのように消えていくのだ。理解出来ない。理解したい。けど理解したくない。


 誰か答えをくれないか。それが出来ないのなら、いっその事……こんな汚い感情を、消し去ってはくれないか。


 彼女に恋をしていた。それは好きだから恋をしたのか。では何故彼女を好きになった。それはきっといつも隣にいてくれたから。では、好きとは長い時間を過ごした人のことを言うのか。それはきっと違うだろう。


 世間は僕の小説を評価する。悲しい失恋の物語だと。その作者が失恋どころか恋すら知らぬとは……。笑える話だ。


 もしかしたら……この世界には『恋』や『愛』なんてものは何の意味も持たず、都合のいい表現として使われているだけなのかもしれない。


 彼女達とすれ違う様に運ばれてきた昼食を、口の中へと運んでいく。何故だろう。味が薄くて美味しくなかった。





















「……氷兎、どうかしたのか?」


「いえ……なんとなく、変な感覚があったので」


「狩浦か……。どう思う」


「……グレー、ですかね」


 嫌な感覚が何であるのか、大体わかってきていた。それは恐らく、日常からかけ離れたものに感じるものだ。彼も何かを感じたに違いない。あの日から俺の中に住みつき始めた何かを。





To be continued……

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